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第143話 猫田の記憶 其の伍

「木々が邪魔ではっきりとは見通せんが、何かあったのは間違いないな。行ってみるか」


 景蔵はそう言うと、猫田の返事を待たずに樹上を移動し始めた。猫田も慌てて後を追うが、木から木へ信じられない速度で飛び移る景蔵の動きに、猫田は化け物を見るように驚きを隠せずにいた。


「俺のこの身体にゃ、森の中は狭いとはいえ、何て速さだよ。俺が全く追い付けねーだと…!」


 虎よりも大きな猫田の身体は、鬱蒼と生い茂る木々も草花も、はっきり言って邪魔でしかない。それでも、人が森を駆けるよりは速く走れると自負していた。ところが、そんな気持ちはわら半紙よりも脆く容易く、千々に破られてしまったようだ。木の上を飛んで疾走はしるだけで、こんな速度を出せるとは、景蔵という男は、本当に猫田の常識を逸脱した存在と言えた。


 あっという間に、山奥まで移動してみれば、そこには小さな山小屋のような家が、何者かに襲われて燃えた後だった。建物が全焼するまでには至らず、まだ煙が燻っていて、辺りにはが立ち込めていた。


 景蔵はいつの間にか覆面を被り直しており、極々冷静にその焼け跡を見分し始めている。さすがは忍びだ、人が殺されたのは明らかだというのに眉一つ動かさず、じっとそれらを見つめていた。


「…どうやら、木こりの住処だったようだな。襲撃の際、囲炉裏の火が建物に回ったのだろう。しかし、ずいぶんと荒っぽい手口だ。。やったのはまだ生じて間もない、歳若くそれなりに力のある化生けしょうと言ったところか。知恵があって年経た奴なら、こんな証拠は残さんはずだ。ただ、単独犯でもなさそうだが」


 残された遺体…その手首や腕、足先の数から、景蔵は冷静に被害者が複数であることを見抜いていた。恐らく、家族でこの小さな小屋に住んでいたのだろう。箱根は、江戸時代に寄木細工が生み出されて、それが土産物として人気であった為、こうして職人が木こりとしてひっそりと山に住み込むケースも珍しくはなかった。そこを狙われたのだ。


 そのあまりに無惨な光景に、胸を痛め、怒りの感情を露わにしたのは人間である景蔵ではなく、猫田の方だった。山中に佇む家の様子に、燃えた家屋と焼けた人の臭い、そして、夜の闇…その全てが、かつてこの身と大事な家族であった人間達に降りかかった悪夢を想起させるに足るものである。

 猫田の怒りが音となって聞こえるような、それほどの圧を纏ったその時、それらは現れた。


「ヒヒヒ…!こんなところにまだ人間がいるぞぉ」


「食い尽くしたと思ったが、わざわざあやかしの森へ立ち入ってくるとは、愚かよのぅ」


「おい、見ろ。人間の傍に妖怪がおる…猫又だぁ!」


 闇から染み出るように現れた何体もの妖怪達が、猫田と景蔵を取り囲んでいた。人を襲ったばかりで気が大きくなっているのか、景蔵を目の前にしても動じる事はなく、単なる哀れな獲物としてしか認識していないようだ。彼から漂う凄まじい霊圧と殺気に気付けるほど、この妖怪達は高等ではなかった。


 また、猫田に対しても彼らは何ら警戒心を持っていなかった。猫又は比較的珍しい種類の妖怪であるが故に、彼らも物珍しさが勝ったのかもしれない。猫田が放つ怒気に気付ければ、或いは命を落とさずに済んだかもしれないのだが。


「……ここの人間を襲ったのは、テメーらか?」


「ああ?おおそうだ、の命令でなぁ」


「明日にはもっと大きな人間の集落を襲うんだ、コイツらはその前祝いよ」


「楽しみだなぁ…!我が物顔でのさばる人間共を、食って食って、食いまくってやるぅ!」


 下卑た笑いを浮かべて、およそ人の美意識からはかけ離れた異形の妖怪、そのうちの一匹が、猫田に近づいてきた。猫田の事などたかが猫の妖怪と侮っているのだろう。そして、次の瞬間、不用意に猫田へ近づいた妖怪の一匹が、死んだ。


「あっ」


「テメーらぁ!許さねぇ!!」


 猫田は激怒し、最初に近づいた妖怪をその鋭い爪で切り裂いたのだ。そして、すかさずその背後にいた他の妖怪に飛び掛かった。低級な妖怪達は、その反応速度も遅く鈍い。彼らは、仲間が死んだと気付いた時、自分達も既に猫田の爪にかかっていたということにさえ、気付いていなかっただろう。


 更に、その猫田の動きに合わせて、景蔵も近くにいた妖怪達を撫で斬りにしていた。特に何の合図もなかったが、長年コンビを組んできたかのような絶妙なタイミングである。俗に忍者刀と呼ばれる、小太刀に似た小振りな刀を煌めかせ、瞬く間に十体以上の妖怪を斬り伏せた。白刃は月の光を反射し、その動きの軌跡は闇の中に美しく浮かび上がっていた。まるで、舞い踊っているかのような、滑らかで無駄のない殺しだ。


