乳母ティイがネフェルラーのまっすぐな黒髪を梳かしていた。
「姫様の
「『そくしつ』?」
「陛下の他の奥様のことです」
「お兄様の奥さんは私だけよね?」
「陛下が大きくなられたら、何人もお妃様を持つことになるのです」
「嘘!お兄様の奥さんは私だけに決まってるわ! ティイの旦那さんだって他に奥さんいないでしょ?」
「姫様、貴族や一般市民では妻1人が普通です。でもファラオは何人も妻を持ちます。姫様のお父様トトメス2世陛下もそうでした。姫様のお母様とトトメス3世陛下のお母様は別の方なのはご存知でしょう?」
「嘘、お兄様のお母様も私のお母様でしょう?」
「ええ、名目上はそうです。でもトトメス3世陛下を産んだ方は別の女性なのです。もしハトシェプスト陛下が姫様と陛下の実の母でしたら、お二人は結婚できなかったのですよ」
ネフェルウラーは元気をなくして『知らなかった……お母様に聞いてみる』と呟き、すぐにハトシェプストのところへ向かった。
「お母様、教えて下さい。お兄様に私以外の奥さんができるって本当なのですか?」
「あと1、2年もしたらそうなるでしょうね」
「そんなの嫌!……」
ネフェルウラーは目にいっぱい涙をためて言った。
「ファラオなら仕方ないのよ。貴女のお父様もそうだったのよ。でもね、一つだけいい方法があるわ」
「どんな方法? お母様!」
ネフェルウラーは食らいつくように母に聞いた。彼女の涙はいつの間にか止まっていた。その方法を聞いてさっそくトトメスにお願いしに飛び出していった。乳母ティイは慌てて後を追った。
「姫様、お待ち下さい! そんなに走っては姫様の心臓に悪いです!」
「お兄様! 私、頑張ってお兄様の赤ちゃんいっぱい産むから他の奥さんと結婚しないで!」
「あ、あ、赤ちゃん?! ゲホゲホ……」
キスすらしたことない仲なのに突然やってきた幼な妻にそんなことを言われてトトメスはむせてしまった。
「お前は身体が弱いんだから、そんなこと考えなくていいんだ」
「でも赤ちゃんができなかったら、他の女の人がお兄様の奥さんになっちゃうんでしょう?……私、そんなのヤだ!」
「そうなってもお前は俺の奥さんだよ」
「他の女の人がお兄様の奥さんになっても?」
「そうだよ」
「でもヤダ! 私だけのお兄様がいい! 赤ちゃんたくさん産むから私だけのお兄様でいて!」
「お前が赤ちゃんをたくさん産んでも、僕が他の女の人と結婚しなくちゃいけなくなるのは多分変わらないよ」
「どうして?!」
ネフェルウラーの澄んだ瞳からまた雫が落ちてきた。
「僕はファラオだ。外国との和平でその国の王女と結婚しなくてはいけないこともあるかもしれない。国内の有力者の娘と結婚しなくてはならなくなるかもしれない。でもそうなってもお前は僕の1番の奥さんだよ」
「お兄様、嫌ー!」
ネフェルウラーはトトメスの言ったことの半分も理解できなかった。でもトトメスが将来別の女性を娶らなくてはならなくなるだろうということだけは理解でき、悲しくなってトトメスに抱き着いて号泣した。
「わがまま言って僕を困らせないで。君は僕の
「うん……ひっく……ひっく……」
トトメスがネフェルウラーをそっと抱きしめて背中をとんとんと優しく叩くと、ネフェルウラーは落ち着いてきた。泣き声が段々小さくなり、やがて寝息が聞こえるようになった。眠り込んでしまったネフェルウラーの顔にはまだ乾ききっていない涙の痕があった。トトメスは指でそっとその涙をぬぐった。