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第29話 愚行


 金曜日の夕暮れは雨が降っていた。


(湊は、いないわね)


 菜月は、怪我をしている湊を気遣い、ニューグランドホテルには自分1人で行こうと考えた。いかに如月倫子とはいえ、公の場で大それた事をしでかす事はないだろう。菜月は、変装とは程遠いが、女性らしいぽってりとした赤い唇を隠すために色味の薄い化粧をした。


「ええと」


 鏡に向かい、試供品で貰ったイエローベージュのファンデーションを塗り、口紅は普段は選ばないシアーなベージュを選んだ。


「菜月さん、お出掛けですか?」


 夕飯の支度をしていた多摩さんと廊下で鉢合わせし、菜月は飛び上がって驚いた。


「お友だちに会いに行くの」

「あらあらあら、珍しいですね」


 菜月は、シルクの白いシャツに袖を通し、濃紺のパンツを履いていた。


「あらあらあら、菜月さんがズボンを履かれた姿は初めて見ました」

「変かしら?」

「いえ、髪型も短くて男の子みたいですが、多摩は好きですよ」

「ありがとう」


 確かに、その姿は中性的な印象を醸し出し、普段の菜月からは程遠かった。


「そのお荷物は何ですか、随分重そうですねぇ」

「う、うん」

「お出掛けでしたら、冬馬を呼びましょうね」

「あ、いいの。タクシーを呼んでくれる?」

「はい、はい、はい」


 多摩は廊下を小走りに茶の間へと向かった。


(確かに、重いわ)


 菜月は肩に掛けた黒い革の鞄を覗き込んだ。そこには郷士が愛用している一眼レフカメラが入っていた。


(お父さん!壊したらごめんなさい!)





「ありがとうございました」


 タクシーの後部座席のドアが閉まり、菜月は緊張のあまり唾を飲み込んだ。


(ここで、賢治さんが!)


 ニューグランドホテルの回転扉で一回転した菜月は、顔を赤らめて頸を掻いた。エントランスには、オープンカフェのフルーツパーラーが隣接していた。


(ここで待とう)


 カフェには背の高い観葉植物が並び、隠れて写真を撮るにはうってつけだった。


「おひとりさまでしょうか」

「はい」

「お好きなお席にどうぞ」

「はい」


 菜月は、エントランスやホール、フロント、エレベーターホールが見渡せる席に姿を潜めた。


(あっ!もしかしたら如月倫子がいるかも!)


 約束の時間まであと30分、菜月は店内にその姿がないか周囲を窺った。観葉植物に隠れ、中腰で奥の席まで確認したが、如月倫子は居なかった。


(良かった)


 安堵の溜め息が漏れた。菜月は、黒い鞄に手を伸ばした。ジジジジジジと開けるジッパーの音すら憚れるこの席で、周囲をしきりに窺う菜月は不審者に見えるかもしれない。


「いらっしゃいませ」


 蝶ネクタイのウェイターが、水滴の付いたレモン水と、おしぼりをテーブルに手際よく置いた。


「ありがとう」


 鞄のファスナーを引く指先の動きが止まった。訝しげな面持ちで黒い鞄に視線を落としたウェイターに作り笑いをした菜月は、ホットミルクティーと苺パフェを注文した。


(はぁ、これから不倫現場の写真を撮るのに、呑気に苺パフェなんて)


 そう思いつつ、菜月は紙ナフキンの上に置かれた銀のスプーンをくるくると回して腕時計を見た。賢治と如月倫子の待ち合わせ時間は20:00、スプーンをテーブルに置いた菜月は、一眼レフカメラを取り出しその重みを確認した。


(これで賢治の不倫が確定する)


 一眼レフカメラの本体にバッテリーを入れて蓋を閉じた。次にSDカードを挿し込む。赤い電源スイッチのボタンを押すと、確かな手応えと起動音がした。


「お待たせしました」


 レンズが捉える白い生クリームに飾られた真っ赤な苺。鮮やかなミントの葉にピントが合った。


カシャ。


「ありがとう」


 菜月は、苺パフェを撮影する振りをしてフロアとエレベーターホールにピントを合わせた。一眼レフのカメラのレンズは、通りすがりの表情を鮮明に捉えた。


(でも、ちょっと暗いかな)


 明るさを調節してドアボーイへとシャッターを切った。


カシャッ


 それは、口元のシワまでしっかりと撮影する事が出来た。


(これで良し!)


