「へぇ……そんな事があったのか」
コーヒーを片手に、感心したように相槌を打っているのは土敷である。向かいに座った猫田は、ミルクを飲みながらどこか寂しそうな、切なそうな表情を見せていた。
槐達との戦いに決着がついてから、はや二週間。猫田と狛は、くりぃちゃぁに寄って報告がてらに食事を楽しんでいた。猫田も狛も、あの戦いを生き延びたのは良かったが、その為に失ったものはあまりにも大きい。狛の犬神として復活したとはいえ、アスラは命を落としてしまったし、神奈は重傷でしばらくは動けそうにないと聞いている。何よりも堪えたのはやはり、ナツ婆の死だろう。
最終的に本人が望んだこととはいえ、ハル爺と共に皆に慕われていたナツ婆であるから、その衝撃は大きかった。電話で報告を受けた長老達も絶句し、狛もつい先日まで、毎日のように泣いていたほどだ。
「ああ。しかし、いつまで経っても慣れねぇな。親しい人間が死ぬってのはよ……」
「君も何だかんだと人の傍に居るタイプだからねぇ。でも、狛君は意外と大丈夫そうで何よりだよ」
そう言って、土敷は狛達が女子会をしているテーブルに目をやると、そこで笑っている狛の顔を見て安堵したようだ。猫田は横目でそれを見て、一つ溜息を吐いた。
「ハル爺の事があって、多少は受け入れる事が出来てるんだろうが…ありゃほとんど強がりだよ。つい昨日まで毎晩泣いてたくらいだからな」
当初は人の心の機微に疎かった猫田も、狛のそういった感情については察することが出来るようになったようだ。齢600年にもなろうという猫田の生涯に於いて、ここ約一年の狛との出会いと生活が、一番猫田を成長させている気がする。土敷はそんな友の変化を嬉しく思うと共に、狛の心情を慮ってその瞳を閉じた。
「僕はそのナツ婆という人を知らないけれど……安らかに眠って欲しいものだね」
「…だな。俺もそう思うぜ」
猫田はコップに残ったミルクをグッと呷って、土敷と一緒にナツ婆への黙祷を捧げた。狛と一緒に暮すようになってから、狛が学校でいない時に猫田の面倒を看てくれたのは、ハル爺とナツ婆である。時に一般的な家庭の猫は老人を好んで膝に入ったりするものだが、猫田もそれほどではないものの、ハル爺やナツ婆との付き合いを楽しんでいた。そんな二人が居なくなってしまったのは辛く悲しいものだ。せめて二人で安らかに眠って欲しいと、心から願うばかりである。
「それにしても…その、槐という男ですか。
それまで一緒の席にいたが、ただただ黙って話を聞いていた
「百地って言ったか?お前の言いたい事は解るけどよ。槐は…あいつは間違いなく地獄行きだ。それで十分だろ」
「ああいえ、すみません。俺なんかが偉そうに……そうですよね、何も知らない癖に口出ししやがってって感じですよね。やだなぁ、俺、昔から空気が読めなくて…」
「…止めろ、そういうのは。そう言う事言ってるんじゃねぇ……!」
百地のネガティブ発言が始まってしまい、猫田はウンザリしている。囀り石も卑屈なタイプだったが、百地はそれに輪をかけて酷いネガティブさだ。普通の妖怪としてはこう言った根暗な方が好まれるものだが、いかんせん、元々くりぃちゃぁに出入りしている妖怪達は人と接する機会が多いせいか、人間のようなポジティブさが身に染みている。それでなくても、猫田はこの手のうじうじした性格が苦手なので、とても辛そうだ。
それを見ていた土敷が、慌てて話題を変えようと間に入ってくれた。
「あー…そう言えば、これから遠出するんだって?行き先は、あの人狼の里かい?」
「ん?あ、ああ、そうだ。ここんとこ暗い話ばかりだったが、ようやく光明が見えてきてな」
猫田の言う光明とは、犬神家の人々にとってはまさに救いの光である。何せ、半年以上意識不明だった狛の兄、拍が、昨日ようやく目を覚ましたというのだ。これには塞ぎ込んでいた狛もパァっと表情を明るくして喜びを爆発させていた。ナツ婆の事を乗り越えるには、うってつけの希望である。
猫田達がくりぃちゃぁに寄ったのは、しばらく街を離れる事も含めての報告であった。現在、犬神家の本邸は順調に再建が進んでいるものの、完成には程遠い状況である。まだ当分の間は、人狼の里で厄介になる必要があるだろう。とはいえ、槐達が居なくなったことで、ほとんどの家族は自宅に帰れているのだが。
人狼の里には拍を始めとして、長老達と佐那、そして捕らえた
「まぁ、話し合いの結果によっちゃあ、
「大変だねぇ。確か、県を跨いでここから三時間ちょっとかかるって言ってたっけ?そうは言っても、君が本気で走れば十数分で済むだろうけど」
土敷は苦笑いをしながら、コーヒーを啜っている。土敷の言っている三時間というのは、電車などの交通機関を乗り継いでの話だ。当然、猫田や狛が本気を出して走れば、そんな時間がかかるはずもない。槐達の組織が消滅した以上、それほど急を要する事態が起こる事などないだろうが、最近の色々な出来事のせいか、猫田も狛も心配性な所があるようだ。
ちなみに、ルルドゥは桔梗の家でお留守番である。何故かあまり本人が出歩きたくないらしく、くりぃちゃぁに置いて行く事も出来ないので、桔梗の家で留守番させることになったのだ。
「人狼の里……ですか。いいですねぇ、
「お、おう。そうか、まぁ、お前はそうかもな。……なぁ、土敷、コイツって何の妖怪なんだ?」
「あはは…ええと、確か……彼は、何だったかな?ど忘れしちゃったな、うーん…」
本人に聞こえると面倒な事になりそうなので、コッソリと耳打ちしたが、思っていた反応とは違うものが返って来た。土敷もそれなりに歳経た座敷童だが、ボケるには早すぎる。猫田は溜め息交じりに頭を抱えている。
「はぁ…しっかりしろよ、お前……」
「何のお話ですか?」
「いや、何でもねぇ。こっちの話だ。…おい、狛、そろそろ電車の時間じゃねぇのか?」
「…あ、そうだね。それじゃ皆、今日はこの辺で。行ってくるね、また帰って来たら顔を出すから」
そう言って、カイリ達との別れを惜しみつつ、狛は席を立った。その手には、ちゃっかりとハマさんからのお弁当が持たされている。重箱を両手に二つと背中にも背負っている気がするが、そこにはもう誰もツッコまないのが恐ろしい。それに合わせて猫田も席を立った所で、百地が思い出したように手を叩いて何かを差し出してきた。
「…ああ、そうでした。土敷さんに頼まれていたこれを渡すのを忘れていました。これを、旅のお守りにどうぞ」
「あ?お守りって…そんなもん用意してたのか?」
「え?ああ、うん。どうだったかな……いや、そうだ。僕が
「そうか、お前がそう言うなら貰っとくか。ありがとよ」
「すみません、俺なんかが用意したものなんて、怪しくて困りますよね……嫌だなぁ、俺って信用が無くて…昔からこうなんだよなぁ」
「だぁーっ!そう言うのは止めろって言ってんだろ!」
半ばひったくるようにしてお守りを受け取ると、猫田は狛の元へずんずんと歩いて行った。一体何の効果があるお守りなのかは聞いていないが、土敷が用意したというなら問題はなさそうだ。そうして、猫田と狛は久し振りに気分を上げて、人狼の里へ向かう事になったのだった。ただ、猫田の手の中のお守りが、怪しい熱を帯びている……