「ショウさん、何か急な用件でしたか?」
ボイスチャットを切った後も落ち着かない様子の俺を心配して、ミコトさんが声をかけてきた。
その柔らかな声と純粋に気遣う瞳を前にすると、俺もここは下手な小細工やごまかしは考えず、正直に話すべきだと思い至る。
「マテンローからなんだけど、『キング・ダモクレス』が出たらしい。ほかのHNMギルドが集まる前に戦いたいから、俺達のギルドにも協力を頼みたいって話なんだけど……」
その言葉を聞いた途端、部屋にいるみんなの空気が変わった。表情が一気に引き締まり、緊張感が漂う。
ダモクレス――それは、一般プレイヤーにとって最も馴染み深い
この王都の西には、効率の良い狩場が広がり、多くの冒険者達が日夜訪れている。その狩場に至るには、険しい山に挟まれた細い道を通って行く必要があるが、その道の途中、少し開けた広場のような場所があり、そこに鎮座する巨大な獅子のようなモンスターこそがダモクレスである。鋭い黄金の瞳、たてがみのように燃え盛る紅炎、筋肉の塊で構成された堂々たる体躯。その威容は、初めて遭遇するプレイヤーの心を委縮させ、同時に恐怖と興奮を呼び覚ます。
狩場に向かうには、その広場を通らなければならないため、多くのプレイヤーが初めて遭遇するNMとしてダモクレスのその姿と名前を頭に刻んでいることだろう。
もっとも、ダモクレスはその場から動かないため、広場の端を慎重に通り抜ければ襲われることはない。しかし、迂闊にも近づいた者には容赦なく遠距離攻撃――その名も「ダモクレスの剣」が降り注ぐ。その一撃はレベル40未満のプレイヤーなら、一撃で屠るほどだ。
だが、プレイヤー達がレベル50台に入ったころには、そのダモクレスは過去の人――いや、過去のモンスターに成り下がった。今では高レベルの六人パーティがいれば簡単に倒せる存在だ。かつて狩場へ至る道のヌシとして君臨していたダモクレスも、いまや通りがかったプレイヤーに即狩られる哀れなモンスターになってしまっていた。
しかし、そんなダモクレスが再び脚光を浴びたのは、ある日実施された大規模なバージョンアップの時だった。アップデート後、倒されたダモクレスが一定時間後にリポップする際、低確率で「キング・ダモクレス」として現れる仕様が追加されたのだ。
キング・ダモクレスの外見は、通常のダモクレスと変わらない。しかし、その能力は桁違いに強化されていた。無防備に挑んだレベル50台の六人パーティが瞬く間に全滅したという報告が相次ぎ、その圧倒的な強さは瞬く間に噂となった。
そんなキング・ダモクレスの存在を知らぬ者はいない。最初に現れて討伐されるまでの長い期間、多くのプレイヤー達がその横を怯えながら通り過ぎていったのだから。
けれども、今、俺達にはそのキング・ダモクレスと戦うチャンスが巡ってきたのだ。
「ショウ、こんな機会は滅多にない。やろう!」
そう言って立ち上がったのはクマサンだった。クマサンは元からギルド同盟にも肯定的だったから、この反応は予想の範囲内だ。
だが、問題はほかの二人だ。
俺が気にしている二人の内の一人、メイが静かに立ち上がる。
「ダモクレスの弱点属性は雷だったよな。やるなら魔法のスクロールやアイテムをちゃんと揃える必要があるな」
「つまり、やるってことでいい?」
「最初から私はHNMに興味あるって言ってるだろ。一戦くらいならアイテムを惜しみなく使ってやるよ」
相変わらずメイは格好良い。リアルでは金髪のロック系クールレディ――そんな彼女がこの言葉を口にしているのだと思うと、なおさら痺れるものがある。
最後に、俺はミコトさんへと視線を移した。
「はぁ……」
彼女は長いため息をつく。
ギルド同盟を断るどころか、逆にHNM戦への協力依頼を受けてしまった俺に、ついに愛想を尽かしたのだろうか? 胸の奥から焦燥感が湧き上がってくる。
しかし、ミコトさんは怒るでも呆れるでもなく、どこか達観したような顔で口元を緩めた。
「もう、そんな戦いたそうな顔を向けられたら、いやだって言えないじゃないですか」
「え? それって……」
「わかりました。私も一緒に戦います。私だってHNMに関心がないわけじゃないですからね」
「ミコトさん……」
そうだった。ミコトさんだって、「猛き猪」や「インフェルノ」との激戦を経験し、仲間と共にそれに打ち勝つ興奮と喜びを体験しているんだ。戦えるHNMがいるとわかっていて、スルーなんてできるはずがない。
