見上げた空は突き抜けるような青だった。
気象庁から梅雨明け宣言が出されても、ここのところしばらくはぐずぐずと灰色の重たい雨雲が空を覆うような天気が続いていたが、今日は文句なしの快晴だ。
夏色をした風は既に本日の気温がとびきり高くなるだろう気配を宿していて、けれどイサリにとってはウンザリした気分よりもワクワクの方が
何せ朝のランニングに行けるのは数日ぶりだ。
雨が降っている日だって支部のトレーニングルームに行けば、最新のランニングマシーンはある。
けれど味気ないレールの上を走るのと、風を匂いを光を感じながらアスファルトを蹴るのとでは雲泥の差があるのだ。
いつものウェアに袖を通し、いつものシューズを履いて玄関を開ける。
官舎の薄い造りでは音が響いてしまうから、他の人々の眠りを覚まさないように細心の注意を払いつつ地上へ。
この辺りではまだ人気がない。
うーん、と身体を伸ばして軽く寝起きで強ばった筋肉を解すといつものコースへ駆け出した。
少し間が開いたことで調子を見つつのローペーススタート。けれど数メートルで身体の軽さと具合のよさを確認したイサリは、そのままゆっくりとギアを上げて行く。
誰もいない早朝の空気。
色の薄かった空の色が徐々に濃くなって行く様子。気の早い蝉がどこかで鳴いている声。
ーーああ、いいなー……これ、この感じ……
上がった心拍数が一定のリズムを刻む。
左右交互にくり出す足もスムーズで、どこまでだって走って行けるような気分になった。
数分走れば河沿いの広い道に出る。
ここは近所の人々の散歩コースにもなっていて、ちらほら高齢者や犬を連れた人が歩いていることも多い。
幾人かはイサリと同じようにルーティンにしているらしい人も少なくなく、数カ月も毎朝顔を合わせていれば挨拶くらいは交わすようになっていた。
「おはよーございます!」
「あら、おはよ。今日も元気ね」
「やっと晴れてよかったなあ」
「暑いから気をつけて」
「あいあーい!」
会話でやや乱れた呼吸を整えて、さらにペースを上げた。平坦に伸びた道をそのまま駆ければ、ずっと五百メートル程はイサリの独壇場だ。
既に汗ばんでいるが、耳元で唸る風の声に急かされるままひたすら行き止まりまではハイペースで土手を走った。
ドクドクと血の巡る感触、眩しさを増して輝いて行く景色、あちこちから響いて来る生活音がこの街の目覚めを告げる。
ーーあーー、
飛び上がって叫びたいところをそのまま走るエネルギーに変換して、毎度一応のゴールに決めている道端の低木の脇を勢いよく駆け抜けた。
そのまま緩やかに減速しつつ回れ右。
この走りやすいストレートが、ここへ越して来てからのイサリのトラック代わりだった。
弾む呼吸を宥めながら、後腰に固定していたケースからペットボトルを引き抜いてカラカラに乾いた喉を潤す。
思っていたより暑かったせいで上がった体温も、少しでも下げるようにだぱだぱと頭からも被った。
体調管理のデータも絶えず計測してくれていると知ってからは、マフツノバンジョウをアプリメーターの代わりにしていた。盤面を覗けばなかなかの好タイムが刻まれている。
「うん、いいな」
四、五本ダッシュを流すか、と垂れて来た雫を拭ったところで、どこかから犬の鳴き声がするのにイサリは気がついた。
この辺りでは珍しくもないそれは、けれどじゃれ合いや喧嘩のそれとは違う響きをしている気がする。
心配、不安、恐怖、混乱ーー犬にそこまで細かい感情があるのかどうかイサリには判別出来なかったが、それでも切羽詰まったような必死な様子は伝わって来た。
ーーどこだ……?
念のため、ちらりと視線を走らせた端末に異常はない。
少なくともヨモツド絡みではなさそうだ、と駆け出すと、細く続く道の先に件の犬はいるらしい。確かこの先は狭い階段になっていて、住宅街へ抜ける道のはずである。
「おーい、ワンコー! どしたー?」
キョロキョロと辺りを見回しながら声をかければ、応える様に一際大きな声が上がった。
「お、そこか。おーし、
微妙に曲がり角になった階段の降り口まで辿り着けば、そこには一人老人が横たわっている。
その周りを心配そうにうろうろしている柴犬が、イサリの姿を見つけて再度鳴いた。
「……っ! この人お前のご主人か!? おい、ジイちゃん聞こえる!? 大丈夫か!?」
階段から足でも滑らせたのだろうか? 服はあちこちが砂埃で汚れていて、血が滲んでいる箇所がいくつかある。
下手に動かすな、と先日の件でトキヤに散々言い含められたのもあって、老人の肩を軽く叩きつつ、イサリはポケットからスマフォを取り出した。迷わず百十九番をコールする。
「救急車! えっと……緑川の階段の降り口のとこ、ジイちゃんが倒れてる。意識は……えーっと、ちょっと怪しくて擦り傷いっぱい!」
あの時相棒は何を伝えていたのだったか、と記憶を探りながらの通報はかなりたどたどしくなってしまったものの、電話口のオペレーターはキビキビとした口調で「直ぐに向かいます」と答えてくれた。
とりあえずホッと安堵の息をこぼしながらスマフォをしまうと、心配そうに鼻を鳴らしている柴犬に意識を戻す。
赤いリードを引き摺るようにしながら老人の周りをうろうろと歩いて、時折前脚で引っ掻くように触れたり鼻を寄せてぐいぐいと頭を押しつけたり、とにかく主人の目を覚まさせようと必死だ。
飲みかけで多少ぬるくなってしまったものの、他に冷やせるものはなし、とピタリとペットボトルを額に宛がってやり、イサリは何度も声をかけ続けた。
その甲斐あってか、しばらくしてのろのろと老人の瞼が持ち上がる。
「あ、気がついた……ジイちゃん、大丈夫か? どっか痛いとこある?」
「え……あれ? 私は一体……?」
→続く