 その時、ドアボーイが深々とお辞儀をして回転扉が回った。


(あれ)


 回転扉から踏み出した革靴は、思いも依らない人物だった。


カシャッ


 明らかに気分を害した面立ちは、菜月を凝視してフルーツパーラーに向かって来た。


「いらっしゃいませ」

「待ち合わせだから」

「かしこまりました」


 深くお辞儀をするウェイターに「ホットコーヒー、ブラックで」と告げた湊は、菜月の目の前の椅子にどっかりと腰を掛けた。


「菜月」

「は、はい」

「これはどういう事なの」

「だって」

「だってじゃないでしょ!」


 怒った湊は、菜月の手からスプーンを奪い取り、苺パフェの主役を口に頬張った。


「あっ!いちご!」

「いちご!じゃないよ!」

「だって」


 機嫌の悪い湊は、左の中指でテーブルの上をトントンと叩きながら菜月を睨み付けた。


「勝手な事しないの」

「だって湊が」

「右手が怪我してるからって言いたいんでしょう」

「だって、カメラが使えないじゃない」

「とにかく!」


 スプーンが菜月の目の前でぐるぐる回った。


「うっ」

「それならそれで出来る事だって有るよ」

「どんな事」


 少し落ち着いた湊は、テーブルに届いたブラックコーヒーの白いカップに口を付けた。


「ちゃんとよく聞いて」

「う、うん」


 湊は声を潜めた。


「賢治さんと如月倫子の写真は、とにかく1枚でも多く撮る事」

「う、うん」

「2人が並んでいる事が前提だよ」

「分かった」


 そして湊は、身軽な菜月が2人を追尾し、客室の部屋番号を確認する事を提案した。


「その部屋番号を僕に教えて」

「分かった」


 そして、フロントで待機している湊が2人の客室に隣接する客室をリザーブする。


「それでどうするの?」

「賢治さんと如月倫子が部屋から出て来た所をカメラで撮るんだ」

「出来るかな」

「出来るかな、じゃなくてするんだよ」

「う、うん」


 不安げな菜月の手のひらを、湊がそっと握った。


「気付かれないように」

「うん」

「無理しないように」

「うん」


その時、湊の表情が変わった。


「菜月」


 湊はコーヒーカップをゆっくりとソーサーに戻し、上機嫌で苺パフェを頬張っている菜月の腕を掴んで強く揺さぶった。


「な、菜月」

「ん」

「カメラ、カメラ」

「あっ」


 ドアボーイがお辞儀をした隣には、焦茶のスーツの賢治が如月倫子を探して佇んでいた。その焦茶のスーツは、賢治が菜月と結納を交わした時に着ていた物だった。菜月は、この1年が次々と穢されてゆく感覚に陥った。


(賢治さん)


