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第322話 忍び寄る追跡者達

「……見つけた。あの猫又と、狛の匂いだ」


 草むらを這うようにして鼻を鳴らし、まだ10代後半くらいだろうか、若い男がそう言った。その隣には彼より少しだけ年上の男が腕組みをしながら立っている。


「よくやった、かおる。この地で半年以上鍛錬を続けてきた事が、こんな形で活きるとはな。…どんなに隠れようとも、この山で俺達からは隠れる事も逃れる事も出来ん。どっちへ逃げた?」


「…あっちだ。巧妙に隠してはいるが、よく見ると人の通った跡がある」


 犬神家の若い退魔士達の一人、かおる…彼はその名に恥じぬ鋭い霊的な嗅覚を持っていて、その鋭敏な感覚を活かして狛と猫田の行方を正確に言い当てた。こんなに深い山の中では、緑の匂いが非常に濃くて人や妖怪の匂いなど解らなくなりそうだが、馨が嗅ぎ分けているのは、厳密に言えば体臭ではなく霊力の痕跡だ。人の魂には匂いによく似た波形が存在し、感覚に優れたものはそれを読み取り感じる事が出来る。狛が人狼化して強化された嗅覚も、半分はそれである。もう半分は、肉体的な嗅覚であるのだが。


 そして、もう一人の馨より少し年上の男はひびきと言い、やはり犬神家の退魔士の一人だ。名は体を表すというが、響の場合は聴覚に優れており、物理的に常人を遥かに超えた聴力を持っている。馨の指し示した方向に響が耳を澄ますと、確かに極々小さな移動音が聞こえてきた。距離にして数百メートル以上先だが、確かに狛と猫田がそこにいるようだ。

 馨と響は顔を見合わせ、頷き合ってから静かに追跡を開始した。もちろん他の、狛達の追跡に出ている仲間への連絡を行ってからである。




「ここもダメか…拍の奴、結界術に関しちゃ本当に天才的だな。蟻の這い出る隙間もねぇとはこのことだぜ」


「……お兄ちゃん。どうしちゃったんだろう?あんなに話が通じないなんて…」


 一方その頃、猫田と狛は出口を探して移動を続けていた。どれだけ歩いてみても、結界に隙や綻びは見えてこない。迂闊に触れてしまえば、術者である拍には丸わかりになってしまうので、霊視で判別するしかないのが厄介な所である。屋敷を抜け出してから数時間、そろそろ陽が落ち始めていて、山深い森の中は段々と闇が濃さを増していた。このままいくと山中で夜を明かすことになりそうだ。

 猫田はともかく、狛にはあまりよろしくない状況である。獣道ですらない山の中を歩くのは想像以上に体力を使うし、何よりも恐ろしいのはこの暑さで水分を失うことである。既に山中の水場は抑えられてしまっているので、水分の補給が非常に難しい。長時間逃げ続けるのは不可能だと言うのが、猫田の見立てであった。


 そして狛は、兄や他の親族の豹変ぶりに心を痛め、思い悩んでいた。確かに犬神家の掟では、どんなことがあっても犬神を増やしてはならないというものがある。だが、アスラを犬神にしたのは不可抗力で、そもそも通常の狗神作りとは違って、狛はしゅをかける目的でアスラを苦しめて殺したのではない。しかし、肝心の狛自身にもアスラが犬神化した理由はよく解っていない為、上手く説明できない事が余計疑惑に拍車をかけていた。

 もしも仮に、狛にもう一度弁明の機会が与えられても、犬神となったアスラという動かぬ証拠がある限り、疑惑を晴らすのは難しいだろう。このまま逃げ続ける事に意味はあるのか、狛はその身を襲った突然の出来事が急展開過ぎて、判断が出来ずにいた。


「確かに訳がわかんねーな…いくらなんでも、あそこまで頭の固い奴らじゃなかっただろう。かと言って、誰かに操られてる風でもなかったし……くそっ!どうすりゃいいんだ」


 猫田も頭を抱えて、苛立ちを露わにしている。考えてみれば、猫田はハッキリと殺せと命ぜられていた。つまり、狛よりも状況は深刻であり、捕まればただでは済まないだろう。はたとそれに気付いて、狛は猫田に申し訳なくなってしまった。自分の辛さや苦しさばかりで、巻き込んでしまった猫田の事を何も考えられていない。それはあまりに不誠実な気がして、狛は足を止め、俯いて黙ってしまった。