「でも、ギルド同盟を承諾したわけじゃないですよ! 今回は一時的に協力するだけですからね!」
「わかってるって! それで十分だよ」
そう、実際、それに関しては俺も同じ気持ちだ。
マテンローやそのギルドメンバー達のことについては、俺もまだよく知らない。ミコトさん達のように命を預けられるような相手なのかどうか見極めるには、今回は良い機会にもなるだろう。
もし「蒼天の牙」の連中がうちのギルドメンバー達のような気持ちのいいプレイヤーばかりなら、きっとミコトさんだって考えを変えてくれるに違いない。
「それじゃあ、みんな、マイルームでサブ職業や装備を整えてからもう一度ここに集合しよう。早く行かないとほかのHNMギルドが先に戦闘を始めかねないから、なるはやで頼む」
「おう!」
「わかりました」
クマサンとミコトさんからは気合のこもった返事が聞こえてきたが、メイだけは難しい顔をしていた。
「マイルームにある魔法のスクロールだけじゃ心許ない。魔法屋で雷魔法のスクロールやほかのアイテムなんかも買い漁ってから追いかける。みんなは先にキング・ダモクレスのところへ向かってくれ」
確かに場合によっては数秒の遅れで獲物を取られる恐れがある。でも、だからといって、メイを一人残して先に出発するというのは、やはり気が引ける。HNMは魅力的だが、それは仲間と比べられるようなものではない。
「そこまで時間がかかるものじゃないだろ? メイの準備が整うまで待ってるぞ?」
「大丈夫だ。私には『ヘルメスの靴』がある。先に出てもらってもきっと途中で追いつけるはずだ」
「――――!?」
ヘ、ヘルメスの靴だって!?
事も無げに言ったメイを、驚愕と羨望の目で見てしまう。
彼女が口にした「ヘルメスの靴」とは、一部のHNMからしかドロップしないレアアイテムで、非戦闘職のプレイヤーにとっては喉から手が出るほど欲しい神アイテムの一つだ。
この靴は、防御力など戦闘面においては秀でた性能を持っていないものの、ほかの装備にはない特別な能力を備えている。その能力とは、ギリシャ神話に登場するヘルメスが旅人や商人の守護者であったように、非戦闘職のプレイヤーが履いた時のみ発揮される能力で、なんとキャラの移動速度が10パーセントもアップするのだ。ヘルメスが翼のついた靴を履いていたという逸話からきたものなのだろうが、このゲームにおいて移動時間というのはプレイ時間のうちの大きな部分を占める。その際の速度が10パーセントもアップするということは、移動時間の約一割を減らせるということにほかならない(計算すればわかるが、正確に言うなら移動時間の減少は約9パーセントで、一割には届かない)。その上、パーティで行動中、一緒に歩いていれば、皆を自然と後ろに引き離していくことになる。その際に味わう優越感はきっとなかなかのものだろう。
とはいえ、そんなヘルメスの靴も、戦闘職のプレイヤーにとっては何の価値もないため、時々市場に出回ることもある。しかしながら、市場に出たところで、とても俺にどうにかできるような値段の品物ではなく、ただ羨ましく眺めていることしかできなかったが、まさかメイがそのヘルメスの靴を所有していたなんて……。
「でも、メイは俺達と一緒に歩いていても同じ速さだったじゃないか?」
「ああ。一人だけ速くても意味がないから、みんなと一緒の時は履いてないからな。使うのは一人の時だけだ」
…………。
なんだろう、さっきまで「仲間を後ろに引き離して優越感を味わえる」とか考えていた自分が急に恥ずかしくなってきた。メイはそんな子供じみたことはせず、仲間との調和を第一に考えていたというのに……。
「ん? どうした、ショウ? そんな申し訳なさそうな顔をして?」
「なんでもないやい! わかったよ、そんなに言うなら三人が揃った段階で先に出発するから、メイもすぐに追いついてこいよ!」
「ああ、わかってる」
こうして、俺、クマサン、ミコトさんは、それぞれサブ職業と装備の変更、道具の補充を終えて再集合すると、キング・ダモクレスが待つ地へ向けて出発した。
そして、約束通り、メイは目的地に着く前に俺達に合流を果たした。全力移動しているのに距離を詰めてくるメイが、とても羨ましかったが、さすがにそれを口に出すのはさすがにやめておいた。
ああ、いつか俺も「ヘルメスの靴」が欲しいなぁ……。