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第23話 マイナンバーカード

 多摩さんが洗濯物を干し終え縁側から戻ると、菜月が困り顔でダイニングチェアーに座っていた。腰を半分上げては下に戻す、大きな溜め息が漏れた。


「菜月さん、どうなさったんですか」

「忘れたの」

「忘れた?なにを忘れたんですか?」


 菜月は目の前で小さな長方形を作って見せた。


「なんですか、それ?」

「マイナンバーカードを忘れて来たの」

「忘れて来た?」

「御影のマンションに、忘れて来たの」


 菜月はもう一度、大きな溜め息を吐いた。


「取りに行けば宜しいじゃないですか」

「なんとなく、気が重いの」

「それなら、多摩が着いて行きましょうか?」

「いいの?」

「勿論ですとも」


 あの陰鬱で、辛い思い出しかないマンションに戻るには二の足を踏んでいた。そこで、多摩が付き添ってくれるというので重い腰が上がった。


「車は、冬馬に出させましょうね」

「え、佐々木さんに?忙しいんじゃないの?」

「湊さんから、いつも側に居るようにと頼まれたそうですよ」

「湊が」

「はいはい」


 湊は、如月倫子の異常性を感じ取り、菜月が綾野の家から外出する際は、可能な限り佐々木が側に付き添うようにと言いつけた。そこで今回は、御影のマンションへ向かう菜月に、多摩さんと佐々木が同行した。


「いいお天気ですねぇ」

「うん」

「久しぶりのご自宅ですから、ゆっくりなさって下さいね」

「う、うん」


 菜月は返答に困った。多摩さんは、菜月が賢治から受けたドメスティックバイオレンスの数々を知らない。ルームミラーには菜月の痛々しい姿を慮った佐々木が映ったが、車窓を眺める多摩さんの横顔は和やかで、眩しい太陽に目を細めていた。


(多摩さん、びっくりするだろうな)


 菜月の胸は痛んだ。ところが、503号室の駐車場には賢治の黒いアルファードが駐車していた。多摩さんは首を傾げた。


「あらあらあら、賢治さまはお仕事じゃぁないんですか?」

「そ、そうね」

「菜月さん」


 佐々木の表情が険しくなった。


「婆ちゃん、俺が菜月さんに着いて行くからここで待っとって」

「そうなのかい?」

「賢治さんに用があるんだ」

「ごめんね、多摩さん」

「いいえ、車が盗られんように見張ってますよ」

「お願いね」


 冗談めいた多摩さんを残し、2人はマンションのエントランスに足を踏み入れた。微かに香る白檀の匂い。


「菜月さん、この匂いは」

「うん、如月倫子の香水の匂いだと思う」


 それはエレベーターホールに近付く程に強くなり、上階へのボタンを押すとエレベーターは5階から降りて来た。


「・・・!」


 その扉が開いたと同時に、菜月と佐々木は鼻を覆った。エレベーターの四角い箱の中には白檀の匂いが充満していた。


「佐々木さん」

「もしかしたら如月倫子が居るかもしれませんね」

「どうしよう」

「私が着いていますから」

「う、うん」


 菜月は、賢治が愛人を自宅に招き入れているかもしれないという、悍ましい想像に身の毛がよだった。2階、3階と上るエレベーター、佐々木が側に居なければ逃げ出していたかもしれない。


 息を飲んだ


 5階で扉が開くと、まるで如月倫子が手を広げて待っているかのような錯覚に足が竦んだ。見上げると佐々木も緊張をした面持ちをしていた。


「・・・菜月さん、私が行きますか?」


 菜月は一瞬迷ったが、室内が不倫の証拠になる状況下にあるかもしれないと考えた。


「賢治に見つかったら、佐々木さんが不法侵入で訴えられるかもしれないから、私が行く」

「分かりました」


 菜月は玄関の外でパンプスを脱いだ。玄関の鍵は、音を立てないようにジリジリと時間を掛けて回した。静かに解錠された音がした。息を殺してノブを掴むと、そこには、赤茶の賢治の革靴の隣に黒いピンヒールが揃えてあった。


(このハイヒール!)


 これは、以前、如月倫子がマンションを訪ねて来た時に履いていたピンヒールと同一の物だと思われた。菜月は携帯電話を取り出すと、録画ボタンを押した。画面には黒いピンヒール、菜月はゆっくりと廊下を進んだ。


(・・・汚い)


 ふと脇を見ると、バスルームの洗濯機には使い回しのバスタオル、脱ぎ捨てた衣類、生乾きの臭いに顔を顰めた。よく見ると廊下の隅には綿埃や髪の毛が溜まり不衛生極まりなかった。


「・・・・だ・・・よ」

「そ・・う・・で」


 リビングから話し声が聞こえて来た。1人は賢治だが、もう1人の声は低くなにを話しているのか聞き取る事は難しかった。然し乍ら、この声色は忘れもしない深紅の口紅。


(如月倫子が居る)


 菜月の、携帯電話を持つ手が小刻みに震えた。身体中の血が逆流している、後頭部にジンジンとした痺れが広がってゆく。すりガラスを一枚隔てた場所に、あの異様な雰囲気の女がいると思うと武者震いがした。


(賢治さんと如月倫子は、許さない!)


