「くっ……無事か?狛」
「けほっけほっ…!な、なんとか……でもまさか、自爆するなんて…」
草木の燃える臭いと煙が辺りに充満していて、狛はむせてしまっている。これだけ派手にやると山火事が心配だが、それよりも気になるのは次の攻撃だ。今の爆発はかなりのものだったとはいえ、それだけであの数の式絡繰達が全て吹き飛んだとは思えない。猫田が一瞬にして大型の猫に変化して狛に覆い被さってくれたので、狛は爆発の影響を受けなかったが、その代わりに周りが何も見えないのが困りものだった。
一方猫田は、煙で視界が塞がれている事に戸惑っていた。どうやら、この煙は霊的な力を帯びていて、ただの煙ではないらしい。 おそらく猫田達をあの爆発で倒せないのは想定済みで、この煙で視界を奪うのが相手の目的だったのだ。
「ずいぶんと用意周到なこった。これが狙いなら、まだ終わりじゃねーな……?」
そう、これだけの事をして視界を封じておいて、これで攻め手が終わりだとは思えない。他にもまだ手段を残しているはずだ。そんな猫田の予想通りに次なる攻撃が、二人を襲った。
視界を塞ぐ白い煙の向こうから、刃を持った式絡繰が飛び込んでくる。それは周囲を取り囲んでいたタイプのもので、四方八方から遮二無二飛び掛かってきているようだ。
「っ!?野郎…!」
前後左右、どこからともなく向かってくる式絡繰達は、生物ではない為かほとんど気配がない。内部に封じられているであろう低級霊の影響が外に漏れないようしっかりとした封印がされているせいもあって、接近してくるまでは気付けないのが実情だ。それも相まって、煙で視界を塞ぐ作戦はシンプルだが、一定の効果がある。
それでも、前から襲って来る分には、動体視力と反射神経に優れた猫田なら十分対応できるが、そこにかまけていると後方や左右からの攻撃への対処がおろそかになってしまう。しかも、相手は刃を持っているので、これだけ力の差があっても一定の威力があるのもまた厄介だ。
何度か後ろ足や脇腹を切られた猫田は、徐々に怒りを見せ始めていた。
「…タフな奴だな。数打ちの量産品とはいえ、霊刀でこれだけ切られてもまだ動けるのか」
「へっ!俺を殺りたきゃ、もっと本気で来な。そんな
「その声…やっぱり響さんでしょ?もう止めてっ!猫田さんは何も悪くないの!」
戦闘の為に猫田が立ち上がったことで、体の自由が戻った狛が猫田の腹の下から抜け出して声を上げる。響は若い退魔士達の中でも、リーダー的な存在の男だ。普段は冷静沈着で、決して偏った考えをする男ではない。彼ならば話を聞いてくれるだろうと、狛は確信しているようだった。
「…狛か。お前はそこまでして猫田を庇うのか?そいつは妖怪だぞ。本来、俺達の敵だ。いつまでもそんな奴に利用されてどうする。掟破りだけではなく、やはり拍様の言う通り、お前はもう取り返しのつかない所へ踏み込んでしまっているようだな」
「な、何を言ってるの?私が、猫田さんに利用されてる……?」
「そうだろう。そいつは自分の身の安全を守る為に、お前に近づいただけだ。お前はそいつに騙されて、体よく利用されているに過ぎん。でなければ、俺達退魔士に妖怪が近づいてくるものか」
「そ、そんな…それ、本気で言ってるの?猫田さんはこんなにも身を挺して私を守ってくれたりしているのに……」
「ふん。妖怪共のやり口などそんなものだ。そんな事も見抜けないとは、見下げ果てたぞ。狛」
そう言い放つ響の言葉に、狛は絶句してそれ以上何も言えなくなってしまった。狛はこの一年弱の間、猫田が懸命になり、自分の為に身を粉にして助けてくれたのかを間近で見てきた。ハル爺もナツ婆も理解していてくれたし、何より拍もそれはよく解っていたはずだ。それを無視して、ただ己の為に狛達を欺いていたなどと評するのは、猫田に対する侮辱以外の何者でもない。それだけは、到底許す事の出来ない物言いであった。
「そんな…そんなことないっ!猫田さんはいつも私の事を考えて、助けてくれたんだよ!?私にとってはもう一人のお兄ちゃんみたいな…家族同然だもの。取り消して!そんな事言うなんて、いくら響さんでも許せない!」
「狛……!」
「バカな…!妖怪が家族だと?……もういい、よく解った。狛、お前はもう手の施しようがないようだ。これ以上そいつに着くと言うなら容赦はしない。俺達の邪魔をするならば、殺害も止む無しと拍様から命令が出ていたが…それは正しかったようだな」
「何…?殺害って、狛をか!?お前ら、そこまでするつもりなのかよ!?」
猫田は愕然として、言葉を荒らげた。正直な所、もしもどうしても脱出経路が見つからないようなら、猫田は一旦、狛を置いて逃げようと思っていた所だった。山中をあてもなく彷徨うより、例え捕まったその先が座敷牢だとしても、ひとまず狛の命は保証される…そう考えていたからだ。
だが、今の響きの言葉を聞くと、それはもはや無意味なことであるようだ。拍を始めとした今の犬神家の人間達にとって、猫田を守ろうという狛は、妖怪の側に着いた人類の敵なのだ。あの狛第一とでも言うべき拍がそんな考えに至るとは信じられないものであったが、煙の向こうにいるであろう響という男は間違いなく狛を殺す事も止む無しと考えている。ならばもう、狛には犬神家に居場所などない。
「テメェら……本気でそう言ってんのかよ…!許せねぇっ!」
