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第30話 2人だけの金曜日


 エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。


「菜月」

「湊、びっくりしちゃった」


 湊に手を引かれた菜月は、賢治に見つかる事を恐れ2018号室を何度も振り返った。けれどそれは杞憂に終わった。湊がカードキーをドアノブに翳すとカチっと軽い音がして、2011号室の扉に緑のランプが点った。


「この部屋はどうしたの?」

「僕たちの作戦会議の部屋だよ」


 壁の電源スイッチにカードキーを差し込むと、夜景の中に温かなオレンジの明かりが灯った。2人の姿が大きな窓に映った。


「あああああ、ドキドキした!」


 湊が振り返ると、床に座り込んだ菜月がいた。その首には、黒い一眼レフカメラがぶら下がって揺れていた。


「菜月、お疲れ」

「う、うん、本当に疲れた!緊張した!」


 湊が菜月の前に、室内履きスリッパを置き、微笑んだ。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして」


 湊は菜月の首からストラップを外し、窓際のソファに腰掛けた。


「どう、ちゃんと撮れてる?」


 湊は、菜月が撮影した画像を1枚、1枚、確認した。そのどれもが、賢治の不倫行為の証拠となるものばかりだった。


「すごいよ菜月、これなら興信所のスタッフに採用されるよ」

「本当!?良かった!」


 やや薄暗いが2018号室に入る賢治と”女”の後ろ姿が写っている。ただ、如月倫子の顔が曖昧だった。


「如月倫子の顔が欲しいな」

「ごめん」

「菜月のせいじゃないよ、こんな角度じゃ僕でも無理だよ」

「うん」

「如月倫子が部屋から出る瞬間を撮ろう」

「でも、いつ?」


 賢治と如月倫子が入室した時刻は20:20。2人が情事を終えて客室の扉を開ける時刻など、皆目分からない。


「賢治さんはいつも23:00過ぎには帰って来ていたんだよね?」

「でも今は、私が家に居ないから泊まりかも」

「そうだね」


 長丁場になる事は予想が付いた。


「泊まりだとしたら明日の朝」

「でも油断は出来ないね」

「うん」


 菜月と湊は客室の扉を10cmばかり開け、廊下の様子を窺った。そこに人の気配はなく、菜月と湊の2人しかいないような気さえした。


「これじゃ不審者だね」


 そこで一眼レフカメラを手にした湊が閃いたとばかりに廊下に出た。


「ちょっ、ちょっと湊!どうしたの!」


 湊は廊下に置かれた観葉植物の鉢植えの中にカメラを忍ばせ、シャッターを押した。1回目は気に入らなかったらしく、2回目の撮影はレンズの位置や角度を調節していた。


カシャ


「湊、なにをしているの?」


 数回目の撮影では、観葉植物の葉が写り込んだが2018号室の扉を捉える事が出来た。


「菜月、無線だよ、Bluetoothで操作するんだ」

「携帯電話?」

「そう、携帯電話とそのカメラをBluetoothで接続して、リモート撮影しよう」

「出来るかな」

「出来るかな、じゃなくてするんだよ」

「うん」


 2人は携帯電話のリモート撮影を、どのタイミングで行えば良いのか試行錯誤した。


「ストロボ機能はOFFだよ」

「うん」


 賢治と如月倫子に、カメラのシャッター音を気付かれてはならない。菜月は忍足で2018号室の扉の前からエレベーターホールまでを往復し、シャッター音が聞こえない位置を探った。


「これぐらいの距離だね」

「うん」

「あんまり欲張って、見つかったら意味がないからね」


 それは面差しが薄っすらと分かる程度だが、証拠写真としては十分だった。これで準備は整った。湊が扉の隙間から2018号室の動きを見張っている間、菜月はクイーンサイズのベッドで寛いでいた。


「あー、ふっかふか!」

「菜月」

「なに?」


 湊の眉間にはシワが寄った。


「誰のために、こんな事をしていると思っているの?」

「ん?私のためだよね?」

「そうだよ、なのにその緊張感のなさはどうかと思うよ」

「・・・・・」


 時計の針は23:00を回っていた。やはり宿泊、長丁場になるかと溜め息を吐いた時、廊下の空気が動いた。


「音がしたよね?」

「する」


 緊張感が走った。


「菜月、部屋の電気消して」

「うん」


 湊が携帯電話のリモート撮影画面を立ち上げ、菜月が部屋の電源スイッチからルームキーを抜いた。


キィ カチャン


 客室の扉が開き、賢治が次いで如月倫子が顔を出した。


カシャ


「倫子」

「なに?」

「これからどうする?」

「ええ?どうしようかな」

「菜月はいない、ゆっくり出来るよ」


カシャ カシャ


 2人は饒舌だった。これならばカメラのシャッター音に気付かれないだろう。湊は、数センチほど開けた客室扉の隙間に携帯電話を当てがった。柄にもなく、緊張で指先が震えた。


