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第321話 逃亡する二人

(ヤベェぞ、空気が変わった…!)


 事の成り行きを見守っていた猫田だが、明らかにその場の雰囲気が一変した事に気付いて、内心で舌打ちをしていた。はっきり言って、彼らのこの反応は異常だ。狛と猫田だけが、まるで異質な生物であるように感じられるほど、広間の中は異様な空気に包まれていた。


「…ちょ、ちょっと待って。お兄ちゃん、皆も……どうしちゃったの?」


「どうした、だと?狛…お前は、自分のしでかしたことが理解出来ていないのか?」


「え…?」


 真に迫る拍のプレッシャーに、狛は思わず身体を離し後退あとずさっている。先程までの和やかな空気は消え去って、冷たく重い緊張感が広間全体を覆っている。そして、拍は拳を握り締めながら言った。


「俺達犬神家の掟を忘れたとは言わせんぞ。……どんなことがあっても、狗神を増やしてはならない。これは、決して冒してはならない不文律とも言える掟の根幹だったはずだ。狛、お前もあの日、俺達の前で誓ったはずだろう?」


「あ……で、でも、それは…!」


「言い訳など聞きたくもない!槐の件を受け、俺と長老達の間では更なる掟の徹底が決められたのだ。掟破りを許せば、いつまた槐のような危険な存在が出るか解らんとな。……だと言うのに、お前は…」


「あ、ああ……!」


 拍のあまりの威迫に、狛は上手く言葉を話せなくなってしまっていた。拍と再会した喜びから急転直下、今は恐ろしいほどの圧をかけられている。拍だけではなく、猫田を除いたこの場の全員からだ。その中には、何故か事情を知っているであろう佐那も含まれていた。


「狗神を増やすということは、犬を殺すということだ。…しかも、あれほど可愛がっていたアスラを、お前は……!」


「ち、違うの!私はアスラを殺してなんか…!」


「では、何故アスラが狗神になったというのだ!?狗神は犬の魂にしゅをかけて殺し、それを囚えたものだぞ!」


「ほ、本当だよ!?信じて!アスラは私を庇って、命を……!そ、そうだ、佐那姉、佐那姉なら見てたでしょう?!」


「……生憎だけど、私は気を失っていてあなたと槐の戦いを見ていなかったわ。狛、そんな白々しい嘘を吐くのは止めなさい」


「そん、な……!?だって、本当に…っ」


 狛が事実を認めず、食い下がろうとすればするほど、場の空気は冷えてどんどんと敵意が強くなっていった。犬神家は犬を愛する人々だ、犬を殺すことなど決して許せぬ者達であるが故に、狛の行いを許す事は出来ず、またその態度からは反省も見られないとそう思われているようだった。


「残念だ、狛。お前は本当に素晴らしい事をやってのけてくれたと、そう心から思っていたというのに……!」


「ま、待って!話を聞いて、お願い!」


「……もはや問答無用だ、お前の処遇は後で決める。誰か、狛を座敷牢へ連れていけ!」


 拍の命を受けた若い退魔士達が立ち上がった時、それまで黙って様子を見ていた猫田が、稲妻のような動きで狛を守るようにその前へ立ちはだかっていた。


「…猫田か、何のツモリだ?」


「ちょっと待てよ、お前ら。どう考えてもおかしいぞ?お前らの掟の事は知ってるが、狛の言い分を全く聞かねぇってのはどうなんだ?佐那は確かに気絶していて見てなかっただろうから、俺が証言してやる。コイツはアスラを殺したりなんかしてねぇ。何が起きたのか理由は解らねぇが、狛を庇って死んだアスラがひとりでに犬神になってたんだ。嘘じゃねぇ」


 猫田の言葉は、その場の全員に届いたはずだが、誰もその心には響いていなかった。それどころか、むしろ唾棄すべき感情のような暗い意志が、全員に充満していくような、そんな気配さえ感じられている。


「世迷言を……!犬が勝手に狗神になるなどあり得ん、吐くならもう少しましな嘘を吐くんだな。やはり、貴様のような妖怪が狛の傍に居る事を許したのが間違いだった。狛はともかく、貴様にはここで死んでもらう他ないようだ」


