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第22話 郵便ポスト

 黒いセダンの一件もあり、自宅アパートに向かって車を走らせる吉田美希は、ピンクの軽自動車のハンドルを力いっぱいに握り、ルームミラーで何度も何度も、後続車両を確認した。そして、交差点の隣車線に黒い車が並ぶと、心臓が鷲掴みにされた。


(大丈夫よ、なにを怖がっているのよ)


 それは探偵社の素行調査員を恐れるというよりも、携帯電話の非通知設定が気になった。美希は、迷惑電話対策で携帯電話番号を入力する機会を可能な限り減らしていた。会社の緊急連絡先は自宅電話番号を登録した。美希の携帯電話番号を知っているのは、賢治、四島工業株式会社社長である四島忠信、そして父親と母親くらいだった。


(誰が、誰が?)


 側溝のグレーチングの凹凸乗り上げ、薄暗い月極駐車場でエンジンを止める。街灯には羽虫が誘き寄せられ渦を巻いていた。足元の砂利の音がいつもより大きく聞こえた。今、吉田美希の五感はえも言われぬ恐怖でピリピリと強張っている。


(・・・・・)


 思わず唾を飲み込む。家屋の隙間でクーラーの室外機がヴヴヴと唸っている。ブロック塀から枝を伸ばしたイチジク、いつもと同じ景色が違って見えた。コツコツと暗い住宅街に吉田美希のハイヒールの音が響き、その影が後を迫いて来た。アパートのエントランスの明かりに安堵し、その中に駆け込むと、通信販売のカタログが郵便受けに入っていた。吉田美希はそれを面倒くさそうに取り出した。ハラリとなにかが足元へと落ちた。


(なに、これ?黒い?)


 それは黒い封筒だった。宛名はなく、切手も貼られてはいなかった。その封筒は糊づけされておらず、吉田美希は何気なくそれを開いた。中には、黒い便箋が早く見てくれとばかりに、二つ折りになっていた。


カサ


 吉田美希は弾かれるように封筒を床に落とした。便箋には、金色のペンで『死ね』と書かれていた。


「・・・・・!」


 悪質な悪戯に青ざめた吉田美希は、黒い封筒をその場に置いたまま階段を駆け上った。手摺りに掴まる指先が震えた。3階に着く頃には肩で息をし、動悸と目眩がした。一刻も早く部屋に入らなければならない。あの封筒を郵便受けに入れた人物がまだ近くに居るかもしれない。


(誰、誰が!)


 チカチカと点滅する通路の蛍光灯、部屋のドアの前に黒い物が見えた。2通目の黒い封筒だった。吉田美希はそれを跨いで部屋に入ろうかとも思ったが、自然と手が伸びた。震える指で、封を開く。


『後ろを見て』


 ゆっくりと背後を振り返ると、壁際に黒い小箱が置かれていた。喉仏が上下し、耳鳴りがした。開けてはならない、開けてはならない。もう1人の自分が警告する。けれど吉田美希は蓋を開けてしまった。


「・・・・・ひっ!」


 中には、黒いカードと首のない人形が入っていた。人形は全裸で手足がバラバラに捥げていた。吉田美希は恐る恐る屈み込むと、その黒いカードを指で摘んだ。やはり金色のペンでメッセージが綴られていた。


『死ね』


 メッセージカードを手に怯えていると、ショルダーバッグで携帯電話が着信を知らせた。LINE通話ではない、きっと相手は。


(・・・非通知)


 自然と指は通話ボタンに伸びていた。着信音の代わりに息遣いが聞こえた。


「もしもし?」

「・・・・・」

「あなた、誰!なんなのこれ!」


 地の底から届くような女の声がした。


「賢治と別れろ」

「なに、意味分かんないんですけど!」

「賢治と別れろ、別れろ、別れろ、別れろ、別れろ」

「ちょっ、なに!」

「こうなりたい?」


 建物の外で、車のクラクションが鳴った。吉田美希が窓から覗くと、そこには昼間の黒いセダンが停まっていた。


「ひっ!」


 白いのっぺりとした面持ち、黒いワンレングスの長い髪、夜にも関わらず黒いサングラスを掛けていた。高く掲げたその手は人形の髪を掴み、左右に振っている。黒いコートのポケットを弄った右手には光を弾くフォールディングナイフ。


「死ね」


 次の瞬間、人形の顔には深くナイフの先が突き刺さっていた。


「ひ、ひいっ!」


 吉田美希は部屋の鍵を落としては拾い上げ、それはようやく鍵穴に辿り着いた。玄関のドアを開け、ハイヒールを脱ぐ事も忘れ四つん這いになってリビングへと向かった。


ルルルル

ルルルル


 非通知の着信音は止む事がなく、吉田美希は半狂乱になって携帯電話を投げた。それはガラステーブルの角に当たり、画面には蜘蛛の巣のようなヒビが入った。


ルルルル

ルルルル


「やめて!別れる!別れるから!やめてー!」


 吉田美希は非通知の着信音に向かって叫び続けた。


「もう、別れるからー!」


 どれくらい時間が経っただろう、落ち着きを取り戻した吉田美希は賢治に事の始終を話して聞かせた。すると賢治は引き止める事なく、あっさりと「別れよう」と言い、逆に吉田美希が「嫌だ、別れない!」と縋った。けれど賢治は一歩も譲らず、2人の不倫関係は呆気なく終わりを告げた。賢治は、その女性が如月倫子である事を一瞬にして悟った。




カコーン


 鹿威しが離れの和室に響いた。そこには数枚の書類を手にした、湊と佐々木の姿があった。胡座をかいた湊は口元を緩めた。


「それでどうなったの?」

「賢治さまと吉田美希は別れたようです」

「どうして分かったの?」

「勤務時間中の外出がなくなったと」

「ああ、2人は勤務時間内に会っていたからね。SDカードにも吉田美希は映っていない」

「はい、そのようです」


 佐々木はテーブルに内容証明郵便を置いた。


「送付先の住所が違うね。アパートじゃないの?」

「はい」

「ここは?」

「吉田美希の実家です」

「実家」

「はい。突然、転居したようです」

「僕らに気が付いたの?」

「そうとは言い切れません」


 吉田美希は、黒い封筒や人形を手に警察署に相談したが実害がなかった為、被害届としては受理されなかった。佐々木がその事を伝えると、湊の顔色が一瞬にして変わった。


「どうか、なさいましたか?」

「如月倫子だ」

「え?」

「如月倫子は、菜月に口紅を送って来た」

「その口紅ですね」

「うん」


 如月倫子は自己顕示欲が強い。憶測の域を出ないが如月倫子は、吉田美希に転居を強い、賢治と訣別させるに至った行為をしたのではないかと思われた。


「厄介な相手だな」

「如月倫子ですか?」

「うん」


 湊は1枚の書類を手にした。


「じゃあ、この慰謝料請求は吉田美希の自宅に送るんだね」

「はい」

「突然、200万円の慰謝料が請求されたら、親御さんはどんな顔をされるのかな」

「それ相応の不貞行為を働いたのですから当然の事です」

「そうだね」


 数週間後、吉田美希は四島建設株式会社の子会社に出向する事が決まった。然し乍ら、その会社は一般の女性社員が勤務出来るような環境ではなく、吉田美希は自主退職を願い出た。


 これで、1人目の復讐が終わった。

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