「…あん?どうした?狛。何かあったか?」


「なんか、ごめんね、猫田さん。こんなことに巻き込んじゃって……」


「何言ってんだ、そんなのお前が悪いわけじゃねぇだろ。俺の事なんかよりお前の方が心配だぜ。……せっかく拍の奴が目を覚まして、これからって時によ…」


 猫田は猫田で、狛の精神面での消耗を心配していた。ハル爺に続いてナツ婆を失い、仕方がなかったとはいえ槐を手にかけたのも、本当は辛かったはずだ。その上で、心の支えになってくれそうな最愛の兄からのこの仕打ちである。少し前の狛だったら、とっくに心が折れてしまっていてもおかしくはない。

 鬱蒼とした森の中、二人して言葉を失って立ち尽くしていると、不意に視線を感じた。猫田と狛は同時に顔を上げてその気配のする方を見ると、そこには一人の着物をした女性が立っている。


 その顔は能面のように白く、薄暗がりの木々の間で、ぼんやりと顔が浮かんでいるような不気味さだ。明らかに人間のそれではないと感じた次の瞬間、女の顔が般若のような表情に変わった。そして、耳鳴りがするほど非常に高音の金切り声のような叫びを放った。


式絡繰しきからくり…!?響さんだっ!」


 狛がそれに気付いて声を上げると、女の姿をしたそれは猛烈な勢いでこちらへ向かってきた。式絡繰とは、響が独自に編み出した機械式の式神である。単なる式神とは違い、からくり人形を素体として、その中に低級霊を封じ込めて使役する術だ。通常の式神は、術者と妖との間に契約が必要であり、個体差が激しいのが欠点であった。しかも当然、強い式神を用意しようとすれば、術者の側にも高い実力が要求される。

 しかし、式絡繰の場合、ベースがからくり人形である為か、常に画一的な性能を担保することが可能である。中に封じ込めるのは弱い霊力で操れる低級霊で十分な為、術者の負担が限りなく少ないというのが最大のメリットと言えるだろう。


「ちっ!もう見つかったのか!」


 そう言って舌打ちをしつつも、猫田はこの時間まで逃げ切れた事に、どこかで安堵しているようだった。だが、その後に訪れた男達の発言により、猫田の中の希望は脆くも打ち砕かれる事となる。


 四つん這いになって藪の中を高速で接近してくる式絡繰の姿は、何ともおぞましい気配を漂わせていた。なまじ人の形をしているだけあって、不気味な違和感が強いせいだろう。そして、あっという間に猫田の足元に近づくと、両手から鋭い刃を伸ばして獰猛に襲い掛かってきた。


「猫田さんっ!」


「しゃらくせぇっ!」


 猫田は抱き締めるように飛び掛かって来た式絡繰の攻撃を、そのまま一歩踏み込んで強烈な打撃で返した。がら空きの腹を掌底で殴りつけるとメリメリと木が圧し折れる音がして、式絡繰の身体がくの字に曲がる。そして、一気に霊力を流し込み内部から破壊してみせた。

 相手が人間ならいざ知らず、機械式の式神ならば遠慮は無用だ。曲がりなりにも神野と渡り合う実力の猫田や狛に、この程度の式神が通用するはずなどない。それは式絡繰を放った響が一番よく解っているようで、猫田が一体の式絡繰を撃破したその時、二人の周囲には数十体の式絡繰の群れがずらりと並でいた。


「何だこいつら…数で押し切ろうってのか?面白れぇ、この程度の人形共に俺達が後れを取るかよ!」


「……そうか、ならばこれはどうかな?」


「…っ!?猫田さん、上っ!」


 狛が咄嗟に気付いたのは、周囲の樹上からこちらを覗く式絡繰の姿があった。周囲に展開しているものとは別のタイプで、小柄だがどこか異様な気配を纏っている。狛も樹上に潜んでいるタイプの事は初めて見たようで、酷く警戒したままだ。

 すると、周囲を取り囲んで様子を見ていた式絡繰達の何体かが突然行動を開始した。今度は狛も応戦して猫田と二人で蹴散らしていくが、やはり手応えはほとんどない。一気に攻めて来ないのは波状攻撃が目的なのか?そう考えて警戒が緩んだ次の瞬間、樹上に控えていた式絡繰達が一斉に落ちてきて、そのまま爆発した。

 狛達は一瞬にして相次ぐ爆発に飲まれていく、夜を迎えた山中の森に、赤く輝く炎のきらめきが揺れていた。

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