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第76話 対決、稲荷の神使

 体長2メートルはあろうかというその狐は、ぼんやりと光る赤い目と、鋭い牙が特徴的であった。ただ一点、左目から血のような涙が流れているのは、伝承におけるおとら狐の風貌そのままと言えるだろう。


 そもそもおとら狐とは、かつて長篠城の鎮守を任されていた稲荷の狐が祟ったものとされている。お太郎と名乗っているのは、冗談なのか、それともあやかっているのかは不明だ。


 猫田が巨大な猫の姿になった時はもっと大きいので、狛がサイズで威圧されると言う事はない。とは言っても、目の前の狐も、狐にしては遥かに巨大だ。狐らしい鋭い爪と牙は、このサイズであれば十分な脅威である。油断は出来ない。


 低い唸り声をあげるおとら狐は、狛達を見据えながらその場を動かずにいる。狛とレディはじりじりと後ろに下がって少しだけ距離をとった。


「おやまぁ、二人とも意外と冷静やな。わしのおとら狐を見たら、力のあらへんものは発狂するか恐怖で気ぃ失うかくらいはするものなのに。レディちゃんはともかく、犬神ちゃんは意外やなぁ」


 大寅はにこやかに笑みを浮かべているが、そんなものを生徒にけしかけるなど、正気の沙汰ではない。本当に、狛やレディの気が触れたらどうするつもりだったのか。狛はこれまでイツが警戒していたというのに、宿主である自分が警戒を緩めてしまった事も含めて、若干八つ当たり気味ではあるが大寅に対する怒りがふつふつと湧いてくるのを感じていた。


「先生!一体何を考えてるんですか?こんな事をして、許されるとでも?」


「んー、そう言われても、一般論で正しい事を言うてるのんはわしの方やわぁ。レディちゃんはちょい危うい所があるさかいね。キミもその狙いに含まれてるの、解ってるやないか?さっきも聞いたけど、何でキミがその子ぉ庇うのか、解らへんで。ちょい痛い目見して、するのが一番とちがうかな」


 教師らしからぬ物言いではあるが、確かに大寅の言う事にも一理はある。レディの本業は暗殺者、殺し屋だ。何より狛は、その殺す対象に入っている。もっとも狛はレディの詳しい事情を知らないので、レディが殺し屋であることはおろか、どうして彼女がそんなに危険な思想を持っているのか、何故死体を操れるのかなどは知る由もない。

 だからこそ、狛はレディとの間に些細な行き違いがあったのだと考えている。それさえ解消出来れば、普通の友達にだってなれると狛は本気でそう思っているのである。


「そんなの…レディちゃんはですから!…この間はよく解らなくて怒らせちゃったけど、きっと話せば解ってくれます!」


「友、達…?私と、狛が…」


 狛の本音を聞いたレディは囁くように呟いて、動揺していた。彼女にとっての友達とは、死体になった人形のみ…まさか生きたままの自分と狛がそんな関係になれるなど、考えもしなかったらしい。


「ああはあ、綺麗な友情やな。そやけど、その子ぉはそないなええもんとちがう思うけどなぁ。まぁ、ええわ。一応大人として、教師として道を誤った生徒に道理を教えるのんは役目やさかいね。やっぱし見てみひんフリは出来ひんよ。先生に逆らうキミもね、…しゃあない、連帯責任と行こか」


 大寅はやれやれと首を振って、パチンと右手の指を鳴らした。すると、それまで身動ぎもしなかったおとら狐が、ゆっくりと前に出てにじり寄ってきた。それに合わせてさらに後退する二人だが、既に教室の半分以上を過ぎていて、追い詰められるのは時間の問題だ。


「レディちゃん、私が前に出たら教室の外に走って。逃げるが勝ち、だよ」


「にげる…escape?」


「う、うん、そう。…たぶん」


 狛はあまり英語が得意ではないので、レディに言いたい事が伝わっているのかが少々不安だ。だが、さきほどの手合いでレディの力が大寅に通用しない事は解ったはずだ。何より狛の見立てが正しければ、大寅の力は目前のおとら狐だけではない。もっと別の、強い力を持っている…そう確信していた。


