よく晴れた日の午後、猫田は一人街に向かって歩いていた。
この後はくりぃちゃあに行って、人手(働いているのは妖怪だが)が足りなければ手伝うつもりだ。狛は学校に行っているし、珍しくハル爺やナツ婆、拍までもが皆、仕事に出かけて家には誰もいない。猫田は暇を持て余していたのである。
見上げた冬晴れの空は高く、寒いが空気が澄んでいる気がして気持ちがいい。猫又である猫田には、この程度の寒さなど何の問題もないが、ただの猫だった頃はとにかく寒さに弱かった。
そもそも子猫の頃、ミツに拾われた山は、冬になると雪が深く積もる事もあって家の外はとんでもない寒さだったと記憶している。囲炉裏の火の傍から離れたくなくて、猫田はずっと火の番をしていた。まぁ、当時は喋ることなど出来ないし、火が消えそうになったら鳴いて教える位しか出来なかったのだが。
「冬場はミツの膝の上から離れられなかったよなぁ……何で今更こんなこと思い出すんだか」
そう呟きながらボリボリと頭を掻いていると、ちょうど街へ向かう道に差し掛かる所で、ふと川縁を覗く。すると、そこには、女の子がぼんやりとした様子で立っているのが見えた。
先日までは暖かい日が続いていたとはいえ、特に今日は朝からすっかり冷え込んでいる。こんな日に川辺へ近寄るなんておかしいと、猫田はその少女が気になって声をかけてみた。
「おい、お前そんなとこで何してんだ?あぶねーぞ」
「……」
少女は聞こえていないのか、猫田の声に全く反応しない。生きた人間であるのは間違いないはずだが、どうして何も反応しないのだろう。
「なんなんだ?…ったく、しょーがねぇ」
そのまま見過ごしても良かったのだが、猫田はこう見えて子どもに甘い。特に少女が放っておけないのは、かつて救えなかった飼い主のミツ…その子どもの頃を連想するからだ。子どもだけでなく、女性全般に弱い所もあるようだが。
ヒョイっとガードレールを飛び越えて、河川敷に佇む少女の元へ近づいてみる。人間の年齢は猫田にはよく解らないが、少女は学生服を着ているので小学生ではなさそうだ。狛よりも小柄で幼く見えることから、中学生くらいだろう。
猫田は少女の後ろに立って、ポンと肩を叩いた。そこで少女はようやく反応をして、ゆっくりと振り返る。何の感情も見えない表情だが、その顔を見た瞬間、猫田は息を飲んで固まった。
「何…?」
「お、お前…ミツ!?」
そう、その少女の顔は、猫田のかつての飼い主であるミツに瓜二つだったのだ。
まるで、時間が止まったようだった。猫田は少女の顔を見てその動きを完全に停止している。猫田にとってそれがどれほどの衝撃であるかは、その反応を見れば明らかだろう。実際には数十秒ほどだが、体感で数時間もそのままでいたような間の後、少女が口を開いた。
「…ミツって誰?わたしのこと?なら、人違いだよ。どっか行ってくれない?邪魔だから」
「あ、ああ…いや、そうか、そうだな。って、な、何してんだ?こんなとこで」
少女は面倒臭そうに溜息を吐いて、猫田から視線を外し、また川を眺めるようになってしまった。猫田は何が気に入らなかったのかと気が気でない。慌てて、つい、余計な言葉が口をつく。
「あー…その、あぶねーだろ?寒いしよ。風邪ひいたら大変だし、こっち来いよ」
「ウザッ…何?ナンパしてんの?それとも説教?わたし中学生なんだけど?子ども相手にサカってんじゃねーよ、おじさん!」
「う、うざっ!?あ、いやいや、違うナンパじゃねぇ!心配してんだ!へ、変なヤツとか、いるかもしれねーし」
「何言ってんの?アンタが今一番変なヤツなんですけど?…ホストの癖して子ども相手にムキになって、キモ」
「うぐぐぐ…!」
