八七 平手
「は? ええと――どういうこと?」
「一目惚れだってこと」缶を振って中身が無いことを見、冷蔵庫から冷えた酎ハイを取りだす。「あのときの聖子、すごくよかった。だからおれ、クラからオーボエに転向しかけたんだ。それくらいよかったってこと」
「え、高志? 高志、ねえ、意味が分かんないんだけど」わたしの割り箸は先ほどから動きを止めている。
「――アンサンブルコンテストの支部大会。木管五重奏。実はな、聴きに行ってたんだ。おれ、楽器を手にしたときからずっとクラだった。支部での聖子のオーボエ聴いて、なんか目覚めたな。心底興奮したといってもいい。だから、あのときのおれの感動を取り上げないでくれよ、な?」と高志はいってぐびぐびと酎ハイを飲む。かれの目つきは眠たげで、しかし胡乱であるとか、話の脈絡がないとか、酩酊している気配はない。
「でも、高志、なんでそんな地方まで」
かれはにっ、と笑い、「たまたま親戚が亡くなったんだよ。それで、たまたま支部の会場の近くがその親戚の家だった。親父に不謹慎だって怒られるのは目に見えてたから、てきとうな理由で家を抜け出したんだ。全国大会の常連校もわんさか出てるし、いい経験になった。それに――」といった。
「それに?」
「聖子に惚れた」
たっぷり二秒間は黙り込み、「そんな、惚れたからっていっても――」とわたしは額に手を当てる。
「でも、いや、だから夏の図書館とかでわたしのこと、オーボエ吹きだって決めつけてたの? 『しょうこ』じゃなく『せいこ』って間違えたのも、情報がパンフとかだけだったから?」
「そうだよ」涼しい顔で答える。「結局、聖子に憧れてたってだけでおれはオーボエの素質はなかった。けどな、図書館でどうにも見覚えのある顔がいつも自習してたから、少しだけ調べようとしたんだ、ストーカーにならない程度にね。結論からいって、ただの学生ではなにも分からなかったんだけどね」
酎ハイを飲み終え、かれは麦茶を飲みながら続ける。「でも、なんとなくの状況証拠では、どうやらオーボエ吹きらしい、ってまでは分かった。あとは自陣に誘い込んでからじゃないと何も進まない、ということだけしか――」
麦茶のグラスが倒れている。わたしの右掌は熱を帯びた痺れを感じ、かれは左頬をおさえている。
わたしは肩で息をする。
「いい加減に、いい加減にして――そんなことでヨッシーと別れたの? それ、正気? 普通の神経の持ち主なら思い出の、片思いの子を優先するなんて、頭がおかしい、というか完全に狂ってると思わざるを得ないわ。ああそう、分かったわよ、大変よく分かりました。高志が好きなのは高二のわたしで、今はたまたまその女子高生が目の前に現れたってだけなんでしょ。そんな、そんなことで人生進めてる気分になってる男にだれがついてくと思ってるの? もういい。もういいから、今日は帰って」
語尾は涙まじりとなった。わたしは座卓に突っ伏した。
自分を好いていてくれた高志は、ただ思い出に恋をしただけの男だった。今のわたしを見ているか定かでないし、そのために当時の交際相手の吉川をかんたんに捨てたのだ。そんなの、軽挙妄動だ。こんな男のために生まれて初めて本気になったのかと思うと笑いすらこみ上げる。
「ほら、帰る支度はすんだの、高志?」
うつむき加減の高志はバッグの中から冊子を取りだし、渡してきた。
「――マリオン・バウアー作曲、オーボエとクラリネットのための二重奏、作品二十五。コピーしたやつはおれが持っている。原本は、聖子に」
「で? なに? これをどうしろっていうの」
「定演がすんだら少し暇になる。おれはだれのためでもない、ただ純粋に、音楽のための音楽を聖子とやりたい。たしかにヨッシーと付き合っていた。結果的にヨッシーを傷つけることにもなった。――どうにもおれは身勝手というか、順番や脈絡がどうあれ、好きになったら好きでいるしかない。それが個人のわがままだっていうのも理解している。それに、道筋や風聞で好き嫌いを決めるのには堪えられない。おれ、今日この場で完全に聖子に嫌われても、ずっと好きなままでくすぶってると思う。それだけだよ」
高志は音をたてないように鍵を座卓に置いて、コートを着込む。バッグを持ち、靴を履いて外へ出る。
『順番や脈絡がどうあれ、好きになったら』――。
あの高志の言葉、初めて高志に抱かれたときに思い浮かんだ言葉だ。順番や脈絡がどうあれ、好きになったらさしたる関係はない。
「――馬鹿はどっちよ」
わたしは人間ひとり分以上の熱量が奪われたワンルームで、また座卓に突っ伏した。これまで幾度ひとに謝ってきたことだろう。もっと、もっと多くのひとにたくさん、たくさん謝っておけばよかった。少なくとも高志へどんな顔をして謝ればいいのか、経験則からの知見が教えてくれるはずだろうに。
「ごめん」
麦茶の染みが広がるラグは雲の形のようでも、浸潤するがん細胞のようでもあった。