ハトシェプストの娘ネフェルウラーが生まれた時、乳母とは別にイアフメスまたの名をパアエンネヘベトという教育係が付けられた。彼はこの第18王朝の初代ファラオから仕えていた老臣であり、残念ながらネフェルウラーが乳児の頃に亡くなったので、ネフェルウラーは彼のことを覚えていない。
イアフメス/パアエンネヘベトの次に彼女の教育係になったセンエンムウトは、元々違う目的でハトシェプストに召し上げられた。
ハトシェプストは、病弱な夫トトメス2世の生前から将来を見据えて野心を持っており、
だからハトシェプストは、既にトトメス2世の生前にアメン神官団の中へ手先を送り込んであった。その中枢と言えるカルナック神殿の管理部門にも自分の駒を作るべく、神殿に伝手のある老臣イネニにその任務にぴったりな人間を紹介させた――それがセンエンムウトだった。
イネニは、彼女の夫の2代前のファラオ・アメンヘテプ1世の時代から王家に仕えており、ハトシェプストに忠実な臣下であった。彼女がイネニにセンエンムウトを紹介させた時、トトメス3世は既に生まれており、妾腹の唯一の世継ぎの王子の存在に彼女が危機感を覚えていることをイネニもよく理解していた。
「イネニ、誰か
「陛下、カルナック神殿の労働者の監督官のセンエンムウトはいかがでしょうか? 彼は出自こそ低いですが、賢く忠義に篤い人間です。数年前に私が今の職場に推薦してやった恩義を今でも忘れていません。陛下に忠実を誓えば、それを破る事はないでしょう。それに人望が厚く人脈が広いので、彼が神殿でこっそり動かせる人間もそれなりにいるかと存じます」
その言葉を受けてハトシェプストは、センエンムウトを召し出した。センエンムウトは、ハトシェプストに初めて謁見した時、高貴な女性に会えて光栄に思うあまり、緊張して身体が震えた。通常なら当時正妃であったハトシェプストに目通りが叶わない身分のセンエンムウトとは、秘密裡の謁見となった。
「苦しゅうない、頭を上げよ」
「ありがたき幸せ」
センエンムウトは頭を上げると、ハトシェプストの神々しい美しさを初めて目の当たりにした。その途端、雷を打たれたごとく衝撃が全身に走り、彼女にずっと忠誠を誓うだろうという予感が泉に湧き出る水のように湧いてきた。
センエンムウトはハトシェプストに忠誠を捧げて期待以上の働きを見せ、彼女の目に留まってからはあれよあれよという間に出世した。イアフメス/パアエンネヘベトの死後には、ネフェルウラーの教育係にも取り立てられ、
センエンムウトの出自は高くなく父親も高官ではなかったが、老臣イネニに推薦されてハトシェプストの目に留まってからはあれよあれよという間に出世した。王女の教育係から最終的には宰相に任命された上、ハトシェプストの葬祭殿建築を任せられ、知られているだけで93もの称号を保有する程になった。
センエンムウトがネフェルウラーの教育係に抜擢された直後、トトメス3世がお忍びで乳母の息子アメンメスだけを供に連れ、会いに来た。思いもがけず、ファラオを質素な家に迎えることになってセンエンムウトは慌てた。
「楽にしてよい」
「ありがたき幸せ」
「今日、お忍びでそなたのところに来たのは、我が妃の教育係に任命された者の人となりを見たかったからだ」
ネフェルウラーはトトメス3世の正妃であるにもかかわらず、教育係の任命は実母のハトシェプストの独断かつ事後承諾であった。それはセンエンムウトも承知していた。トトメス3世の実母逝去をきっかけにトトメス3世とハトシェプストとの関係が悪化していることを王宮で知らぬ者はもはやいない。
センエンムウトは、共同統治しているファラオ2人に公式には臣下として忠誠を誓う身であるが、内心、ハトシェプストにだけ忠義を捧げたいぐらい彼女に心酔している。そんな彼でももう1人のファラオを前に不敬なことを言えず、この場で何を言うべきか頭の中で色々と考えを張り巡らせた。
「そなたが本音では
「とんでもございません」
センエンムウトは、忠誠心を示すために慌てて額を床につけてひれ伏した。
「楽にしてよいと言ったであろう。そなたの本音は分かっておるが、ここは非公式の場。咎めはしない。それよりも余はそなたが我が妃を第一に考えて行動するか知りたい」
まだ子供のトトメス3世であるのに、彼の鋭い視線はセンエンムウトの身を縮こませるのに十分であった。
ネフェルウラーがハトシェプストにとって権力のための駒に過ぎないことをセンエンムウトも内心察しており、幼い彼女が気の毒とは思っていた。しかし心酔する女王とネフェルウラーのどちらかを取れと言われれば、本音では火を見るよりも明らかである。だが、もちろんトトメス3世にそんなことを直接言えない。
「私の忠誠はハトシェプスト陛下だけに捧げられてはおりません。私にとって正妃陛下も大切なお方です」
「表面だけの忠誠はいらない」
トトメス3世の厳しい声を聞いてセンエンムウトは急いで再びひれ伏した。今度はアメンメスまでもセンエンムウトを睨んでいた。
「はっきり言おう。継母上の思惑が我が妃の身を害することもあるかもしれない。その時には継母上の命令に反してでも我が妃を守ってくれるか?」
「ハトシェプスト陛下が正妃陛下を害するはずがありません」
「残念ながら継母上は、今、権力欲に囚われていてその危険がある。だが、継母上はそもそも腹を痛めて我が妃を産んだ方だ。母性を失っているのは一時的であろう。後で正気に戻って自ら娘を傷つけたことを知れば、悲しむに違いない。それならば、忠臣として先回りすべきではないか?」
「お言葉ですが、ハトシェプスト陛下は権力欲になど囚われておりません。正当な血統のファラオとしてこの国を正しく支配することを目指しておられるだけです」
敬愛する女王を弁護したくてそう言ったものの、センエンムウトは、トトメス3世の反応が怖くてひれ伏したままだった。
「余も正当なファラオであり、継母上の息子でもある。その余の頼みを聞くのは継母上の望みに反していないはずだろう?」
「仰せの通りですが、ハトシェプスト陛下に命じられたことを一臣下として聞かないわけに参りません」
「ふむ、そなたも頑固だな。いいだろう、それだけ継母上に忠実なのだから、継母上の命令に反さなくてもよい。ただし、継母上の命令が我が妃の身を害するものなら、ただ実行せずに傍観するのだ。我が妃を守ることを第一に考えろ。それが将来的に継母上のためにもなる」
「……かしこまりました」
センエンムウトは、これ以上抗弁できず了承するしかなかったが、ネフェルウラーを害したくない気持ちは本当だった。ただ、ハトシェプストの命令を傍観することは、すなわち命令に反することと同義であるので、ネフェルウラーを害するような命令が本当に出ないことを祈った。しかしその願いもむなしく、その後、彼は葛藤することになる。
センエンムウトはハトシェプストの寵愛が深く、最終的には宰相にまで出世した。その上、ハトシェプストの葬祭殿建築まで任せられ、知られているだけで93もの称号を保有する程になった。それゆえ、彼らの政敵は、2人の関係について口さがない噂を流した。ハトシェプストは何事もないかのようにやり過ごしていたが、彼女に心酔するセンエンムウトは、彼女の高潔な精神を貶める奴らのやり口に憤りを感じていた。でもそれと同時に、センエンムウトの愛が臣下としての愛であるとハトシェプストが露程も疑わず、忠誠を信じているのを見るにつけ、彼は罪悪感を覚えた。