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第320話 悪夢の始まり

 くりぃちゃぁを出た狛と猫田は、一路、人狼の里へ向かっていた。


 人狼の里があるのは東京を挟んで二つ先の県である。最寄りの駅までは電車を三回ほど乗り換えて行けるが、そこからはバスになる。既に廃村となった集落近くの山中に里がある為、そのバスも本数が少なく時間を見誤ると大変なことになるのだが、狛たちは何度もちょっとした引っ掛かりに躓いても悉く予定の修正を余儀なくされていた。


「あちゃー…ダメだぁ。今日のバス終わっちゃってるよ。まだ14時なのに」


「仕方ねぇよ。まさか電車が遅れた上にあんな人助けを繰り返してりゃ、予定も狂うだろ。しかし、バスがないんじゃ走るしかねーな」


「大丈夫かなぁ、あの妊婦さん達…」


 二人はここに来るまでの間、何度もアクシデントに見舞われていた。

 乗り換える予定の電車は時間が遅れるし、何故か今日に限って、駅で迷ったり、苦しんでいる妊婦に出会う。当然、狛は放っておくことなど出来ず、その度に手を貸すものだから、スムーズになど行くはずがない。結局、くりぃちゃぁを出てから三時間ちょっとで里に着くはずが、この時間になってもまだ最寄り駅にいるままだ。


 それでも、人助けしたこと自体を後悔はしていないのが狛である。猫田もそれを責めるようなことをしないあたり、似た者同士な所があると言えるだろう。


 狛と猫田はそのまま目的地の山まで走るつもりでいたが、本気で走るとハマから預かった重箱が壊れそうなので、いつものように猫田が大型の猫になって背中に乗せて貰うことにした。なお、重箱の中身は既に空であり、空いた箱は人狼の里で大事に使う事になっている。何でも、人との交流が途絶えて久しい人狼の里では、そういった工芸品は貴重なのだそうだ。


 まぁ、バスで移動するよりも猫田に乗って移動する方が遥かに速いのだから、そこは不幸中の幸いか、怪我の功名と思うしかないだろう。

 そんなこんなで、狛達が人狼の里に着いたのはそれから十数分後のことであった。


「おお!狛、ようやく来たか。皆待っておるぞ」


こんお爺ちゃん、久し振り…!他の皆は元気?」


「元気も元気、元気過ぎて困るくらいじゃ。儂ら年寄りには、この里の暮らしが合っておるのかもしれんな」


 出迎えてくれたのは、こんである。元々、里の近くに住んでいた犬彦という人物との繋がりもあってか、この村の人達と最も交流をしているのがこのこんだ。彼は医者でもあるので、無医村であるこの里ではかなり重用されているという。狛は頼まれていた医薬品の類い…と言っても人狼は丈夫なので、ほとんどが消毒用のアルコールなどの衛生用品だが、それらを挨拶と一緒に手渡した。


「お前も色々と、頑張ったようじゃな」


「うん。……でも、ナツ婆が…」


 ナツ婆の名を出すだけで、狛はまた涙ぐんでしまう。猫田が言っていたように、一見大丈夫そうに見えるのは狛の強がりである。ハル爺を失くしたショックがまだ抜けていない所へきて、ナツ婆も死なせてしまったのは、狛にとって痛恨の極みだろう。まだまだ、完全に心の傷が癒えたとは言い難い頃合いだ。


 こんはそんな狛の肩をポンと優しく叩いて笑った。長老達はまだまだ現役だが、彼らは上の世代など、もっと多くの身内を見送ってきた経験がある。それが、悲しみを癒す術を知っているのだと、隣で見ていた猫田は思った。


「ナツの事は聞いた。…儂らよりまだ若いというのに、残念じゃったがな。しかし、そこにはハルの亡骸もあったんじゃろう?」


「う、うん。一応…」


「なら、ハルと一緒に眠りたいというのは、ナツにとっては何よりも大事な願いだったはずじゃ。あやつは本当に、ハルの事を愛しておったからなぁ……その望みを叶えてやったのだから、悔いる事など何もあるまいよ。狛、お前はお前に出来ることを精一杯やったんじゃ、胸を張れ」


「そう、なのかな…?」


 自信なさげな狛の返事だが、そういった言葉の積み重ねが、これから狛の心を癒すきっかけになっていくはずだ。猫田や土敷のような仲間だけでなく、多くの家族や他の仲間から認められれば、自ずと狛は納得するだろう。人の心は、そうやって強くなっていくものである。

 そんなやり取りの後、狛はどこか言いにくそうな、少し恥ずかしそうな顔をして口を開いた。


「それで、あの…お兄ちゃんは……?」


「おお、拍なら今は湯浴みをしておられるよ。直に上がってくるじゃろう。久し振り過ぎて照れ臭いんじゃろう?」


「そ、そんな…!まぁ、久し振りだし…ちょっとは……恥ずかしいけど」


 狛も高校二年生という年頃になったせいか、溺愛してくる拍の存在は何処か恥かしいものがあるらしい。段々と尻すぼみに声が小さくなって、最後はモゴモゴと何を言っているのか解らなくなってしまっている。泣いた鴉が…とはよく言ったものだが、いつまでも悲しみだけに囚われているよりはよほどいい。ハル爺が亡くなった直後のような、狛の中にあるものが悲しみだけでないと知って猫田は少し安堵した。そして、気がかりだった事を聞いてみた。


