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第24話 鹿威し

「お母さん、ただいま」


 3人が帰宅すると、ゆき が庭で洗濯物を取り込んでいた。それを見た多摩さんは、慌てて「申し訳ありません」と下駄を履いた。


「多摩さんがいないからびっくりしちゃった」

「申し訳ありません、書き置きの1枚でもすれば良かったですね」

「今度からそうして頂戴」

「はい、はい、はい」


 多摩さんが代わりにタオルを取り込み始めると、 ゆき は菜月に、「どこに行って来たの?」と微笑んだ。


「御影の」

「え?」

「御影のマンションに忘れ物を取りに行ったの」


 ゆき の顔から笑顔が消え、戸惑いの表情が浮かんだ。


「多摩さんとお部屋に行ったの?」

「佐々木さんと行ったの」

「そう、それなら良かったわ」

「うん」


 やや強張った面持ちが和らいだ。 ゆき は、醜く荒れ果てたあの部屋に、多摩さんが立ち入らなかった事に感謝した。玄関先で立ち話をしていると引き戸が開いた。湊だった。ノートパソコンを手に顔を上げた湊は、その顔ぶれに一瞬たじろいだ。


「なっ、なに。母さんまで。菜月、なにしてるの」

「お帰りなさい」

「湊さん、お帰りなさい」

「佐々木まで!なにかあったの」


 菜月は小声で湊に向き直った。


「御影のマンションに行ってきたの」

「佐々木と?」

「はい、私がお連れしました」

「そう、ありがとう」

「いえ」


 そこへ、タオルの山を抱えた多摩さんが顔を出した。


「湊さん、おかえりなさい。私も行きましたよ」

「多摩さんが、御影のマンションへ!?」

「はい、行きましたが」


 驚いた湊は菜月の顔を見た。菜月は首を縦に振った。


「多摩さんは、菜月の部屋に入ったの?」

「賢治さまのお車があったんです。なので多摩は冬馬の車で留守番でした」

「そうなの、良かった」

「なにが良かったんですか?御影のお部屋を1度は拝見したかったのに!」

「それはまた今度、ね」

「はい、はい、はい!」


 少し膨れっ面した多摩さんの後ろ姿を、湊は安堵の溜め息で見送った。それは、幼かった菜月を我が子のように慈しみ育てて来た多摩さんに、菜月が受けたであろう暴行の痕が残るあの部屋を、決して見せてはならないと思ったからだ。そこで、多摩さんが口にした言葉を思い出した。


「菜月、賢治さんの車がマンションの駐車場にあったの?」

「あった」

「賢治さんは部屋にいたの?」

「いたわ」

「ちょっと来て、佐々木も!」


 湊は菜月の手を引くと、廊下を勢いよく進んだ。


「ちょ、ちょっと、どうしたの!」

「賢治さんがマンションにいたんだよね?」

「そうだけど」

「ひとりだった?」

「・・・!」


 南天の枝葉が風にそよぎ、赤い実が揺れる離れの和室。湊は左右を確認して襖を閉めた。和室には菜月、佐々木、そしてパソコンを起動する湊の姿があった。


「このまえ、僕は賢治さんになりすましてクレジットカード会社に問い合わせた」

「問い合わせ?クレジットカードがどうしたの?」

「利用明細書の再発行をお願いしたんだ」

「どうして?」

「これだよ」


 湊のパソコンには、賢治が運転するアルファードの車載カメラのデータが読み込まれていた。毎週金曜日、18:00になると車はホテルの平面駐車場に入庫する。そのホテルの正面の壁には、”ニューグランドホテル”のロゴが浮き彫りにされていた。


「ニューグランドホテル」

「そうだよ、賢治さんはニューグランドホテルを利用していた」

「なんのために・・なんて決まってるよね」


 菜月は自嘲めいた溜め息を漏らした。


「そして、23:00には出庫する。御影のマンションに帰る時間だ」

「金曜日の夜は、いつも遅かった」

「間違いないね」

「うん、先に寝ていて良いって」


 湊は、クレジットカードの明細書をテーブルの上に置いた。


「この車載カメラの画像だけだと、ホテルで商工会議所の会合があったと言い逃れする事も出来る」

「それでカードの明細書を?」

「うん」

「菜月、見て?」

「・・・これ」


 賢治は毎週金曜日、ニューグランドホテルの客室リザーブを繰り返していた。プライベートでの利用である事は確実だった。後は、賢治がその部屋を誰と利用したかという事だ。


「菜月、マンションには誰がいたの?」

「湊」

「うん」

「いたの」

「いたんだ」

「いたの、如月倫子が」


 菜月は携帯電話を湊に差し出した。


「これは?」

「賢治さんと如月倫子が話していたの」


 携帯電話には、毎週金曜日に同じホテルの同じ部屋で共に過ごしていると、賢治と如月倫子本人の声が明瞭に録音されていた。


「これで賢治さんが不倫していた事が確定したね」

「あと、これを見て」


 菜月が画像フォルダを開くと、ソファーに腰掛けた賢治と長い黒髪の女性が写っていた。


「これが、これが如月倫子」


 確かに魅惑的な女性ではある。然し乍ら、醸し出す気配はトグロを巻く蛇、湊は怖気を感じ思わず目を逸らした。けれど負けてはならない、菜月の威厳を取り戻さなければならない。


「如月倫子」

「うん」

「この女が、菜月の全てを壊した女」


 菜月の目頭は熱く、一筋の涙が溢れた。


「僕が、僕が菜月を助けるよ」

「うん」

「賢治さんが、如月倫子とホテルの部屋に入る写真を撮るんだ」

「湊、ありがとう」


 もう一筋の涙が頬を伝った。


「佐々木」

「はい」


 佐々木はアタッシュケースから封筒を取り出し、菜月の前に置いた。菜月が湊の面差しを窺い見、湊は頷き、その中を確認するように促した。


「この女の人」

「四島工業の職員だった吉田美希だよ」

「だった?」


 菜月は首を傾げながら、吉田美希の写真を見た。


「四島工業を辞めた」

「辞めた?」

「賢治さんとの不倫が表沙汰になったんだよ」

「そう、なんだ」


 この時は、如月倫子が吉田美希に関わった事を伏せて置いた。次に佐々木は、吉田美希に宛てた内容証明郵便のコピーを菜月に手渡した。


「これは、200万円」

「吉田美希さんに請求した、菜月さんに対する慰謝料です」

「佐々木、吉田美希に”さん”は要らないよ」

「はぁ」


 湊の眉間には深いシワが寄っていた。


「菜月、これで1人目の復讐が終わったよ」

「復讐、怖い事言うのね」

「そうかな」

「そうだよ」


 湊は菜月の頬の涙を拭いながら微笑み、その2人を見守る佐々木の目は優しかった。


カコーン


 鹿威しの音が綾野の家の庭園に響き渡る。


ジャリッ


 そこには、赤茶の革靴が和室の灯りを苦々しく見ていた。

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