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第98話 無間地獄

「狛…?おい、狛っ!どうしたっ!?くそっ!口寄せが通じない…っ!」


 本殿に設けられた、簡易祭壇の前に座っていた拍が、焦って声を荒らげている。その横には、メイリーの身体が布団ごと移動させられて眠っており、傍には玖歌とレディ、そして桔梗が固唾を飲んでその様子を見守っていた。


「拍、どうかしたのか?狛になにか…」


 桔梗が恐る恐る声をかけると、拍は苛立ちを隠さずに口を開く。


「狛が、ヤマ…閻魔大王に接触した。そして、地獄の深い階層に落とされたようだ。口寄せの術も届かなくなってしまった。やはり、俺が行っておけば…!」


「な、なんだって?ヤマ様がそんなことを、どうして…」


「…こうしてはいられない。俺も地獄に行く!桔梗さん、後を頼む!」


 立ち上がる拍の腕を桔梗が慌てて掴み、力一杯制止した。


「放してくれ!これ以上、狛を危険な目に遭わせるわけにはっ…!」


「落ち着くんだ、拍!君がこの場を離れて行ってしまったら、狛が帰ってこれなくなってしまう!君は狛が帰る為の道しるべでもあるはず…君がそういう術を組んだんだろう。落ち着いてくれ、頼む…」


「っ!だが、口寄せが届かないほど深い地獄の階層となると、無事でいられるとも…」


「狛なら大丈夫だ、あの子は君が思っているよりもずっと強い子だ。きっとなんとかなる…頼む、拍。堪えてくれ」


 桔梗の必死の願いを受け、拍は多少冷静になったようだ。狛の事になると頭に血が上り易い兄ではあるが、桔梗の言う通り、今の彼の役目は地獄における狛のサポートと帰還術の主軸である。拍が狛に用意した緊急用の帰還術は、どんな場所からでも、一瞬にして拍の元に戻って来られるという空間転移術の一つだ。

 その術は、かつて戦ったカメリア王国のマキと呼ばれる魔法使い、ギンザやサハルが使用していたものと同じである。魔法と言って差し支えない術だが、術式はカメリア国王から提供されたものだ。拍が解析した上で独自に多少の改良を加え、魔力ではなく霊力で起動できるようにし、転移先を指定できるようになっている。


 今回の場合、転移先を拍に指定してある為、拍が移動してしまうと何処にいてもそこに飛んでしまう事になる。もし仮に拍が狛を助けようと地獄に乗り込んだとして、その時狛が転移をすれば、地獄に二人が取り残されることになるだろう。それでは本末転倒もいい所で、何の意味も無い。

 つまるところ、拍はこの場で待機する他ない。桔梗の言葉は正しい、狛はそこらの素人ではないのだ。本当にピンチになれば、すぐに帰還してくるだろう。ただし、残り時間的に、その場合はメイリーを諦めることになるだろうが。


 拍はしばらく考えた後、祭壇に向かって狛の無事を祈る事にした。祭壇に設置された蝋燭の炎は風もないのに激しく揺れて、室内を怪しく照らしている。



 一方、その頃、狛は見知らぬ場所で目を覚ました。


「うう…ここ、は?」


 辺りを見回すと、そこは途轍もなく広く、そして血生臭い場所だった。あちこちに血だまりがあって、鉄臭い血の臭いと腐った血肉の臭いが混じって充満している。空を見上げれば、相変わらず赤黒く淀んだ空に見えるが、さきほどまでいた場所よりも、更に昏く見えた。

 ここがどういう場所なのか狛には解らなかったが、とても状況がいいとは言えなさそうだ。

 狛はすぐに立ち上がると、血だまりを避けながら歩いて、離れた所にある大きな岩の陰に隠れた。桃の木剣は微かに震え続けていて、ずっと何かに反応しているようである。


「お兄ちゃん!お兄ちゃん聞こえる?…ダメか、反応がないや」


 神楽鈴に向けて声をかけてみても、まったく応答はない。あの狛を溺愛する兄が返事をしないということは、本当に聞こえていないのだろう。狛は岩に頭を乗せて、溜息を吐いた。


「これからどうしよう…メイリーちゃんの所に行くにはどうしたら、というか、ここは地獄のどの辺りなのかな」


 地下に落とされたのであることは予想がついた。ただ、のかが解らない。そもそも、どうやって上に戻ればいいのだろう。空を飛ぶことが出来ない狛には、それが大きな問題である。


 何より気になるのは、後どれだけの時間が残っているかだ。


 拍から聞かされた時間は翌朝までのおよそ12時間…地獄に入ってから閻魔大王に会うまで、体感では一時間ほどかかった気がする。それであれば残り11時間だが、地下に落とされて目を覚ますまでにどれだけ時間が過ぎたのかが解らない。これが痛い。