「ところで、黒萩こはぎの奴はどうしてるんだ?暴れたりはしてねぇようだが……」


「ああ…あやつなら、奥の部屋におるよ。時代錯誤かもしれんが、座敷牢みたいなもんじゃ。自力では出られん…そもそも出ようという気も無いようじゃがな。会っておくか?」


「そうだな。一応、様子を見といた方がいいな。…俺達が呼ばれたのはそれもあるんだろ?」


「うむ。…では、こっちじゃ、ついてこい」


 こんはそう言って、身を翻して屋敷の奥へ進んでいく。この家は、かつての人狼の里長が別宅として使用していたものらしい。他の家屋よりも一回り広く大きいのは、それが理由である。そして、先程こんが言った、時代がかった座敷牢があるのも、里長の責務として、村の中で起きた罪人への対処の為に用意されていたものだった。


 半地下のようになっているそこは、まさに牢屋そのものである。圧迫感と緊張感を漂わせた太く頑丈な木で組み上げた格子の先で、黒萩こはぎは黙って何かを考え込んでいるようだった。そこへ狛達がやってきたので、明らかに不満な顔をしている。


「あら…来たのね、狛。私は会いたくなかったんだけど」


黒萩こはぎさん……あの…ごめんなさい。槐叔父さんのこと…」


「は?突然顔を見せたかと思えば、一体何を謝る必要があるの?あなたがやらなければ、私達があなたを殺していたわ。お互い様でしょう。……全く、そういう甘さが不愉快なのよ」


 そう言って、黒萩こはぎはぷいと狛から顔を背けてしまった。狛はあれだけ槐に対して怒りを覚えていたが、その一方で、殺さずに済んだ道もあったのではないか?と今でも思っているようだ。どんな理由があろうとも、家族を手にかけることなどしたくないというのが、狛の本音なのである。

 そんな狛の考え方は、槐の為ならば身内を手にかける事も厭わない黒萩こはぎにとっては相容れないものであるようだ。しかし、その槐はもういない。黒萩こはぎの生きる上での指針となるものは無くなってしまった。だからこそ、黒萩こはぎはこうして、静かに伏しているのかもしれない。


黒萩こはぎさん」


「……何?」


「あの時は、バタバタしてて伝えられなかったけど…槐叔父さんは最期に言ってました。すまなかったと伝えて欲しいって……私になんか会いたくないって思われてるのは解ってたけど、それだけは伝えたくて…言うのが遅くなってごめんなさい」


「なっ……!?」


 狛が頭を下げて槐の言葉を伝えると、黒萩こはぎは狛に視線を向け、そのまま目を見開いて絶句していた。それは本当に、狛が聞いた槐の遺言である。それだけは伝えなくてはならないと、狛はずっと思っていたのだ。その後、やや間を置いて、狛と猫田は座敷牢を後にした。


「な、なによそれ…!え、槐様……っ!」


 黒萩こはぎは声を立てないように、静かに泣いていた。その言葉の真意は解らなかったが、最後の最期に自分の事を忘れず思ってくれた事が嬉しくて、そして何よりも寂しくて…黒萩こはぎは、その瞳からいつまでも溢れて来る大粒の涙を隠すように両手で顔を隠して黙って泣いていた。



 狛達が広間へ戻ると、こんが言っていた通り、既に粗方のメンバーが集まっていた。長老達に加えて、入れ替わりで警護に当たっている数人の若い退魔士達だ。その中には佐那もいて、狛に気付くとウィンクをしていた。狛が慌てて末席に座ったちょうどその時に襖が開いて、そこには待ち望んだ人物が立っていた。


「お兄ちゃんっ!」


「おお、狛か!よく来てくれた。…俺が臥せっている間、頑張ってくれたと聞いたぞ。よくやってくれたな…!」


 思わず立ち上がって拍に抱き着いた狛の頭を、拍は優しく撫でながら労ってくれた。拍に会って話したかったことは山ほどある。正月以降、怒涛の出来事が狛の身に振りかかっていて、知らず知らずのうちに、狛はその重圧に胸を痛めていたのだ。日々の忙しさと、拍の代理を任された事の責任感が、それを感じさせないでいただけである。

 拍に会うのをあんなに恥ずかしがっていたとは思えない甘えっぷりだが、親族の誰も、それに水を差す者はいなかった。空気が変わったのは、その後のことだ。


「う…私、お兄ちゃんが起きたら話したい事が一杯あったのに……何でだろう、言葉が出て来ないよ」


「気にすることはない。時間はあるんだ、ゆっくり話をしてくれればいいさ。……ん?」


 狛が感極まって言葉を詰まらせているのを見かねたのか、狛の影から二つの影が飛び出した。イツとアスラである。犬神である二匹は、普段は省エネモードなのか、リスくらいの大きさしかないが、感情表現はとても豊かだ。そのままそれぞれが狛の肩に乗り、狛の頬を両側から舐めている。それに気付いた誰もが、言葉を失っていた。


「狛、それは……」


「あ、うん。そう、アスラだよ。槐叔父さんと戦ってて…私の犬神になってくれたの」


 水を打ったようにしんと静まり返った広間の中で、狛は明るく言葉を続けている。だが、それに対して返って来た反応は、意外過ぎるものだった。


「犬神を、増やしたのか…?槐と戦うために……狛、お前が…!?」


「えっ?」


 思わぬ拍の反応に、狛は怯え、助けを求めるように周囲を見回す。しかし、その場にいた誰もが狛に向けて敵意の視線を向けていた。ここから、狛の人生でとって最も辛い事態になるとは、狛自身、予想だにしていないものであった。

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