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第196話 悪猿候・緋猩

 狛達が、建物に突入するちょうどその頃、他の狒々ヒヒ猩々しょうじょう達よりも一足早く幻術から目を覚ました緋猩ひしょうは、手当たり次第に職員の死体から脳を貪っていた。


「おのれ、これも外れか!どいつもこいつも、まるで役に立たん死体ばかりではないか!やはり、夜では奴の事を知るものはおらんのか?マズいな、空振りでは槐様に申し訳が立たぬ……!」


 猿妖達とは違い、人の姿をとっている彼は、全身とその顔を血に染めて苛立ちを隠さない。着ているのが比較的汚れの目立たない黒のスーツだというのに、ベッタリと付着した大量の血液や体液が、悍ましさをより際立たせているようである。

 緋猩は人間の姿をしていても、当然ながらパソコンなどは使えない。なので、偶然に当たりを引かない限り、目的の人物…即ち幻場まほろばの情報は手に入れる事が出来ない。槐の命令で先技研を襲撃したとはいえ、夜間を狙ったのは緋猩の作戦だ、何も情報が手に入りませんでしたとなれば、それは緋猩自身の失態である。それが焦りとなり、苛立ちをより強くさせているのだった。


 その時、建物の外で非常に不快感を覚える猫の鳴き声がした、猫田である。緋猩はさすがに不愉快にはなっても、狒々達のように猫田への執着を操られるような事はない。ただ、余計に苛立ちは募るばかりで、その怒りは更に燻り続けていた。


「ぬぅ、耳障りな!先程の幻術といい、人間共の術者の仕業か!?……そうだ、この程度の下っ端な人間共より、そ奴らの方が情報を知っているかもしれんな」


 そう思いついた緋猩は醜悪な笑みを浮かべ、手下の猩々達に狛達を見つけ次第、生死を問わず自分の前に連れて来るように命じた。こうして、一階にいた猩々達は一気に狛達を狙い、襲い掛かったのだ。


 そして、現在……緋猩の目論見は完全に外れ、狛達は7階に到達している。槐を除いた人間を見下す緋猩にとって、人間相手に思い通りに行かない事は何よりも腹立たしい事のようだ。傍にいた猩々へ八つ当たりをして、その首を引き千切った所で狛達が目的を持って移動している事に気付いた。


「貴様ら!たかが人間の術師の一人や二人に手こずりおって!それでも我が配下か?情けない猩々共めが!…しかし、奴ら脇目も振らず一気にこの7階まで来よったな、何故だ?もしや、あの部屋に逃げ込んだ人間共が外に助けを呼んだというのか?」


 当初、緋猩達は建物の一階から攻め入ったのだが、彼らが7階に到着した時には既に数十名の人間達が会議室に立て籠もり、結界を展開した後であった。結界の強度は緋猩に破れないほどのものではなかったが、逃げ込んだのはフロアにいた全ての人間ではなかった為、とりあえず逃げ遅れたものから殺して情報を得ようとしていたのである。


「そうだとすれば、もしかすると攻めてきた人間は目的の奴そのものかもしれぬ…!ぐふふ、本人が助けに来たのであれば、探す手間が省けたというものだ。それどころか、かえって手柄になるな。どれ、儂自らが相手になってやろうではないか!」


 そう呟くと、側近のような猩々を連れて、緋猩は研究室から会議室に向かった。



 この先技研…高度特殊先進技術研究所の建物は特殊な構造をしている。敷地内には大規模な実験棟があり、狛達がいる研究棟は、各種基礎的な研究や機器の設計、開発を主目的とした施設だ。中でも一番変わっているのは、この7階である。


 本来、8階建てであるはずのこの建物には7階までしかない。実は7階と8階は一つのフロアに統合されていて、7階は他の階よりも縦に長く広い造りになっている。この施設を建設した当時、それだけのスペースが必要な研究が行われていた名残らしいが、ずいぶんと不思議な形である。


「あそこだ!……む、誰かいるぞ」


 幻場が示した先には、一際濃い血の匂いを漂わせた大柄な黒ずくめの男が立っていた。その顔は乾いた血で赤黒く染まっており、一切拭き取ったような形跡がない。人の姿をしていても、それが人間ではないことは一目で解る様子であった。


「この妖気…!」


「よくぞここまで来た、人間の術師共よ。我が配下の猩々共をずいぶんと殺してくれたようだな?中々の力があるようだが、ただでは済まさんぞ」


 自分達は散々人間を殺しているというのに、その口振りはそれを一切気にしていない様子である。狛は男の全身から放たれる妖気と、異様なほどの殺気を感じ、少し距離を取って立ち止まっていた。


