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第77話 一進一退

 眼前に広がる景色は、大小様々な岩や石が転がる、殺風景な景色であった。


 煌々と太陽が頭上に輝いているが、暑さは感じない、もちろん寒さもだ。それどころか微風が吹いていて体感は心地良いくらいである。ここならいくら暴れても問題ないと大寅が語る理由がよく解る。見える範囲に木や森はなく、自然そのものではあってもここには生き物の気配が一切ないのだ。

 まさに戦う為に設えた場所、そんな雰囲気であった。


 すっかりその気になっている大寅とは裏腹に、狛は冷や汗を一つ垂らして考え込んでいる。


(まいったなぁ…九十九つづらは教室に置いてある鞄の中なのに。こんなことになるなら、鞄を持って歩くんだった)


 大寅は、狛が九十九という付喪神を使う事で、真の全力を出せるという事を知らない。単なる狗神憑きの人間としか思っていないのだ。九十九無しでも、狗神走狗の術を使う事は出来るし、それが狛の全力である事に変わりはないのだが、やはり片手落ちであることは否めない。だが、今からそんな事情を説明しても大寅は狛達を解放してくれないだろう。


 正直に言って、疑似神域まで作り出せるほどの実力者を相手に、九十九無しで挑むのは無謀だと狛は思う。一応こちらにはレディがいるので、二対一ではあるのだが、大寅が神の力…すなわち神性を宿しているのなら、死体を操るというレディの力は無力に等しい。

 なにしろ穢れを払う力に長けているのが、日本の神々の特徴の一つだ。例え神であっても、死を翻す事は軽々には許されない。それは日本の神話におけるイザナギとイザナミの逸話を見ても明らかだろう。


 レディの操る死体がかき消されてしまったのも、それが原因だ。穢れそのものを払い去る事で、死体達は消滅させられたのである。

 となればやはり、狛が自らの力で戦う他に術は無さそうだ。


「安心してええわぁ。この神域の中で大怪我を負うたかて、現実に戻ったらなかった事に出来るさかいね。ただし、痛みは消せへんさかい、死ぬほど痛いやろうけど…まぁ、お仕置きだしね」


 大寅から、何一つちっとも安心できない言葉が投げられた。彼は自分が負けるとは微塵も思っていない、まさに余裕綽々だ。狛はレディの傍に寄って手持ちの霊符を一枚手渡した。


「レディちゃん、これ、持ってて。結界符と雷撃符…レディちゃんの霊力なら、ちゃんと発動させられると思うから。結界符は一度きり、雷撃符は一応何度か使えるけど…無理しないでね。出来るだけ、先生は私が何とかするから」


「Wait.…狛、どうしてそこまでするの?私、あなたを殺そうとしたのよ?今だって…」


「…レディちゃん、大丈夫だよ。私をその…襲ったのだって、何か事情があるんだよね?私、解ってるから。それに私、本当に友達になりたいんだ。レディちゃんと…だから、見ててね」


 狛は微笑んでから、レディに背を向け大寅と向き合った。イツはすっかり戦う気満々で、狛の隣で睨みを利かせている。


「作戦は決まったみたいやな?ほな、始めよか。わしもおとら狐も待ちきれへんわ」


「イツ、行くよ!」


 狛の合図で、イツが駆ける。おとら狐は2メートルほど、イツは1メートルと少しと、体格に差はあるが、そこまで絶望的な差ではない。なによりパワーでは負けていないし、スピードならイツの方がわずかに上だ。

 駆け出したイツに向かって、おとら狐もまた走り出す。同じ攻防を繰り返す事になるかと思われたが、今度はそうはいかなかった。


 おとら狐は向かってきたイツに対し、鋭い爪を伸ばした右の前足を振り下ろす。先程よりも速く、体重の乗った重い一撃だ。イツはそれを無理に弾き返そうとはせずに、急ブレーキをかけて一瞬止まると、その足を潜るように左へ飛びこんだ。勢いよく空振ったおとら狐の右側面から、イツは渾身の一撃とばかりに牙を突き立てようと突撃する。


 だが、おとら狐はそれを読んでいたように頭だけをイツの方に向け、その口から猛烈な火炎を吐きかけた。


「イツ!?」


 イツは咄嗟に霊力を込めた唸り声を上げ、瞬間的にその火炎を打ち消して横に跳んだ。イツが得意とする退魔の遠吠えはある程度の衝撃力を持っているが、迫りくる猛火を打ち消せたのは一瞬だけだ。イツは炎の直撃だけは避ける事が出来たものの、飛び退った際に横腹へ受けて、少しだけ身体が焦げていた。


「やるやん。おとら狐の炎を一瞬でも食い止めるなんて大したものやわぁ。さすが、犬神家の使うは格がちゃうね。こう見えて、わしのおとら狐は主様の力で強化されてるんやで」


「くっ…!イツ、炎に気を付けて!」


 狛が霊力を送り込むと、みるみるうちにイツの身体の焦げは消えた。だが、今の攻防はイツの負けだ。あれほどの炎を溜め無しで吐けるとなると、防ぎきるのは相当難しい。今のように一手上回るだけでは、あの炎だけで簡単にひっくり返されてしまうだろう。


(やっぱり私が…でも、本当に今でいいの?)