カシャ


 人待ち顔の、賢治の面差しを連写する、菜月の腕は怒りに震えた。


カシャ


 ソファに座る賢治は左手首の時計を気にしていた。約束の時間から10分が過ぎていた。賢治は脚を組み、肘を突いて携帯電話を弄り始めた。


カシャ

カシャ


 ドアボーイが恭しくお辞儀をした。


「菜月、あれが如月倫子だね」

「間違いない、如月倫子だよ」


 回転扉から優雅に姿を現したのは、タイトな黒いワンピースに白い真珠のネックレスを胸元に垂らした如月倫子だった。


カシャ


 美しい横顔、忌々しい深紅の口紅。


カシャ

カシャ


 その姿に気が付いた賢治が小さく手を振った。


カシャ


 如月倫子は、ソファに座る愛人を横目に微笑みを浮かべながら通り過ぎた。その横顔を見送る賢治の惚気顔は見苦しく、反吐が出た。


カシャ


 賢治はソファから立ち上がると、一目散にフロントへと向かった。


カシャ


 如月倫子は一足先にエレベーターに乗り込んだ。


カシャ


「湊、これはどういう事なの?」

「予め、客室番号を指定してあったのかもしれないね」

「客室番号」

「どうしたの?」


 菜月は、事務所で見つけたメモの2018を思い出した。「2018は、もしかしたら、2018号室かもしれない」その事を話すと湊の視線はエレベーターホールに釘付けになり、如月倫子が乗ったエレベーターが20階で停止した事を確認した。


「そうかもしれない」

「そうかな」

「試してみる価値はあるよ」


 菜月は、賢治の後を追う事にした。口元を紙ナフキンで拭い、レモン水を口に含んだ。緊張で脚が震えた。パンツのベルトを締め直し、カメラストラップを首に掛けた。


(電源は、入っている)


 湊が菜月の手首をグッと握った。


「賢治さんに気付かれないように」

「うん」

「フロントで待っている」

「うん」

「いいかい、部屋番号だよ」

「部屋番号」

「確認したらエレベーターホールで待っていて」

「分かった」

「その鞄は僕が預かるから」

「うん」


カシャ


 菜月は行き交う人の流れに身を隠し、賢治の横顔を撮影した。賢治は数人の宿泊客と一緒にエレベーターに乗った。それは2階で停止し、3階でも停止した。停止と上昇を繰り返しながらゆっくりと動くエレベーターを横目に、菜月は隣の空の箱に飛び乗った。


(ごめんなさい!)


 エレベーターに向かい足早に歩いて来る男性の姿があったが、菜月は急いで扉を閉め、20階のボタンを押した。高鳴る鼓動。心臓が今にも破裂しそうだった。


18階

19階

20階


ポーン


 エレベーターの扉が開いた。菜月は(開)のボタンを押し続けた。


ポーン


 賢治を乗せたエレベーターの扉が開いた。菜月はその気配に背中を向けた。


(カメラの電源は入っている)


 その時だった。忌々しい白檀の香が鼻を付いた。


(如月倫子)


 如月倫子の白檀の香が、まるで「こちらにいらっしゃい」とばかりに菜月を誘った。エレベーターホールに飛び出した菜月は、迷わずその香がする廊下へとカメラを向けた。


(いた!)


 薄暗い廊下を賢治の背中が歩いて行く。


カシャ


 そして幾つかの扉の前に立つ黒髪の後ろ姿の肩を抱いた。


カシャ


 まさか自身の愚行がカメラで撮られているとは思いもしない賢治は、満面の笑みで客室へと消えた。客室のドアが完全に閉まった事を確認した菜月はエレベーターホールから飛び出し、向かって左側、手前から5番目のドアまで小走りで向かった。


(アッ!)


 脚が絡み、崩れるように倒れるすんでで持ち堪えた。


カシャ


(2018号室、2018だった!)


 菜月は携帯電話を取り出すとカメラを抱えながらエレベーターホールへ全速力で走った。そして小声で、「2018号室で間違いなかった!」と客室番号を知らせた。菜月からの連絡を受けた湊は、黒い鞄を手にフロントへと向かった。


「すみません、客室を指定しての宿泊は出来ますか?」

「可能でございます」


 そこで湊は、菜月から聞いた客室を指定し、リザーブした。


「1名さまのご利用ですか」

「2人で」

「かしこまりました。2名さまご1泊で宜しいでしょうか」

「そうだね、お願いします」


 湊はエレベーターの20階のボタンを押した。


ポーン


 菜月の後ろ姿はエレベーターの音に驚き、猶に10センチは飛び上がった。


「み、湊」


 菜月は興奮し、頬が赤らみ額に汗が滲んでいた。湊は菜月の手を引くとエレベーターホールから2番目の2011号室の鍵にカードキーをかざした。

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