「ちっ……!お前ら、本気かよ!?」


 狛に向けられていた敵意とは全く別の、明らかにそれと分る殺気が今度は猫田に向けられていた。これはどう見ても異常な事態だ。まるで狂華種に操られた妖怪達のようにも思えるが、彼らは他ならぬ人間そのものである。狛のように人狼化して半妖となっているわけでもない。そんな彼らが狂華種で操られることはないだろう。そもそも、槐が死に、黒萩こはぎが牢に囚われている時点で、狂華種などここにはないのだが。


 一触即発といった空気の中で、真っ先に動いたのは猫田である。拍達が異常だとは思っているが、正気でないとも思えない。仮に何か理由があるにせよ、彼らと戦うのは得策ではないだろう。そう考えた猫田は、大型の猫に変化して狛を尻尾で掴むと、強引に天井を突き破って、この場を脱出することを選んだのだった。


「狛、逃げるぞ!」


「え?えっ?」


 激しい音を立てて、狛を連れた猫田が屋敷を飛び出す。しかし、不意を打って空に逃げたはずの猫田を拍は睨むように見据えて、呪文を唱えていた。


「なっ!うげっ!?」


「きゃあっ!?」


 突如、人狼の里がある山全体の空を覆い尽くすほどの巨大な結界の壁が現れて、飛び去ろうとした猫田達はそれに勢いよくぶつかった。槐の巨大結界によく似ているが、出力と密度が段違いである。これは槐以上に結界術を得意とする拍の防御結界だ。ただし防御と言っても、外から中へ入れないものであると同時に、中から外へ出さない為のものでもある。


「し、しまっ…!?」


「ね、猫田さんっ!!きゃああああ!」


 結界に阻まれた狛と猫田は、そのまま錐もみ状に回転をして、里から少し離れた山中に落下した。この短い間にそこまで飛び去っていたのは流石だが、それだけの範囲を覆う結界を瞬時に創った拍はもっと凄まじい力である。


「落ちたか……探せ!どうせこの結界の中からは逃げられんっ!探し出して猫田を始末しろ、抵抗するようなら……」


 拍は言葉を詰まらせ、唇を噛んでいる。あれだけ溺愛していた狛のことだ、許してやりたい気持ちも多分にあるのだろう。だが、当主としての己が、それを許さない。掟破りは、槐という恐るべき造反者を生み出し、ハル爺とナツ婆を死に至らしめた。しかも、それだけでは飽き足らず、この国そのものを変えてしまうほどの事態を招いたのだ。同じ犬神家の人間、何よりも彼らを率いる当主としてその責任は負わねばならないし、今後二度とそのような事があってはならないと、拍はそう思っている。その為には、心を鬼にする必要があるとも……


「……抵抗するようなら、狛も殺せ。掟を破った者には死を。それが、これからの犬神家に必要な、新たな掟だ!」


 その宣言を聞き、佐那を始めとした全ての犬神家の人々が覚悟を決めた。今この瞬間、猫田はもとより狛も、犬神家への不俱戴天の敵となったのだ。そして、二人を抹殺すべく犬神家全体が動き始めた。




「くそっ…!あんな強力な結界を一瞬で張りやがるとは……!」


「痛た…猫田さん、大丈夫?」


 木々の隙間に落下した二人は、体のあちこちに擦り傷を作りながら草むらに身を潜めていた。結界にぶつかった時、その硬さは嫌というほどよく解った。あの結界を力で破壊するのは、いくら猫田でも骨が折れる作業である。狛も神狼形態になるか、アスラとイツを一緒に同調させれば結界を壊す事は可能だろうが、その間に見つかって捕まるか、よしんば破壊出来たとしても相当な力を消耗してしまうはずだ。それでは逃げ切れるものも逃げきれなくなってしまう。


 仕方なく、二人は身を隠しながら結界の隙間を探していた。如何に強力な結界だろうと、急ごしらえに変わりはない。ならば、どこかに歪みや脆い場所があるはずだ。二人はそれを探している。幸い、この山はかなり広いので、気配を殺してしっかり隠れていれば、そう簡単には見つかったり追い付かれたりしないだろう。


 まだ時間はあると思っていた二人だったが、それは誤りであった。脱出路を探す二人を狙う影が、すぐそこまで迫っていたのである。

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