 狛が迷っているのは、狗神走狗の術をどこで使うかだ。あのおとら狐を倒すだけなら、狗神走狗の術を使えばそう難しい事ではない。しかし、狛は大寅がまだ奥の手を残していると直感で気付いている。九十九無しで人狼化するとなると、霊力の無駄な消費が大きく狛は長時間戦えない。

 鍛錬は続けているし、少しずつ成果は出ているのだが、それでもまだ単独で安定して戦えるほどの腕は、狛にはないのだ。


 それでもどこかで、狗神走狗の術を使わねばならないタイミングは来るだろう。その時を見極めるだけの経験が、狛には圧倒的に不足している。


(大したもんやな。今のダメージを瞬時に治したのも相当な霊力や霊気の量がなかったら出来ひん芸当や。よう鍛錬を積んでる証拠やな。それにあの目…どうやらなんか切り札がありそうやけど、こっちのにも薄々感づいてるみたいや。まだ若い娘っ子ぉやのに、こら末恐ろしいわ)


 この状況を楽しみ、余裕を見せている大寅も、腹の中では狛に一目置いているようだ。それでもまだ余裕の表情を崩さないのは、奥の手の存在と経験の差が大きく影響しているのだろう。彼はこう見えて、京は伏見稲荷の祭神、宇賀之御魂命うかのみたまのみことに直接仕える退魔士の一人である。

 犬神家と同じく陰陽師を祖先に持ち、関西を中心に今も現役で悪霊払いや妖怪退治に赴いている。狛達と違うのは、彼は神使であり、自らが主様と呼称する宇賀之御魂命うかのみたまのみことの命令でのみ動くと言う点だ。

 一般人からの依頼や頼みごとを引き受けて活動することは、ほぼない。そういう事もあってか、今回のように自発的に戦う事などほとんどなく、少々テンションが上がっているようだった。


 その後も何度かイツは攻撃を繰り返したが、その度におとら狐の火炎や目くらましの妖術などに阻まれ、効果的な一撃には至らなかった。逆に、イツが反撃を受ける度に狛が霊力で傷を癒しているので、段々と狛の力は削られている。


(この人、やっぱり強い。このままじゃ勝てない…やるしか、ない!)


 狛はイツを隣に引き下げ、大きく深呼吸をして霊力を整えた。九十九無しでの狗神走狗の術は、精々数分程度が限界だ。その間におとら狐を無力化し、大寅が隠している何かを超えて勝利せねばならない。かなりキツイが、やるしかない。


「よし…イツ!」


 狛が合図を送ると、イツは大きく吠えていつものように背中から狛の身体に飛び込んで行く。全身に青白く輝く霊気を身に纏い、同じ色の耳と大きな尾を生やすと、目にも留まらぬ速さで駆け出した。


「な、なんやっ?!」


「あれは、あの時の…!」


 狛の変貌に大寅は驚き、レディは自らを退けた時の事を思い出して思わず拳を握った。特にレディは、ずっと何も出来ずにただ傍観しているだけだったが、狛の本当の力を目の当たりにして興奮し、前のめりになってその姿に見入っている。


「おとらっ!」


 たじろいだ大寅は、即座に気を取り直しておとら狐に指示を出したが、その時既に、狛はおとら狐に肉迫している所だった。その一瞬で対応し、あの火炎を吐きかけさせただけでも瞠目に値する素早さだ。おとら狐の鼻先にいた狛は、その火炎を避ける事も出来ず、まともに直撃した…かに見えた。


「なんやと!?」


 その動きを読んでいた狛は、自らの尾に霊力を溜め込み、全身を覆う盾にしていた。まるで海を割ったかのように炎は逸れて、狛の身体には全く当たっていない。


「はあああああああっ!!」


 炎を防ぎきった狛は、それに合わせて右手に渾身の霊力を込め、おとら狐に強烈なアッパーを喰らわせる。爪を立てなかったのはおとら狐を殺す事が目的ではなかったからだが、それでも相当なダメージのはずだ。

 避ける間もなく強打を喰らったおとら狐の歯は砕け、その身体は高く吹き飛ばされている。畳み掛けるならここしかない。


 狛は間髪入れずに走り出し、大寅に接近した。おとら狐に放ったのと同じ一撃を喰らわせるわけにはいかないが、当身の一つくらいは許されるだろう。大振りせず、力を抜いて小さなモーションで一発入れようとしたその時、大寅は待ち構えていたかのように笛を吹き、それに合わせて狛の足元からスルスルと紐のようなものが這い上がり、あっという間に狛の身体を締め上げた。


「う…!ああっ!?」


「な、なによ、あれ!?」


 紐のようなものの先端には狐の顔があり、小さいが極めて鋭い目つきをしている。これこそが大寅の奥の手、管狐だったのだ。

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