 こうして、まさにあっという間に、数十体の妖怪達は二人によって殲滅された。やや落ち着いたようだが、未だ猫田の瞳は怒りに染まっていて、その感情の根深さが窺える。


「やはり、妖怪を狩る事に抵抗はないようだな。俺の見立て通りだ」


 景蔵は猫田に向き直り、そう言った。そもそも妖怪達は共通の敵や目的でもない限り、つるんで行動することは少ないものだ。しかし、妖怪が人の側に立って妖怪と敵対する事は滅多にない。それはやはり、薄い仲間意識のようなものが根底にあるのだろう。だが、たった今やってみせたように、猫田はそんなものを一切気にせず妖怪達を殺し尽くした。それが出来るのは、彼が人に属する立ち位置にいるという、明確な証でもある。


 猫田は黙って、それを聞いていた。まだ興奮と怒りが冷めやらないながらも景蔵に食って掛かろうとしないのは、先程の一緒に来いという提案が心に深く刺さって反芻しているようだった。


「今、この国は時代の転換期を迎えている。長く平穏だった徳川の治世は終わりを告げ、本格的に海外の国々との関係が始まっていくだろう。恐らく、その先にあるのは平和だけではないはずだ。そんな時に、未だ一部の連中は国を割って騒乱の種を撒き散らしている。…それによって地に満ちた憎悪と怨念が、妖怪達のような闇の存在に力を与えていく事で、人が妖怪に襲われる、そんな事が珍しくもなくなるのだ。それは絶対に防がねばならん」


 景蔵の言葉は、真に迫るものだった。彼は日本各地で、このような状況や現場をいくつも見てきたに違いない。猫田の中の怒りは、このような悲劇を繰り返したくないという思いを強め、その背中を後押ししていた。猫田は人間の社会に潜んで暮らしてきたが、人に対して大っぴらに正体を明かして生きた事は、今までに一度もない。その誘いに乗るということは、自分が妖怪であると明示した上で、人と並んで生きる事である。それには不安と、どこか高揚する思いが入り混じっているようだ。


「俺は…」


 そう答えようとした猫田の言葉を遮るように、ずしんと大きく地を踏み均すような足音が、辺りに響いた。


「貴様らぁ!よくもこの俺の部下達を殺してくれたなぁ!!」


 そう言って現れたのは、黒い肌をした鬼であった。普通、鬼と言えば赤鬼や青鬼が主であり、狛が無間地獄で出会った緑の肌の緑鬼などは現世にはほとんど存在しない。ましてや、この黒鉄のような色の肌を持つ黒鬼こっきは、地獄の中でも一部にしか生息していない、恨みや呪いを象徴する鬼である。


「黒鬼…なるほど、地獄から這い出てきたわけか。道理で、人の世での作法を知らんわけだ」


 景蔵は溜息を吐いて、その鬼を見据えていた。体躯の大きさは4メートルほどに達し、その手には金棒ではなく大きな斧を携えている。また月の光を反射する身体は、見ただけで鋼鉄のような硬度を持っているのが見て取れた。仏話に登場する典型的な黒鬼だ。

 本来、地獄の獄卒である鬼達は、閻魔大王の厳しい管理と自分達の責務へのプライドから、無駄で無益な殺生などしないものだ。だが、中にはわざわざ地獄から抜け出してくるような鬼もいて、そう言ったものは非常に悪辣で、時に遊び半分で人を傷つけたり暴れ回ったりする。まさしく悪鬼羅刹である。


 この鬼の言と、先程の妖怪達の口振りからして、黒鬼がこの件の首謀者なのだろう。景蔵はうんざりと言った態度で、鬼を無視していた。


「現世に負の感情が溢れるだけで、こういった手合いを呼び寄せてしまう…まさに呼び水だ。困ったものだ、全くな」


 景蔵の言葉には、いかにも面倒だという感情が含められている。猫田のように怒るのではなく、淡々と問題に対処するという、忍びの手本のような男であった。そして猫田は、胸に残る怒りの矛先を見つけた事で、その炎を再燃させていた。


「ぬぅ!何故貴様らこの俺を無視するのだ!?鬼を恐れぬと言うのか!」


 黒鬼は激昂し、その剛碗を振り上げる。しかし、その腕は肘から先が大きな音を立てて、その足元に落ちていた。


「ぐわっ!?お、俺の腕がぁ?!い、いつの間にっ!?に、人間の刃などで…」


に付き合ってやるほど、こちらは暇ではない。大方、閻魔大王の厳しさに嫌気が差して、現世へ逃げてきたクチだろう?そんな下等な鬼如きに、現世の空気すら味わわせるのは勿体ないというものだ。く死ね」


 景蔵の死刑宣告のような言葉と同時に、その鬼の周囲に5人の人影が現れていた。一人は巨大な鋏状の刃で鬼の腕を切り落とし、別の男の指示によって、二人の少女が手にした武器でそれぞれ鬼の足を断つ。最後に残った青い髪の男が月明かりの中で巨大な狼へと変身して、鬼の首を食い千切ってみせた。


「な…!?」


 いつの間に、猫田がそう言葉を放つ前に、十の瞳が猫田を捉えていた。


「お前達、どうしてここに?」


「天子様より拝命を受け、隊長をお迎えに上がった次第です。この化物けものは?」


「ああ、ちょうど探していた、お前達の仲間…になるかもしれん奴だ、敵ではない。狼のお前にはピッタリだろう?


 犬神と呼ばれた、猫田に匹敵する大きさの巨大な狼は静かに首を垂れて、それを受け入れたようであった。


 この夜初めて、後に犬神宗吾が率いる事となる、ささえ隊第四班の面子が、ここに揃ったのである。

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