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第99話 後先を考えず

「鬼…と、やっぱり子どもだ。どうしてここに?」


 鬼はまるで遊んでいるかのように子どもを追っているようだった。まだ年端も行かず、走ったりするのが覚束ないその子供は、何度も振り向いて追ってくる鬼を確認しながら、何とか逃れようと必死に走っている。だが、あれでは直に追い付かれるのも明らかだ。それが解っているから、あの鬼は歩いて子どもを追いかけているのだ。


 どうするべきか、狛は迷った。常識的に考えれば、助けるべきでない事は理解している。一刻も早く上に登らなければならないし、時間がないのだから、他人に構っている暇もない。そもそもこの地獄に来た当初、拍から言いつけられた通り、ここにいるのは罪人なのだ。

 あのような子どもであっても

 それを考えれば、助けようと考える方が間違っているのだろう。だが、どうしても狛には、あの子を見捨てようという気にはなれなかった。


 そうしている間にも、子どもは移動してしまう。だが、その行く先にあったのは、切り立った崖である。追い詰められた子供は崖の縁に立って、一歩ずつ近づく鬼に恐怖している。あれではいつ飛び降りてもおかしくない。


「…あー、もうっ!どうにでもなれっ!」


 狛はそう叫んで、一気呵成に飛び出した。刃の葉は頬をわずかに切ったが、そんな痛みなど気にしている余裕はない。


「…っ!?」


 突如現れた狛の姿に、赤鬼は狼狽し手に持った金棒を振り上げることすら出来ないようだった。狛はそれをチャンスと見て、走りながら人狼化して、横合いから思いきり鬼の顔面を殴りつけた。しかし、それに驚いた子どもが一歩だけ後ろに下がり、崖から足を踏み外してしまう。


「ダメッ!」


 狛は倒れた鬼の身体に九十九つづらの袖を伸ばして巻きつけ、それを命綱の代わりにして勢いよく崖から飛び降りた。ギリギリではあるが空中で子どもをキャッチする事が出来たのは幸運だったのだろう。なにしろ崖の下には無数の刃が天を向いて立っている。そこまで落ちていれば一巻の終わりだ。

 狛は冷や汗を掻きながら、抱き締めた子どもの横顔に安堵するのだった。


「あっぶなかったー…君、大丈夫?怪我はない?」


 すぐに九十九の袖を戻して崖の上に戻ると、狛は鬼が目覚める前に子どもを連れてその場を離れることにした。今は少し離れた場所にある岩陰に身を隠した所だ。子どもは少し怯えているものの、狛が自分を救けてくれたことは理解しているようで、黙って首を振っている。どうやら、怪我はないらしい。

 顔色が悪いのはこの子も亡者だからなのか、それとも恐怖によるものかは不明だが、とりあえず無事であるのは間違いない、一安心である。


「ああ、やっちゃったなぁ…どうしよう。後先考えずに行動するなって、いつも猫田さんやお兄ちゃんに言われてるのに…でもなぁ、こんな小さな子、見過ごすわけにいかないよ」


 狛はぼやきながら、自分の行動を振り返っている。鬼は地獄の獄卒…要は役人であり、管理者である。それを殴り倒してしまったとなると、その上司である閻魔大王を完全に敵に回す事になるはずだ。閻魔庁で出会った時に何か言っていたが、あれはこちらの不法侵入のようなものなので仕方がない。問題は、これからもう一度会った時である。

 罪人である亡者を助ける為に、自分の部下を殴り倒す人間の話など、はたして聞いてもらえるだろうか?下手をすれば問答無用でまた地獄の底に落とすかもしれないし、或いは見つけ次第、拷問にかけられる可能性だってある。

 なにしろここは地獄なのだ。その手の道具も場所も、それを行う鬼という人員も有り余っているだろう。そもそも先程の行動も、一歩間違えば真っ逆さまだったことを思い出し、狛はゾッとして頭を抱えていた。


 そんな狛の様子を、助けられた子どもはきょとんとした顔で眺めていた。いかにも子どもらしい、邪気の無い表情だ。こんな子供が地獄に落ちるなんて、通常ならばあり得ないことである。狛はその視線に気づき、この子に不安を与えないよう、努めて明るい笑顔を見せた。