猫田は怒りに震えていた。狛が猫田をずっと見てきたように、猫田もまた、狛がどれだけ懸命に生きて、家族や友人といった仲間の為に戦ってきたのかを誰よりも傍で見て来ている。その中には、自分も含めた妖怪も入っていて、それこそ命の危機に陥ったことは何度もあった。それでも、狛は決して心折れることなく戦い、投げ出したことなど一度もないのだ。そんな人間がどこに居ると言うのだろう。そんな狛の全てを否定するかのような発言を許せるほど、猫田は甘くない。
狛と猫田、二人は揃ってお互いの為に怒りを露わにし、白い煙の向こうにいるはずの響きを睨んだ。対する響は、もはやこれまでと深いため息を吐いて、指を鳴らす。
すると、それを合図にして、どこからともなく不思議な香りが漂ってきた。草木が焼ける臭いに混じっていて解りにくいが、明らかに今までのものとは違う、異質な臭いだった。
「この匂い……燃えてる匂いとは別の…あっ!?マズい!猫田さん、逃げて!」
「ああ?何言って……ん?こ、これは……マタタビの…っ!?」
それは猫田にとって、致命的な弱点とも言うべきものである。かつてナツ婆に渡されたマタタビの匂いを嗅いだ時、猫田は変化が維持できなくなって、普通の猫に戻ってしまった。隠していたはずのその情報は犬神家の中に共有されていて、対猫田の切り札として用意されていたのである。
「ふにゃあああ……」
「ね、猫田さんっ!?」
それと同様の事がここでも起こった。猫田はマタタビの匂いで力を抜かれ、ヘロヘロになって、小さな普通の猫に戻ってしまったのだ。狛は猫田がマタタビに酔うのを初めて見たが、とても戦えそうな状態ではないのは明らかだった。そして、そんな猫田を狙って、式絡繰達が動き出す。
「くっ!?この!!」
狛はすぐさま猫田を抱え上げて、一番近くにいた式絡繰を蹴り飛ばした。その後も白い煙を越えて次々に式絡繰が現れて狛と猫田を攻撃してくる。先程の響きの言葉は嘘でも何でもない、本当に猫田と狛を殺すつもりでいるようだ。ショックなことではあるが、今はそんな事に気を取られている状況ではなかった。
「やらせないよ…!猫田さんは私が守るからっ!」
「ちっ、狛の奴、どこまで……ならば、次の手を打つまでだ」
舌打ちする響の声が聞こえたと思えば、今度はマタタビの匂いに混じって嗅いだ事の無い刺激臭が周囲に立ち込め始めた。すると、狛の身体がほんの少しだけ、しびれを感じるようになってきている。姿こそ見えないが、その技には覚えがあった。これは匂いを操って敵を翻弄する、馨が得意とする霊術の一つだ。
「この匂い…!馨くんも来てるんだ。どこ!?」
「……流石だ、よく気付いたな。だが、探しても無駄なことだ。それよりも視界と嗅覚を奪われた上で、その足手纏いを守りながら、お前はどこまで戦える?」
響は淡々と、狛と猫田が力尽きるその時を待っているようだった。白い煙の向こうから、断続的に襲って来る敵は、想像以上に狛の精神を疲弊させた。いつ来るか解らない攻撃に気を配る中、時間が経てば経つほど身体の痺れは強くなる一方だからだ。
「このままじゃ……やられちゃう。でも、猫田さんを守る為には、もう…!」
人狼化をして窮地を乗り切る事は簡単だ、ただ、相手は同じ犬神家の退魔士達…身内である。狛が人狼となって戦えば、大怪我をさせかねない…それが頭にあって、今まで本気を出せずにいた。狛は出来れば、誰も傷つけたくはないのである。
しかし、もはやそんな甘い事を言っていられないほどに状況は逼迫していた。槐の時のように覚悟を決めた時、突然、狛の足元にマンホールほどの穴が現れた。穴の奥は真っ暗で何も見えず、そこから狛と猫田にだけ聞こえる大きさで声がする。
「…そこの娘子よ、助けてやるから入って来るがよい」
「え?だ、誰!?」
「いいから早くせい、逃げたいんじゃろう?」
その声はとても低く、くぐもった声であるが、不思議と敵意は感じられない。人間ではなく妖怪の類いなのだというのは解るが、どうして急に声をかけてきたのかが謎だ。
そうしている間にも、式絡繰達は断続的に襲ってきて、狛を追い詰めようとしていた。襲い来る人形の群れと、謎の声…混乱しつつも応戦する狛の頭上でかすかな物音がした。見上げてみれば、それはあの小柄な式絡繰だ。狛が気付いた時にはもう飛び掛かって来る寸前で、再び自爆をするつもりなのだろう。
それは、今の普通の猫になってしまった猫田には致命傷になり得るものだ。人狼化して庇うか、謎の声に従うか、二つに一つである。
「来る…!ああもう、えいっ!」
自爆する式絡繰が樹上から飛び離れた瞬間、狛は覚悟を決めて足元の穴に飛び込んだ。そして、狛の身体が穴に落ち切るのとほぼ同時に、頭の上で先程以上の爆発が起きていた。爆破の衝撃が来ないのは、それと共に穴が閉じていたからである。どこまでも落ちていくような感覚に肌を粟立たせつつ、狛は猫田の身体をしっかりと抱いて、その時を待った。
「……ここ、は?」
いつの間にか浮遊感が消え、冷たい空気が狛達の周りに漂っている。鼻を衝く獣の匂いが生々しいが、空気そのものは清澄だ。
「よぅ来た。犬神の娘よ」
「っ!……え?お、大きい…」
その声と共に、暗がりにいくつかの蝋燭の火が灯り、狛の目の前にはとてつもなく大きな獣がそこに居た。狛はただただその大きさに圧倒されるばかりであった。