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第144話 ねこたのしっぽ

「うぅ、んむ…な、なんだ…?」


 なぜか頭を生暖かいもので擦られている感覚がして、猫田は目を開けた。視線の先では、アスラが器用に前足で猫田の身体を固定し、一心不乱にその頭を舐めていた。かなりの時間そうされていたのか、涎で頭がベシャベシャだ。具合が悪そうな猫田を心配してくれたのだろうが、これはさすがに勘弁して欲しい。猫田は盛大に溜息を吐いてアスラの前足を除けてその場から移動することにした。


「お前かよ…よせ、止めろ、もういい。いいっての!何だお前、まさか齧るつもりじゃねーだろうな…!?」


 フラフラしながらどうにかアスラの拘束を振り解いたのはいいが、身体に全く力が入らない。ベッドの上に立ち上がることはおろか、人の姿に変化する事も出来ず、身体の熱だけが異常な程高まっている。これがいつも通りならば、今日丸一日程度休めば落ち着くだろうが、今回は少し症状が重い気がした。


「くそっ、目が回る…こんなに酷いのは初めてだぜ。ああ、頭が犬臭ぇ…ハゲてねーよな?ったく…」


 器用に前足で頭部を確認すると、濡れているだけで毛が減ったようには感じられない。猫に限らず、動物は毛繕いを自分でするものだが、当然自分の頭だけは自分で繕うことができない。人間の手で耳や頭を撫でられたり搔かれたりするのが気持ちいいのは、自分では出来ないことだからというのもある。そう言う意味では、アスラが普段出来ない頭の毛を繕ってくれたのは助かるのだが…人に変化出来る猫田にしてみれば、人の姿になって自分で頭を洗えば済む話なので、何とも言えないお節介であった。


 猫田が離れてしまったので、アスラはその場でベロンと大きく口周りを舐めてから、頭を伏せて上目遣いに猫田を見ている。なんだか悪戯を叱られた後のようだ。 猫田は猫田で溜め息を吐いて、再び丸くなっていた。


「別に怒ってるわけじゃねーから、んな顔すんな。そんで、狛はどこ行った?学び舎か?…ああ、何だ、やけに寒いと思ったら雪が降ってるじゃねーか。街はともかく、このあたりは積もりそうだな…」


 ちらりと視界に入った窓の向こうには、はらはらと雪の粒がいくつも降り注いでいる。 猫田の言う通り、山の中にある犬神家の屋敷は冬になるとよく雪が積もる。流石に本物の犬とは違って雪の中を駆け回るものは居ないが、比較的寒さに強い一族であるため、それ自体は特に問題ない。

  逆に猫田は猫だけあって、寒さには滅法弱かった。その意味では、真逆の性質ではあるが、考えようによっては悪くない組み合わせだ。


 仮に、猫田が野良で独りきりであった場合、冬場は温かい寝床や餌を探すのも一苦労である。しかし、冬でも変わらず活動的な犬神家ならば、何の問題もないのだ。最悪、土敷を頼ってもいいのだが、あまり借りを作ると怖い相手でもあるので、出来れば頼りたくはない。ましてや今はこの体調であるから、狛と出会ったことは猫田にとって、 とてもプラスだったと言えよう。


「何か懐かしい夢を見たが、この寒い中、一人でこの体調だったらしんどかっただろうなぁ…ん?」


 そう呟いてから、ふと、窓の外に気配を感じた。重怠い頭を持ち上げて様子を見ると、そこに居たのは髪の長い女の霊である。 雪がちらつく屋外だというのに、白い薄手のワンピースだけを着ていて、こちらを向いているようだが長い髪に隠れてしまって表情は見えない。

 何故それが霊だと思ったのかと言えば、それは強い怨みの念と、目に見えるほど強力な霊気を放っていたからだ。とても生きた人間のそれとは思えぬ有り様であった。


「なんだ?ありゃ。妖怪ならともかく、人間の霊が来るなんて珍しいな。…おい、アスラ、お前は見るなよ」


 アスラはわかっていると言いたげに、顔を隠して丸くなっていた。霊というのは状況によっては実に厄介な存在だ。妖怪などと違って、彼らは対処を誤るとかなり面倒な事態を引き起こす。ただの雑霊程度ならともかく、強い怨恨を持って長期間力を蓄えた悪霊などはそこらの妖怪などよりも、よほど性質が悪い。物理的な対策など全く意味がないし、深く憑依されるとその存在を見抜くことすら困難である。そして、確実に魂を弱らせて人を死に至らしめるのだ。

 そう言った存在に対処するには、退魔士としての経験と実力が不可欠である。アスラは退魔士のサポート役として訓練を受け、高い霊力を持ってはいるが、霊に対して特に有効な経を読む事もできず、適切な手段を選ぶことも出来ないのだ。それ故に、主人である退魔士が傍にいない場合、単独で霊に関わる事は許されていない。それを理解しているので、あえて気付いていても無視を決め込んでいるというのが現状だろう。


 この時、猫田は特にその霊を特に脅威と認識していなかった。いくら強力な恨みを持っていても、この家には拍を始めとして、優秀な退魔士がたくさんいるのだ。狛は学校に行っているようだが、今日は拍だけでなく、ハル爺やナツ婆もいるだろう。心配する必要などないと思っていた。


「…ん?待てよ。なんで敷地の中に入っていやがるんだ?」


 いつまでも見ていても仕方がないので、猫田は頭を下げて身体を丸め込んで休む姿勢に入った。その時気付いたのだが、犬神家の屋敷には妖怪達の襲撃に備えて、いくつもの結界が張られている。非常に強力な結界なので、それは悪霊などにも有効なはずだ。以前、狛の同級生である追手門という男子生徒が、水子と女の恨みを一身に受け、スマホから文車妖妃を生みだしてしまった事があった。あの件以来、拍が警備体制を強化すると言って、敷地全体により強力な結界を張ったのだ。そこらの霊などが、入って来られるはずがなかった。