「あー、ごめんね。私がこんなじゃ困っちゃうよね。君、お名前解るかな?自分の」


「…………イマ」


「イマ?それが君の名前?そっか、可愛い名前だね。私は狛っていうんだ、よろしくね」


 ひとまず名前を教えてくれただけでも、狛にはありがたいことだった。亡者というものは往々にして、自分がどこの誰であるか。自分の生前がどんな人物であったかなど、覚えていない事が多い。場合によっては、自分が死んだ事すら認識してないものもいるのだ。

 名前を聞かれて答えられるということは、それだけ自我がはっきり残っているということなので、ありがちな暴走なども起こりにくいはずだ。

 しかし、この先どうするべきだろうか。つい助けてしまったが、この子を現世に連れて行く事は出来ない。何故地獄にいるのかも謎だが、親もここにいるとは限らないだろう。仮に親がいたとしても、こんな場所では救いにはならないのだが。


「うーん…あ、そうだ。お水飲む?ちょっとしかないけど」


 じっと狛の顔を見つめているイマに、狛は帯の中に忍ばせていた竹の水筒を取り出し、手渡してやった。イマは恐る恐るそれを受け取って水を飲むと、驚いた顔をして震えあがってしまった。どうやら、死者に現世の水は刺激が強いらしい。その一口だけでもういらないと思ったようで、おっかなびっくりで狛に水筒を返してきた。


「ありゃ、嫌だった?そっか、ごめんね」


 大切な水ではあったが、合わないのなら仕方がない。とはいえ、仲良くなろうという意思は伝わったようだ。イマは再び狛の顔をじっと見つめているが、さっきよりも少しは表情が柔らかくなった気がする。


 外見から想像するに、イマは3歳か4歳といった所だろう。改めて思うが、こんな年端も行かない子どもが地獄にいる事は、基本的にはあり得ない。地獄というものは、非常に厳しい罰が与えられる場所ではあるが、それ以上に、犯した罪に対しても厳格な面がある。


 例えば八大地獄の一つ、等活地獄と呼ばれる地獄は、殺生を繰り返し、反省しないものが落ちると言われる場所だ。更にその先、黒縄地獄は殺生に加えて盗みを働いた者がそこに落とされる。逆に言えば、それらの罪を犯さなければそこに落とされることはない。つまり、こんな子どもが地獄に落とされるような事は、まずあり得ないのである。


 何かの間違い、手違いでここにいるのだとしたら、この子は閻魔大王の元で公平な裁判を受け直すべきだ。そうすれば、正しく輪廻の輪の中に戻る事が出来るか、或いは天国に行く事も出来るかもしれない。


(そうだよね。こんな小さな子が、地獄に落ちるような罪を犯すなんて思えないし)


 どうせ助けてしまったのだから、ここから先は一蓮托生だ。閻魔大王の元へ、この子を送り届けようと、狛は考えた。だが、その前に確認しておきたい事もある。


「イマ君、あなたのパパやママがどこにいるか、解る?」


「………」


 狛の質問にイマは黙ったままで答えない。両親はここにはいないか、どこにいるのか解らないのかもしれない。


「解んないか…じゃあ、お姉ちゃんはこれから偉い人に会いに行かなきゃいけないんだけど、一緒にくる?」


「…………うん」


 イマはしばらく黙っていたが、今度はハッキリと返事をした。本人の意思がそうであるなら、もう迷う必要はない。狛は笑顔でイマの小さな手を握ってみせた。


「そっか!じゃあ、一緒に行こう。…って言っても、ここからどうやって閻魔様の元に行けるのか、わかんないんだけどね」


 そう言って「たはは」と苦笑する狛に、イマは空を指差した。狛がそちらを見ると、遥か上空に何かが浮かんでいるのが見える。自分では気づかなかったが、赤黒い空の中で白く光っているそれは、明らかに異質だ。


「なんだろう?あれ。イマ君、あれが何だか知ってるの?」


「………」


 しかし、イマは答えない。ただ、何の意味もなく指差しているわけでもなさそうだ。


「もしかして、あれが上に繋がってるとか?でも、あの高さじゃなぁ…」


 猫田がいれば背中に乗せて貰って飛んでいけるだろうが、いくらなんでも狛はあそこまでジャンプ出来ない。比較するものがないので解りにくいが、見た所、東京タワーの天辺よりも高そうだ。

 そんな風に空を見上げていた二人の視界が、突然暗い緑に染まる。それがあの緑鬼の身体だと気付いたのは、数呼吸置いてからの事であった。

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