 もしかすると、既に12時間が経過しているという可能性もゼロではない。なにしろ地獄には昼も夜もないのだ、その辺りは拍のサポートを当て込んでいた事が、余計に事態を深刻にさせている。


(一旦帰ろうか…?いや、でもこの帰還術は一度しか使えないし、次をすぐに用意するのも難しいって言ってたし…)


 拍の用意した緊急帰還術は、拍が自ら用意した特別製だが、それは今回の為に用意したものではないらしい。元々、カメリア国王から提供された技術を応用し、拍が自分達にも扱えるように改良したものだ。云わば、試作品である。時間をかければ量産できるだろうが、現時点では一回分しか用意がないと拍は言っていた。そうであるならば無駄遣いは出来ない。仮に一度退却しても、これが無ければメイリーを助けにいくのは難しいだろう。結局の所、彼女を助けたければ、ギリギリまで動き続けるしかないのだ。


「…私が弱気になってちゃダメだよね。限界まで、ギリギリまであがかないと!」


 頬を叩いて気合を入れ直す。目下の目標は、上に登る手段を考えることだが、それをどうしたものかと考えていた時、それは訪れた。


「な、なに…?この音」


 地響きのような音と振動が、狛の身体を揺らしている。気付けば、桃の木剣は先程よりも強く震えて、その存在を報せているようだ。狛が岩陰から音のする方をみると、そこには緑色と黒の斑模様の肌をした巨体の鬼が歩いてくる所だった。


「大きい…!」


 狛が驚くのも無理はない。その鬼は十数メートル…いや、それよりもっと大きい巨大な鬼だったのだ。手には何人もの亡者を抱え、悍ましい事にそれらから舌を引き抜き、丁寧に身体に針を突き刺している。そして最後には、巨大な鉄槌で身体を潰され、亡者は死んだ。そうして傷つけられる亡者達の断末魔の叫びが、狛の心を強く抉っていた。

 そして、見てしまった。見て理解してしまった。先程避けて歩いたあの血だまりは、拷問を受けた挙句、その身体を鉄槌で完全に潰された亡者の残骸だったのだと。


「うっ…!」


 思わず吐き気を催したが、すんでの所で堪える。ここは地獄、冥界だ。ここでは持ち込んだもの以外飲食はできない。黄泉戸喫よもつへぐいを避ける為だ。それは現世とあの世におけるルールの一つである。あの世の食物を口にしたものは現世に帰れなくなるという、シンプルなものだ。

 いくら緊急帰還術を使っても、帰れなくなるようでは困るのだ。もしこのまま嘔吐してしまえば、体力と水分をごっそりと失うだろう。それは避けねばならない。


 心と体を強くもたなければ、地獄から生還など出来はしない。それを強く肌で感じて、狛は必死に堪えていた。


 体感で十数分ほどすると、巨躯の緑鬼りょくきは運んできた亡者を殺しきってしまったせいか、再び立ち上がり、ゆっくりと歩いてどこかへ去って行った。狛は大きく息を吐いて、岩陰からその行き先を確認する。


「追いかけてみようかな…」


 あの鬼がどこで亡者を集めてきたのか解らないが、運んできたのはかなりの人数だった。あの巨体で、ちまちまとその辺にいる亡者を一人ずつ拾い集めたとは考えにくい。であるならば、どこかに亡者が大勢集まっている場所があるのだ。もしかすると、そこから上に登る手段か、そのヒントだけでも見つかるかもしれない。

 どの道何も手掛かりがない状態なのに変わりはないので、狛は一か八か、あの鬼の後を尾行することにした。


 そうして、しばらく歩いてみて気付いたが、どうやらここにはいくつかの地形が存在しているらしい。


 狛が最初に目を覚ました、緑鬼が亡者を拷問して殺害していた広場のような地形の他に、遠くには刀で出来た山が見える。また、所々に剣が葉の代わりに生えている樹があったり、煮えたぎる湯の池も確認できた。恐ろしいのは、そのどれにも一定数の亡者達がいて、断末魔の苦しみを叫んでいる事だ。

 これらはまさに、狛が教わってきた地獄の光景そのものであった。


 歩きやすい場所を選びながら移動している時である。狛の耳に、これまでとは違う声が聞こえたのだ。


「何?今の…子供の声?こんなところに」


 この地獄に来てからというもの、聞こえてくるのは大人の男女が叫ぶ悲痛なものばかりだった。考えてみれば、親より先に死んだ子供が行くのは賽の河原であり、他の地獄に子どもがいるというのは、罪によって行き先が決まるという地獄の性質から言ってあまり考えられない。

 狛は無性に気になって声のした方へ行ってみると、そこにはまだ幼い小さな子どもが一人、人の背丈とそう変わらない赤い鬼に追い立てられているのだった。

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