ぐぅの音も出なかった。猫田の見た目がどう見てもホストなのは間違いないし、突然現れてこっちに来いなどと言えば、ナンパか不審者にしか聞こえないだろう。そもそも最近、猫田の周りにいる少女達は、狛をはじめとして割と真面目で素直な少女が多い。こういう少し蓮っ葉で気の強い少女を相手にするのは勝手が違い過ぎて、猫田はすっかり調子が狂わされてしまっていた。
ちなみに猫田の言っている変なヤツというのは、変質者のことではなく、水場によく集まってくる不成仏霊達のことである。単なる浮遊霊の場合も多いが、中には自分の苦しみを紛らわす為に、人を水中に引き込む悪霊のような奴もいるので注意が必要だ。
特に河原のような場所は、事故なども起こりやすいのでタチの悪い霊が出没しやすい。また、そこにいる人間がマイナスの意識を持っていると、余計に同調してちょっかいを出してくる。気分が落ち込んでいる時や、イライラして冷静でない時に、それらの場所に近寄らない方がいいのはそういう意味もあるのだ。
だが、それを説明してみせた所で、少女ははいそうですかと受け入れはしないだろう。世の中の人間の大半は、霊の存在など信じない。あのカメリア国王が空港で襲撃された時のニュースでも、居合わせた撮影スタッフによって大量の悪霊が飛び交う空を撮影したシーンが放送されたが、それらは全てフェイクニュースとして処理され、すぐに人の噂からも消えた。今ではインターネットの一部でネタとして扱われているくらいだ、結局は、そんなものなのである。
「いや、えーっとだな…その…」
人に紛れて暮らしていても、猫田はやはり妖怪である。こういう時にどうすればいいのか、何を言えばいいのかは解らないようだ。黙ってこの場を離れるのが最適解なのだが、少女の顔を見てしまったこともあって、このまま別れる気にはならないらしい。
何とか言葉を絞り出そうとする猫田に嫌気が差してきたのか、少女は更にイラつきを増し、振り向いてキッと猫田の顔を睨みつけた。
「もういい加減にしてよ!あっちいけって言ってんでしょ!?この変質者!」
少女が怒りを露わにしたその時、水中から人の手のようなものがするりと出てきて彼女の足を掴んだ。
「キャッ!?」
「あっ、おい!?」
その手はあっという間に少女の両足を引っ張ってその身体を水中に引きずり込んだ。傍目には、少女が足を滑らせて川に落ちたように見えるだろう、これが哀れな同類を増やそうと企む、悪霊のやり方なのだ。
――悲シイ魂…オマエモ、コッチニオイデ…ヒヒヒ…
「なに?!い、いやあっ!あぐ、ぅ、がぐぐ…」
叫ぼうとする少女の口元にまた別の手が覆い被さる。水底では怪しく光る眼をした異形の怪物が、獲物となる少女を取り込もうと、歓喜の笑みを浮かべていた。しかし、すかさず飛び込んできた猫田が、それを許さない。
「俺の目の前で何しようとしてやがる!この悪霊風情が!消えろっ!」
――ギャアアアアアアッ!!
猫田は少女を片手で抱き抱え、6本の尾と空いた手で悪霊の腕と頭を引き裂いていく。断末魔の叫びを上げる悪霊は、あっという間に霧散し、水中に溶け消えていった。そして、少女を抱えたまま、川の中から飛び出した。
そもそも、ここはそんなに水深のある川ではないはずだが、あの悪霊は水中を自らの縄張りとする、そこそこ力の強い悪霊だったようだ。少女の心の闇に目をつけて虎視眈々と狙っていたに違いない。
「ゲホッ!ゲホッ!うぇ…っ!げぇっ」
あの一瞬で水を大量に飲んでしまった少女は、河川敷に出るやいなや、咳き込んで水を吐き出し始めた。猫田はその背中を優しくさすってやり、少女の様子が落ち着くのを待つ。数分後、ようやく落ち着いた少女は、濡れた身体を震わせながらそのまま意識を失った。
「お、おい!?どうした?大丈夫か!?」
猫田は大慌てで少女を抱き抱え、くりぃちゃあに向けて全速力で走るのだった。