「そうね、私、軽く飲みたいわ」

「俺もそう思ってたんだ」


カシャ


 賢治と如月倫子の気配が近付いて来た。


「そうね」


 カシャ カシャ カシャ


 仲睦まじく腕組みをする2人の横顔。菜月と湊は息を殺し、身じろぎもせずエレベーターの到着を待った。


ポーン


 エレベーターが20階に到着し、賢治と如月倫子を乗せた箱の扉がパタンと閉まった。


「やった!」

「撮れたね!」


 湊は観葉植物の中から一眼レフカメラを取り出し、菜月は部屋の電源スイッチにカードキーを差して扉を閉めた。


「ふぅ」


 カメラを抱えた湊はその場で胡座を組み、画像を確認した。どれも思いの外鮮明で、賢治たちの愚行はデータとして手元に残った。


「これで賢治さんの不倫の証拠は揃ったよ」

「あぁ、疲れた」

「菜月、お疲れ」


 菜月がベッドのシーツに包まりながら微笑むと、湊がその隣に肘を突いて寝転んだ。無邪気な笑顔で振り返った隣には、穏やかな面差しの湊が横たわっていた。息遣いを感じ、微笑み合う。湊は菜月の絹糸の髪を撫でた。


「菜月、男の子みたいになっちゃったね」

「思い切っちゃった、ちょっとだけ後悔してる」

「そのうち伸びるよ」

「うん」


 菜月の目頭に熱いものが溢れた。


「菜月は、賢治さんと暮らした時間を切り落としたんだよ」

「うん」


 菜月が長く伸ばした髪をバッサリと切ってしまうには、よほどの覚悟と深い思いがあったに違いない。


「菜月」

「なに?」

「これからは僕の為に髪を伸ばして欲しいな」

「うん」


 菜月の頬に温かな涙が伝った。湊は菜月を抱き寄せると、その頬に口付けた。菜月の両手が、ゆっくりと湊の背中に回りワイシャツを握った。2人の体温が少しずつ上昇する。


「そういえば、母さんがさ」

「お母さんがどうしたの?」


 菜月は不思議そうな顔で湊を見上げた。


「僕たちが、奥の和室でキスしているのを見たらしいんだ」

「えっ!ら、らしいって!」

「見られてた」

「ど、どうしよう」


 湊は菜月から身体を離し、仰向けに転がった。


「母さん、僕たちの結婚には賛成してくれるって」

「そうなの?」

「うん」

「・・・結婚」

「でも”一線”は超えないように!って注意されたよ」

「いっ、”一線”って、そういう事?」

「そう、こういう事」


 湊は、菜月の身体に覆い被さると優しく抱きしめた。


「ちょ、ちょっと湊!」

「なにもしないよ、菜月はまだ人妻だからね」

「そうよ!」

「でも、このままでも良い?」

「ん?」

「しばらく、このまま」


 湊も病み上がりの身体で疲れたのだろう。菜月の髪に顔を埋めると、瞼を閉じて寝息を立て始めた。


(湊、ありがとう)


 菜月は、湊の右頬にうっすらと残る傷痕にそっと触れた。


「おやすみ、湊」


 湊の重みを感じながら、菜月は深い眠りに落ちた。




チュンチュン チュンチュン




 白い朝靄の中、タクシーの後部座席から降りた2人を待っていたのは、寝不足で機嫌の悪い ゆき だった。


「湊!」

「なんだよ」

「菜月さん!」

「は、はい」


 菜月と湊は綾野の家の玄関先に立たされた。仁王立ちになった ゆき はなかなかの迫力で二人を見下ろした。


「一線は!」

「超えていません」「超えていないと思い、ます」

「どっちなの!」


 菜月と湊は顔を見合わせた。


「超えていません!」「超えていません!」


 ゆき に酷く叱られるその姿は悪戯をして叱られる子どものそれだった。


「入ってよし!」

「はーい」「はい」


 そして湊は片目を瞑る。


「まだ人妻だからここまで」

「ここまで」


 2人は幸せの階段を上り始めた。

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