ふらつきながら身体を起こす老人に手を貸して支えてやる。
「ジイちゃん、大丈夫か? 階段落ちたの?」
「ああ……どうもすみません。足が滑って……」
「一応救急車呼んだからじっとしてろ。えーっと……自分の名前解る? ウチ、この辺なの?」
彼は
心配なさそうだと見て取ったためか、気がついたことがただただ嬉しいのか、柴犬はしきりに声を上げて平山に擦り寄った。
「おお……まんまる、すまんな。お前は怪我ぁないか?」
「わふ! わふ!」
車のエンジン音が聞こえ、イサリは足元に注意しながら階段を上った。
最近はサイレンを鳴らして来ないと言うのは本当らしい。
早朝の住宅街に対する配慮だろうか、普通なら到着したことに気づかないであろうし、隊員側も死角になるせいでどこに救護者がいるか解らないだろう。
「こっちこっち!」
イサリが手を上げて招いたことで、戸惑い気味だった救急隊員の顔がホッと安堵したようだった。
「通報者の方ですか?」
「うん、そう。この下。滑るから気をつけて」
担架を担いで現れた隊員に、平山はおろおろと申し訳なさそうな顔をした。
「早朝からお騒がせして……申し訳ない。でも、大丈夫ですから」
「ジイちゃん、万が一ってこともあるからちゃんと病院で診てもらった方がいいよ。軽いけど怪我もしてるし、頭打ってたら大事だよ」
「お孫さんの仰る通りです。転倒、転落は馬鹿に出来ません。何もないなら何もないでいいんですから」
「あ、オレ別に孫じゃねえよ。通りすがり」
「え、そうなんですか? それは失礼しました」
「おじいちゃんよかったね、親切な人がいて。もしもっと大怪我してたりしてもここ見えにくいから、見つけてもらえなかったかもしれないよ」
隊員に再三促されたことも手伝って、平山はようやく担架に乗ってくれた。しっかりとベルトで固定された彼を、隊員は危なげなく持ち上げる。
「まんまる、おいで!」
イサリが呼ぶと柴犬は躊躇なく駆け寄って来た。
が、さすがに衛生上犬を同乗させる訳には行かないだろう。かと言って、この子を一匹で放り出して行く訳にも行くまい。
ーーうーん……これって、一緒に乗って行った方がいいのか残った方がいいのか……
平山とまんまるを見比べ、イサリは途方に暮れて眉を寄せる。
が、その思惑を察したのか、
「あの……あなたにこんなことを頼むのは筋違いだと思うのですが、今日だけこの子を預かってもらう訳には行かないでしょうか? 私は一人でも大丈夫ですので……」
「それはいいけど、ジイちゃんマジで一人で平気? 付き添わなくて大丈夫?」
「ええ、何から何まで本当に申し訳ない」
決して大きくはない身体をさらにちぢ込ませながらそう言う平山に、イサリは二つ返事で頷いた。
「おっけー、任せろ! あ、えーっとオレの連絡先……身分証……」
慌ててポケットを探るものの、生憎ランニングの際にまでそんなものは携帯していない。
これで通じるか、と半信半疑ではあったもののマフツノバンジョウをタップして、デジタル化されている方の隊員証を提示してみせる。
「オレね、ナカツドの……このちょい先に官舎あるの知ってる? そこの隊員なの。イサリ・カガヤ。隊員さんに番号渡しとくから、大丈夫になったら連絡して」
* * *
「ってな訳で、預かることになった」
わはーっと満面の笑みで柴犬を伴って出勤した相方に、トキヤは思わず今年に入ってから恐らく最大の溜息を深々とこぼした。
「お前な……何でもかんでも拾って来るなって言っただろう」
何せこの男、駐車場によく来る野良猫を手懐け気づいた時には一匹が五匹の家族になっていたし、どこかから逃げ出したらしいセキセイインコに纏わりつかれていたこともあるし、珍しいバッタがいただのと捕まえて来るし、と小学生男子並みに生き物を拾って来る。
「いや、だってこれは仕方ないじゃん。フカコーリョクってやつだもん」
「成人男子が『もん』とか言うな」
「ああ……それで今朝、救急病院から電話が入ってたんだな。その人搬送されたの、邪馬斗中央総合病院だそうだ」
電話を受けてくれたらしいハノがメモを渡してくれる。
「ゼンさん、あんがとー」
「ま、まあ……今日だけって言うなら仕方ないわね! ワンコに罪はないんだし」
「キリカ様嬉しそうですね」
「は!? 別にいつも通りだけど!?」
「あたくしだってこんなに可愛いのに、褒めてもらえたこと一回もありません」
「二メートル男のどこが可愛いのよ」
「それにしても、初めての場所なのにお利口さんですね」
大人しくイサリにリードを握られて傍らに佇むまんまるに、ヒナノが感心したような眼差しを向ける。
柴犬は見た目の愛くるしさとは裏腹に、忠誠心が高くあまり誰も彼もに愛想を振りまくような犬種ではない、とされていた。
元々が番犬故に警戒心も強いはずだが、よくこれに着いて来ようと思ったものだ、と犬より落ち着きがない相方を見やってトキヤは再度溜息がこぼれる。
「いくらいい子だって言っても、この子の飯はどうするつもりだったんだ? 何を食べるか聞いてるか? 大体官舎はペット禁止だろ」
「え、飯……?」
キョトン、とした顔で、案の定何一つ確認していないのだろうことを理解した。
とにもかくにも大変だ! と言う感情が先走って、恐らくそこまで考えが及ばなかったのだろう。
とりあえず無事に平山を救急隊員に引き渡したのは上出来と言えるが、こちらの命だって軽々しく安請け合いしてよいものでは決してない。
「届けるにしたって夕方くらいになるかもしれないだろう? その間、この子が喉渇いたら? トイレだって何時間も我慢させるつもりか? うちの職場にアレルギー持ちがいる可能性は考えたか?」
「う……」
「生き物を預かるってのは、そう言う諸々も含めての責任を伴うんだ。確かに今回は非常事態で緊急で他に方法もなかったかもしれないけど、とにかくお前は考えなしに何でもかんでも引き受け過ぎ……」
「トッキーのアホ! オカン! イヤミ王子!」
「それって貶してんのか褒めてんのか……」
あまりにも詰められて堪らずにギャン! と吠えるイサリに、ハノが苦笑する。
「トキヤが心配するのも解るけど、それがイサリのいいとこでもあるからな。ちょっと知り合いに犬飼いいないか訊いてみよう、他にもいるものあるかもしれないし」
「私も備品で使えるものないか見てみますね」
ヒナノも笑って立ち上がる。
「二人とも優しいいー」
「あんまり甘やかさないでくださいよ……」
困っているものを立場の弱いものを何でも気軽に懐に入れてしまうイサリの多様さは、確かに長所ではあるのだろう。
誰かの役に立ちたい、助けたいと言う純粋な気持ちから来る行動だと言うのも、しばらく傍らで見て来たトキヤにはよく解る。
けれど、まんまるは平山のものだ。
イサリは存外気に入ったものに想い入れを抱きやすい。
いざ飼い主の元に戻すとなった時、少なからず寂しさや虚しさで小さくとも傷はつくだろう。
そんなことを心配するお前の方が甘やかしているよ、と言わんばかりの顔をハノにはされてしまったが。
「おやおや、今日は随分可愛い隊員がいますね」
「あ、
かくかくしかじかと事情を説明するイサリを見やりながら、これは自分が処理せねばならないだろうなと手元の書類をめくり、トキヤは再度溜息をついた。
→続く