「…お前がこの群れのリーダーか?」


「いかにも!儂は誇り高き猿妖えんよう達を統べる者…そうだな、『猿候えんこう』とでも称されようか。そして、名を緋猩という。ああ、覚えておく必要などないぞ、どうせお前達はすぐにあの世行きだからな」


 幻場の問いかけに対し、自信満々に答える緋猩の姿は、確かにある種の風格さえ感じられるものだった。その圧倒的な存在感に、狛はどこかで覚えがある。そして、思い出したのは正月の襲撃のことであった。


「あなた、あの時、槐叔父さんと一緒にいた…!?」


「む、槐様を知っておるのか?……いや待て、よくよく見てみれば、貴様あの時の小娘ではないか!雷獣の稲妻で吹き飛ばず、何度も我らの邪魔をしてくれているらしいな。これは何という僥倖か!目障りな邪魔者をついでに排除出来たとあれば、槐様も大層お喜びになるであろう!フハハ!これは愉快、愉快なり!」


 緋猩は腹を抱えて高笑いをし、舌なめずりをして狛の全身を見据えた。人狼化した狛を目の当たりにするのは初めてだった為に、すぐには解らなかったらしい。狛が纏う強力な霊気にも全く動じず、逆にその殺意を高めていくようだった。


「狛君…こいつと知り合いなのか?」


「ええと、細かい事は省きますけど、お正月に実家を襲撃してきた妖怪の一人です。こんな所で会うなんて…!」


 犬神家に対する槐の造反について語っている暇はないので、手っ取り早い説明をしたが、この男がここにいるということは、この件にも槐が関わっている事が確実となった。幻場の推測が当っていることにも驚いたが、七首市での事件に続いて、これだけ凄惨な行為を槐が指示した事に、狛は怒りと悲しみを感じている。

 人と妖が手を取り合う事、槐は当初それを目的としていたはずだ。だが、蓋を開けてみれば彼の行いは妖怪に人を襲わせることばかりで、とても融和など出来るものではない。今がその目的の過程にあるとはいえ、ここまで非人道的な作戦をする槐が恐ろしく、また許せなかった。


「こんな事をするなんて、私、絶対に許せない…!槐叔父さんはどこにいるの!?」


「ふん!そんな事は貴様の知る所ではないわ!しかも、言うに事を欠いて許せんだと?生意気な小娘だ。貴様ら人間なぞ、所詮下等でちっぽけな存在に過ぎぬ!我ら猿妖を差し置いて我が物顔で世を闊歩しおって…その全身を貪り食って、糞に生まれ変わらせてやろう!」


 緋猩が怒りを露わにすると、その身体は一気に膨れ上がっていく。スーツは破れ、みるみるうちに全身を黒い体毛で覆われた、恐ろしい猿へと変化していった。猩々はオランウータンに似ていて、狒々達はゴリラに近い見た目であったが、緋猩はその両方を合わせたような姿である。2メートルを優に超える身長こそ変わっていないが、腕や足、胴といった全身には、漲るような力を感じさせる筋肉が隆起していた。


「さぁ、ゆくぞっ!!」


「っ!幻場さん、下がってください!」


 狛の顔ほどもある大きな拳を豪快に振り抜き、緋猩が一足飛びに近づいてきて強烈な一撃を放つ。狛は幻場を庇うように、それを両腕で真正面から受け止めてみせた。ミシミシと骨の軋む音がしても、狛は一歩も譲らない。緋猩はよもや人間の、しかも見た目は華奢な女である狛に受け止められるとは思ってもみなかったのか、思い通りにいかない結果に腹を立てた様子から、大きな隙を生じさせた。

 狛はそれをチャンスとみて、すかさずその拳を横に受け流して緋猩の懐に飛び込んだ。そして、お返しとばかりに全力で一撃を叩き込む。激しい衝撃音がして緋猩は一歩後退したが、致命傷には程遠いようだ。


「ぐぉ!?貴様ぁ…!」


「なんて筋肉!?レディちゃんの操ってた、あの怪物より凄いかも…!」


 人間の死体1000人分をより合わせたという怪物、Rieseリーゼ。あの時、彼が攻撃を弾いたのは、その体内に埋め込まれた結界によるものだったと狛は戦いの最中に気付いたが、この緋猩の場合は全く違う。鍛え上げられた筋肉特有の硬さと皮膚の柔らかさ、そして毛皮の分厚さが同時に感じられて、結界を殴りつけた感触とは完全に別物である。


 対峙し、じりじりと睨み合う狛と緋猩の間で強烈な霊気と妖気がぶつかり合う。戦いはまだ始まったばかりだ。

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