「行くよ!」


「ん?」


 狛が叫んで飛び出すと同時に、レディは教室後方の扉へ駆け出した。逃げる作戦というのはちゃんと伝わっていたらしい。向かってきた狛に向かい、おとら狐は容赦なくその爪を振るう。しかし。


「イツ!一犬剛陣!」


 狛の合図と共に霊力を受けて大型化したイツが前に飛び出して、おとら狐の前足ごとその爪を弾く。さらに間髪入れずに、おとら狐の喉元に、イツはロケットのような勢いで強烈な頭突きを打ち込んだ。


「ケェェェッ!」


「入った!よしっ…!」


 狐特有の高音で叫びを上げつつ、おとら狐は体勢を崩して後退した。これでレディが逃げる時間くらいは余裕で稼げたはずだ。さすがにまだ人目もある学校内で、追撃はないだろう。後日が怖いが、それはそれで後から考えればよい。

 ところが次の瞬間、狛の目論見は脆くも崩れ去った。レディが後方の扉を開けようとしても、びくともしないのである。


「開かない、why!?」


「残念やなぁ。そう簡単には逃げられへんで。そやけど、犬神ちゃんのそれ、狗神やんな?まさかこないな所に狗神憑きがおるとは…ああ、そうか、犬神ちゃんて、あの犬神家の副当主なんやったんな。そうかそか、今時もう狗神なんて絶滅してる思うとったけど、そういやまだおったんやったなぁ」


 大寅は頷いて、イツの姿をじっと見つめ、笑っている。おとら狐は本来、狗神と同じく人に憑りついて祟る存在だが、それを憑りついた人から解放する方法として伝えられているのが、犬神によっておとら狐を食わせるという憑き物落としの呪法である。つまり、イツはおとら狐の天敵なのだ。


「…私の家の事、知ってるんですか?」


「ああ、よーく知ってんで。うちのとは無縁でもあらへん間柄やし。そもそもキミのご先祖は陰陽師やろう?京都の業界人で知らへん人間なんてへんで。だしね。そういや、大昔にこっちに移り住んだって聞いとったな、忘れとったわ」


犬神家うちのが、本物…?それ、どういう…」


「いやいや、そんなんなら手加減なんてしてる場合とちがうね。ちょい本気でやらなあかんわ。久し振りやなぁ…こう言うちゃなんやけど、わしもおとら狐も血ぃ騒ぐで。なんせ狗神と勝負するなんて、滅多にあらへんことやさかいね」


 大寅は狛の疑問など聞いていないようで、ウキウキとした顔をして何かを呟き始め、その手で様々な印を組み始めた。


「掛巻も恐き 稲荷大神の大前に 恐み恐みも白く 大神の厚き弘き 恩頼に依て 家門を令起賜ひ令立栄賜ひ 夜の守日の守に守幸へ賜へと 恐み恐みも白す」


「祝詞…お稲荷様の?この人、やっぱり…!」


 狛がそれに気付いた時、大寅はニヤリと笑って狛の顔を見た。そして急に真剣な顔つきに変わり、さらなる印を切る。


「ほいさぁっ!!」


 大寅の掛け声が響いた瞬間、辺りはだだっ広い岩だらけの空間に変わっていた。これは確かに現実だが、どこかに転移させられたわけではない。レディも狛も、辺りを見回している。


「What is…!?私達、教室にいたはず…」


「疑似神域だ。初めて見た…」


「お、さすが犬神ちゃんはよう知ってるなぁ。そや、ここはわしが作った仮の神域や。仏様の金剛界とまではいかへんけど、それなりに頑丈やさかいね。ここならどれだけ暴れても問題あらへんって寸法や。凄いやろう?」


 神域は本来、神が治める領域を指すものだ。ここで言う疑似神域とは、祭神たる神…大寅の場合は稲荷神であるが、その名と力を借りて現実の土地を塗り替え、一時的に全く別の空間を生み出す技術である。妖怪や怪異が作りだす異界化と似ているが、力の性質が真逆である。


 ここに引き込まれたということは、神域の主の了解を得なくては、中からも外からも出入りすることは出来ないということだ。つまり、大寅をどうにかしない限り、逃げる事などできないのである。


「さあて、それじゃ改めて宇賀之御魂命うかのみたまのみことが神使、大寅狐太郎の本気…見したろうやん。精々頑張っとくれやっしゃ」

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