 足裏に細かい砂の粒を感じながら、摺り足で廊下を移動した。それは、近付くごとに鮮明になり会話の内容を録音する事が出来た。


「倫子、今度、食事にでも行かないか?」

「いつ?」

「金曜日、いつものホテルで」

「菜月さんが居ないのに、たまには他の日でも良いじゃない」

「いつもの部屋が空いてないんだよ」

「仕方ないわね」

「ごめんよ」


 賢治と倫子は金曜日、いつものホテルで、いつもの部屋で逢瀬を重ねていた事になる。そのホテルがどこなのか、菜月には見当もつかなかった。けれど、これで2人が不倫関係である事が証明された。


(画像が欲しい)


 菜月は、2人が密会しているこの場面の画像を入手したいと考えた。ソファーの位置が変わっていなければ、2人はドアから見て向き合って座っている筈だ。菜月は、録画ボタンを停止し、次にカメラアプリを立ち上げた。


(緊張する、大丈夫かな)


 携帯電話はショルダーバッグに挟んで隠し、親指はシャッターボタンに添えた。ゆっくりと持ち手に手を掛け、少しずつドアを開けた。


「やだ!賢治ったら!」

「なにがだよ」


 吐き気がした。賢治と如月倫子は、菜月と湊が座った2人掛けのソファーに身を委ねていた。菜月は、これまで大切にしていた時間を汚された気がして怒りを覚えた。


「もう、やだ!」

「なにがだよ」


 菜月がカメラを構えた時、残念な事に2人は戯れあっているだけで、互いの身体に触れ合ってはいなかった。この場で賢治と如月倫子が醜い成人映画のように睦み合っていれば、不倫現場の証拠になった筈だ。


(残念)


 そして菜月は、息を大きく吸い大袈裟な声でリビングのドアを勢いよく開けた。


「ただいま!賢治さん!お客さま!?」


カシャシャシャシャシャシャ


 カメラはその光景を連写し、密会は菜月の携帯電話に収められた。


「な、菜月!?」


 賢治は慌てふためいてソファーから立ち上がったが、如月倫子は何事もなかったかのようにティーカップの冷めた紅茶に口を付け、会釈した。その太々しさに菜月は気圧された。


「け、賢治さん。お客さま?」

「ああ、高校の同級生でね」


 菜月は如月倫子を見下ろし、賢治へ振り向くと、その名前を呼んだ。


「如月倫子さんですよね?」

「・・・菜月、なんで」

「1度、いらした事があって。あの時は、忘れ物を届けて下さってありがとうございました」

「いいえ、どういたしまして」


 賢治の顔色が変わった。自分はここにいるのだと主張する為に、如月倫子は自宅マンションを訪ねていた。賢治は、不倫関係が明るみに出たのではないかと狼狽した。


「お仕事関係の方ですよね?」

「ええ、そうです」

「綾野がいつもお世話になっております」

「こちらこそ、賢治さんにはお世話になりっぱなしで」

「そうですか」

「はい」


 我に帰った賢治は菜月に近付いた。


「元気か?」


 薄ら笑いが不気味だった。菜月は、差し出された手を振り払っていた。


「触らないで!」

「どうしたんだよ」

「今日は忘れ物を取りに来ただけよ」

「なにを」

「マイナンバーカードよ!」


 菜月が自室に入ると白檀の匂いが纏わり付いた。整えてあったベッドのシーツが乱れていた。枕には黒く艶のある長い髪が落ちていた。背筋が凍った。


(ここで、したんだ)


 賢治の人格を疑った。このような人間と1年間も共に暮らし、処女を捧げた自分を呪いたくなった。ドレッサーの引き出しからマイナンバーカードを取り出し、ショルダーバッグに仕舞った。


「菜月、おまえも一緒にお茶でも飲まないか?」


 台所には紅茶を淹れた形跡があった。あのコウルドン(陶器のメーカー)のティーポットにも、ティーカップにも如月倫子の指紋が着いていると思うと吐き気がした。


「いいえ、いらないわ、帰ります」

「送って行こうか?」

「お客さまもいらっしゃる事だし、ごゆっくり」


 すると、賢治の形相が変わった。


「湊か!湊と来たのか!?」

「違うわ」

「湊だろう!」


 すると佐々木が玄関先に立ち、深々と挨拶した。


「佐々木、佐々木か」

「はい、私がお連れいたしました」

「そ、そうか」


 やはり、賢治は湊の事となると過剰に反応する。よほど気に入らないのだろう。菜月は、愚かな賢治の横顔に大きな溜め息を吐いた。佐々木の車に戻ると、多摩さんは居眠りをしていた。「車の番はどうしたの?」と菜月が微笑むと、多摩さんは「あらあら、まぁまぁ」と誤魔化した。


「菜月さん」


 ルームミラーの中で銀縁眼鏡が光った。


「なに?」

「良いものは手に入りましたか?」

「入ったわ」

「それは良かったです」


 そこで菜月は考え、運転席に向かって身を乗り出した。


「佐々木さん、お願いしたい事があるの」

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