「妙だな…?うお!?」


 嫌な予感がして、もう一度顔を上げ窓を見た時、猫田の視界に飛び込んできたのは、先程の女が窓にベッタリと張り付いて、こちらを凝視している姿だった。音もなく接近してきた事に、さすがの猫田も驚きを隠せない。


 女は窓にへばりついたまま、血走った眼で猫田を睨みつけていた。よく見ると口元が動いていて、何かを呟いているようだ。猫田は耳を動かして集中し、その声を聞いてみた。


「拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様拍様…」


「なんだコイツ!拍のおっかけかよ!?っていうか、コイツ、霊じゃねぇ!人間だ!」


 その時、ようやく猫田は、それが生きた人間である事に気が付いた。だが、先程感じたように、恐ろしい程の恨みの念とおぞましい霊気が女の全身から放たれている。一体どういうことなのか。猫田が叫んだ瞬間、女は凄まじい力でバンバンと窓を叩き始めていた。このままでは窓が割られる、猫田は咄嗟に立ち上がり、アスラに指示を出した。


「アスラ!ハル爺でもナツ婆でもいい、とにかく誰か連れて来い!っていうか、拍のヤツは何してやがるんだ!?」


 猫田の指示を受け、アスラはすぐさま狛の部屋を飛び出していった。同時に、猫田は上手く力が入らずに震える身体を無理矢理押して、全力で威嚇の声を上げた。


「シャアアアアアアアアアッッ!!」


 アスラの放つ退魔の遠吠え程ではないが、抵抗力のない生きた人間相手なら、猫田の威嚇はそれなりに効力を発揮する。曲がりなりにも本物の妖怪が放つ、相手の魂そのものに訴えかける威嚇なのだ、命あるものであれば、効果があるのは当然だろう。女は一瞬たじろいで、窓を叩くのを止めて、数歩後ろへ下がって行った。


「今だ!」


 猫田は素早く窓に飛び掛かり、鍵を下ろして窓を開けた。そして、すかさず外へ飛び出す。


「さ、さっむぅぅぅぅ!?くそ、体力が落ちて、感覚まで並の猫になっちまってる…!ちくしょう…恨むぞ、拍め!」


 既に薄っすらと降り積もっている雪の上に着地したせいか、猫田は飛び上がるほどの寒さを感じていた。通常の猫田ならばいかに普通の猫の姿になっていたとしても、多少の暑さや寒さなどへっちゃらなはずだが、体調不良がかなりの悪影響を及ぼしていて、抵抗力や体力が軒並み一般的な猫と同じレベルにまで低下してるようだった。

 こうなると、雪の中に飛び込むのは命の危険すら感じるほど寒い。衝動的に家の中に戻りたくなるが、今戻ればこの女を呼び込む事になってしまう。それは避けねばならない。


 大体、この女と拍がどういう関係なのかは全く分からないが、少なくとも拍を狙ってきているのは明らかだ。その証拠に、この女はずっと拍の名を囁き続けている。なぜ自分がこんな目に、と思いつつ、例え狛が不在でも、狛の保護者として家や家族を守ってやる義務があるだろう。それが今の猫田の役割なのだ。

 とはいえ、この謎の女が生きた人間である以上、あまり強硬な手段に出るわけにもいかない。妖怪相手なら引き裂いて打ち棄ててやってもいいが、無闇に人間を殺すのはマズい。そもそも、今の体調では、戦闘形態とでも言うべき巨大な姿に変化出来ないので戦う手段がほとんどないのだが。


「出てきたのはいいが、身体が…どうすりゃいいんだ」


 体調を言うならば、既に外で飛び出してきた時点で、猫田は満身創痍であった。一刻も早くアスラがハル爺達の誰かを連れて来てくれなければ対処しきれない。屋敷の中からはアスラの吠える声が聞こえているので、そう時間はかからないはずだ。耐えるなら数分でいい、だが、その時間が長すぎる。

 寒さと体調不良のせいで猫田がふらついた瞬間、女は猫田に飛び掛かって猫田の首を掴んだ。締め上げてくる力は、とても人間の女とは思えない力である。


「こ、この女…やっぱり悪霊に憑りつかれて…!っぐ、息が…!」


 直にその手で掴まれたことで、女の情念に混じって、憑りついている霊の恨みも感じ取る事ができた。だが、それが解った所で、ただの猫になってしまっている猫田にはどうしようもない。首を絞められているせいで威嚇の声を上げる事も出来ず、段々と意識が遠くなり始めた。


(くそ、こんなヤツに…こんなことで…ちくしょう、身体さえまともなら…!)


 遠退く意識の中で、ぼんやりと狛の姿が頭に浮かんだ。学び舎に行っているはずの狛がどうしてと疑問に思った時、狛がその手に持っている何かが光って、急速に、猫田の身体に力が戻ってきた。


「これは…!?うっ、くううううう、き、来たっ!!」


 猫田が叫ぶと、その身体から光と共に大量の霊力が溢れ出し、女の身体を弾き飛ばす。同時に、その力に中てられたからか、憑りついていた悪霊が身体から離れていくのが見えた。そこへ、アスラに呼ばれたハル爺が庭に飛び出してきて、驚愕している。


「な、なんじゃ?何があったんじゃ…?」


 あまりに急な事で、ハル爺はただただ呆気に取られるばかりであった。何しろ、女と悪霊を撃退し、息を荒くして雪の上に倒れ込む猫田の尾がのだから。

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