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第21話 黒いセダン

 既に廃墟となった老人介護施設の裏手駐車場では、賢治のアルファードが前後に揺れていた。バックドアで上下する女性のパンティストッキングは膝まで下ろされ、桜貝のネイルが艶めいていた。賢治は腰を激しく前後させ、まだあどけない面差しの女性の嬌声に興奮を高めた。


「美希!美希!」

「あ、ん」

「美希!」

「・・・・!」

「美希!」


 解き放つ情熱。2人の濃密な時間は30分程で終わりを告げた。吉田美希は不満そうな面持ちでブラジャーのホックを留めると、脱げかけた下着とパンティストッキングを擦り上げた。


「部ちょお」

「もう、社長だよ」


 賢治は処理を終えるとスラックスを履き、ベルトを閉めた。ルームミラーを覗き、乱れた髪を掻き上げる。


「部長は、部長だもん!」

「で、なに。なにか言いたそうだけど」


 吉田美希はさくらんぼのような唇を尖らせて頬を膨らませた。


「どうしていつも車の中でするんですか!」

「興奮するだろ」

「誰かに見られているみたいで、嫌!」

「見られても構わない」

「だって、奥さんが」


 賢治は軽く唇を啄んだ。


「美希が1番、美希しかいないよ」

「じゃあなんで!結婚したんですか!」

「会社の為だから、仕方なかったんだよ、ごめんな」

「部長ぉ」


 賢治は、小煩い唇をライオンのように仕留めると、ゴツゴツした手のひらでブラジャーをたくし上げた。


「やだ」


 こぼれ落ちる程よい大きさの白い胸。桜貝の突起が、早く吸い上げて欲しいとせがんでいる。


「や、ん。誤魔化して」

「誤魔化してなんかないよ、美希の可愛い顔が見たいだけ」

「あ、あ」

「美希が最高だよ、美希しかいないよ」

「ああん」


クチュ


 ざらついた舌で突起を転がすと、吉田美希の肢体は喜びの声を上げた。


「ぶ、部長」


 賢治はその艶かしい動きに釘付けになり、股間は見る間に大きく熱を持ち始めた。然し乍ら、スーツの袖から覗く腕時計の針は14:50をさしていた。そろそろ会社に戻らなければならない。賢治は大きく息を吸って深く吐いた。


「部長?」

「ごめん、今日はここまでにしよう」

「えええ!酷ぉい」


 吉田美希のピンクの下着には染みが出来ていた。


「仕方ないよ」

「はぁい」

「もう時間だよ、禿げ親父が美希を待ってるよ」

「はぁい」


 吉田美希は渋々といった風で、ふたたび衣類の乱れを直すとルームミラーで前髪を整えた。賢治がアルファードのスライドドアを開けると、ハイヒールの足元を気にしながらタラップを降り、両手を伸ばして空を仰いだ。


「ふぅ、狭かった!」

「ごめんね」

「今度は、勤務時間じゃない時にホテルに連れて行って下さいね!」

「分かった、分かったラブホテルね」


 吉田美希は賢治に詰め寄った。


「部長!本当に分かってるんですか!」

「分かったよ、また今度ね。ほら、仕事に戻って、戻って!」

「戻りますよーっだ」


 吉田美希は可愛らしく舌を出し、ピンクの軽自動車に乗り換えた。運転席の扉が閉まり、手をひらひらと振っている。その時、賢治は思った。


(そうだ、菜月は綾野の家に戻っている)


 ならば、退勤後に吉田美希とラブホテルに行ったとして、帰宅時間を気にする事も、アリバイ作りに頭を悩ませる事もない。なんなら、マンションの部屋に連れ込んでも問題はないだろう。


「ふっ」


 思わず笑いが込み上げる。賢治はどこまでも愚かだった。そして、吉田美希のピンクの軽自動車は軽やかなエンジン音で、老人介護施設の雑草が伸び放題の駐車場を横切った。


(・・・ん?)


 そこには黒いセダンタイプの普通乗用車が停まっていた。


(珍しいなぁ、こんな所に)


 ピンクの軽自動車は、カタン、カタンと側溝のグレーチングを踏み、ウィンカーを左に出した。民家もなく、車通りのない片側1車線の寂れた道路。吉田美希がアクセルを踏むと、背後で同じようにグレーチングがカタンカタンと音をたてた。


(え?)


 吉田美希が何気なくルームミラーを覗くと、先程の黒いセダンタイプの普通自動車がすぐ後ろに追いて来た。


(え、やだ、なに)


 黒いセダンは追い越す事もなければ煽る事もない。一定の距離を保ちながら、その後に迫いて来る。赤色信号機で停車した吉田美希は、脇に汗をかき、こめかみの血管が波打ち、心臓が飛び跳ねた。


(もしかして、車から降りてきたらどうしよう!)


 吉田美希はルームキーをロックすると、恐怖を払うようにハンドルを力いっぱいに握った。歩行者信号機が赤から青に変わった。思い切り踏んだアクセルは勢いよく前に飛び出し、慌ててブレーキを踏んだ。赤いブレーキランプが灯る。


(やだやだ、嫌がらせしているって思われたらどうしよう!)


 恐る恐るルームミラーを覗くとそこは緩やかな坂道で、運転席の様子が手に取るように分かった。長い黒髪に黒いサングラスを掛けた女性がハンドルを握っていた。見間違いでなければ、深紅の唇が口角を上げ歪んで見えた。


(笑ってる?あれって、笑ってるよね?)


 背筋を駆け上がる悍ましさを感じた。明らかに黒いセダンを運転している女性は吉田美希の後を迫け、嫌らしく微笑んでいる。


(もしかしたら、浮気調査の人?)


 吉田美希は、背後に纏わり付く黒いセダンを賢治との不倫関係を探っている、探偵社の素行調査員ではないかと推測した。然し乍ら、これ程あからさまに後を迫けて来るだろうか。そして次に、今後の事が脳裏を駆け巡った。


(やだ、浮気がバレちゃったらどうしよう!)


 賢治が綾野家に婿養子として入る際、吉田美希は四島から手切金として100万円を受け取っていた。それを反故にしたとなれば、四島工業から懲戒解雇処分を言い渡されても仕方ないだろう。


(あとは、あとは!?)


 正妻である、綾野菜月への慰謝料支払い。迂闊な吉田美希は、自分の不倫行為が露見するとは想像だにしていなかった。無我夢中でアクセルを踏み、一時停止の道路標識で恐る恐るルームミラーを覗くと黒いセダンの姿はなかった。安堵の溜め息が漏れた。


(気のせい、気のせい)


 左にウィンカーを出して大通りに出ると、四島工業株式会社の看板が見えて来た。来客の茶菓子を買いに行くと出掛けた助手席には、有名和菓子店の紙袋が置かれていた。


(あぁ、ドキドキした)


 すると突然、携帯電話の音が吉田美希を飛び上がらせた。LINE通話でないという事は、社長からの直々のお叱りかもしれない。


(今日は早かったのにな、ちぇっ)


 駐車場でブレーキを踏み、ショルダーバッグからピンクの携帯電話を取り出すと、吉田美希はその画面に釘付けになった。


「やだ、だれ、これ」


 発信者番号は非通知、よくある詐欺や悪戯の着信かもしれないが、その文字からは禍々しいものを感じ手が震えた。

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