その獣は、じっと狛を見つめていた。身体の割にやや小さな丸くつぶらな瞳は、蝋燭の光が反射してキラキラと光っていて、その眼の周りを覆うように模られた黒い模様が顔の下方向へ伸びて繋がっている。全身は黒に近い焦げ茶色の体毛で覆われており、大きくまあるい腹に左手を載せ、右手には小柄な人間ほどの大きさをした煙管を持って、悠々と煙をくゆらせていた。ちょうど猫が壁に寄りかかって腹を見せる、俗に言うおっさん座りの体勢だ。
その姿は正しく狸そのものである。ただし、狛が知る狸とはサイズ感が全く違う。大きさ的には大型の猫化した猫田を優に超える大きさと言ってもいい。見た所、座っていても10メートルほどの体長があるだろう。
その巨体っぷりを目にして、しばらく呆気に取られた狛が呆然としていると、大きな狸は呆れたようにゆっくりと口を開いた。
「何じゃ?今の若い者はタヌキを見た事がないのか?…まぁ、昔に比べて、儂らの仲間はだいぶ数を減らしてしまったが」
「あ、いや…違うんです。その……あなたが、余りにも大きくって、ビックリしちゃって…」
巨体に見合う低音で、少し寂しそうに喋る狸の言葉に、狛はすぐに反応して答えた。結果として無視する形になってしまったのが申し訳なくて、改めて謝罪の言葉を口にする。
「あの、失礼な事をしてごめんなさい。助けてもらったのに…」
「ああ、よいよい。儂を見て驚かん方が無理というものじゃ。儂らも驚くとよく動かんようになるからな、若い者には危ないから止めろと言っているのだが……こればっかりは本能的なものじゃから仕方なかろう」
獣そのものの顔だと言うのに、大きな狸がニカっと笑ったように感じて狛はまた少し驚いたが、今度は呆ける様なことはしない。今気になるのは、何故この恐竜染みた大きさの狸が自分達を助けてくれたのか?という事だ。当然ながら、狛に狸の知り合いはいない。犬神家の敷地である裏山に狸は生息していたが、彼らは臆病な動物なので、滅多な事では人前に姿を現す事をしないからだ。
そもそも、あの状況で狛が穴に飛び込んだのは、人狼化して響や馨と戦うよりもまだ妖怪の罠を人狼化して乗り切る方がマシだと判断したからだ。だが、ざっと見た所、ここは安全そうで、とてもこれが罠のようには見えない状況だ。本当に助けてくれたと言う事ならば、感謝してもし足りない所である。
「む?まだその寝坊助は起きんのか?仕方のないヤツよ…どれ」
狸がふっと煙を吐き出すと、その端のほんの僅かな煙が一人でに動いて、狛の腕に抱えられた猫田の元に飛んで行き、そのままスッと鼻の中に吸い込まれていった。すると猫田はモゾモゾと顔を動かし始め、やがて大声をあげた。
「へ…へ……へっっっくしょいっ!!…だあぁっ!何しやがる!?」
「猫田さん!?」
カッと目を見開いた猫田の顔はしゃっきりとした目つきに戻っていた。マタタビに酔った姿は愛らしかったが、いつまでもあの状態では困ってしまう。怒ったように猫田は煙の原因を睨むと、そこに居た存在を目にして表情を変えた。少し不機嫌そうな、何とも言えない顔つきだ。
「何だ…アンタかよ。っていうか、何でアンタがここに居るんだ?ここはどこだ?」
「猫田さん、このヒト知ってるの?」
どうやらこの狸、猫田の知り合いのようである。いくら考えてみても心当たりが無かった狛は、ようやく合点がいって少しホッとした。だが、当の猫田は相変わらず憮然とした表情のままで、あまり好ましい相手とは思っていないことが、その様子から窺えた。
「知ってるも何も…大物だよ。お前、聞いたことねーか?お前と同じ名前してるんだぞ、コイツ」
「え?同じ名前…って狛ってこと?うーん、狛犬……には見えないし、なんだろう」
「そっちじゃねーよ!苗字の方だ」
狛は改めて狸を見たが、彼はどう見ても狸だ。どこをどう見繕っても狛犬には見えそうにない。見かねた猫田が苗字の方とヒントを出したが、狛にはいまいちピンと来ていないようだった。
「苗字って、犬神…?え、でもこのヒトはどう見てもタヌ……」
「これ、猫田よ、余り意地悪を言うでない。…しかし、今の若い者は儂の名を知らんか。無理もないことかの」
狸は煙管を加えてから、頭を上げてふぅーっと煙を吐いてみせた。こんなに大きな体で大量の煙を吐いているというのに、少しも煙たくないのは不思議である。今更だが、よく見ると周囲はかなり大きな洞窟のようで、さながらあの富士の大風穴を思い起こさせる場所であった。
一頻り煙を吹いた後、狸はゆっくりと視線を下げて、狛達を見た。その表情は温和そのもので、大物の妖怪が放つ圧が全く無い。狛はその不思議な雰囲気に感心しつつ、次の言葉を待っている。
「いかにも、儂はイヌガミの名を冠しておる、ただし字が違うがな。改めて名乗ろう、儂の名は隠神、
その名を聞いた途端、狛の身体をずっしりとした重みが襲った。それは敵意の圧とは毛色の違う、神の力に近い威迫だ。威容と言い換えてもいいだろう。真名を名乗ることで、相手に己の存在の大きさを知らしめる効果が表れたのだと狛は理解した。
「隠神刑部って……聞いた事があるような…」
狛が知らないのも無理はない。隠神刑部は四国に伝わる古い妖怪の名だ。この国全ての狸達を取り仕切る狸の大親分であり、一部では神格化もされている。また、彼の娘は北海道では神そのものとして祀られているほどの存在でもある。
狸は元々、古くから狐と並んで人を化かす霊力のある動物とされてきた。少々おっちょこちょいだが頭もよく、人を騙したりもするが、時に文福茶釜の狸のように人の役に立ったりもしている。
そんな狸達の親玉が、隠神刑部という大妖怪だ。こう見えても魔王である神野や
「偉そうに……昔はその名を全国に知らしめてたが、今じゃ大したこともねぇだろうによ」
猫田はつまらなそうに隠神刑部の言葉に食ってかかった。古い馴染みの関係であるのは間違いないようだが、何故こんなにとげとげしい対応を取るのだろう、狛はそれが気になった。基本的に、猫田は他の人間や妖怪に対してもそれほど悪感情を表に出さないタイプである。ここまで嫌悪感を前面に出すのは珍しい。少なくとも、敵対者でもない限り、ここまで悪し様な対応を取る所を見るのは初めてだった。
「何じゃ、ずいぶん機嫌が悪いのう。……まだあの時の事を気にしておるのか?」
隠神刑部はそう言うと、何とも言えない目つきで猫田を見ていた。悲しいような寂しいような、それでいてどこか申し訳なさを感じさせる視線だ。傍で見ている狛は、ギュッと胸が締め付けられるような、そんな感覚に囚われるほどの視線である。
「…当たり前だろう。あの時、アンタが俺達と一緒に戦ってりゃ、もっと救えた仲間だっていたはずなんだ。俺は絶対許さねぇからな」
猫田はそう言うと、強い視線で隠神刑部を睨みつけた。因縁の相手であることは間違いなさそうだが、一方的に嫌っているのは猫田の方であるようだ。狛は事情を聴いてみたいと思う反面、踏み込んでいいものか解らずに、ただ黙って成り行きを見守る事しか出来なかった。
「……改めて謝ろう、すまなかった。あの時、儂が大妖怪を名乗っておきながら大蛇との戦いに参加せなんだのは、儂の臆病故じゃ。すまぬ」
「ふん…」
「大蛇って…八岐大蛇の事?もしかして、
「そうだ。あの時、八岐大蛇復活が止められないと解った俺達は、全国にいる名のある妖怪達に触れを出したんだ。大蛇が復活して暴れ出せば、人間だけでなく、多くの妖怪達も命を落とす。それを避ける為に力を貸せってな。…だが、コイツを始めとしてほとんどの妖怪達は沈黙しやがった。こんな奴だが、隠神刑部は力ある神にも等しい大妖怪だ。そんな奴が手を貸してくれていれば、或いは、
猫田は苦々しい思い出を振り切るように、怒りでその過去と思いを打ち明けた。狛はそれに何も言う事は出来ずに押し黙っている。洞窟内のどこかで水滴の垂れる音がして、静寂の中に響いていた。