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第34話 断罪

 佐々木は座敷テーブルを前に正座し眉間に皺を寄せていた。その隣では郷士、 ゆき 、湊が固唾を呑んで見守り、多摩さんが「そ、そこです」と囁き声で握り拳を縦に振っていた。


「あーーーーーーー」


 佐々木は額に手を当てて天井を見上げ、その他の面々は肩を落とした。


「多摩さん、証人欄は後で書こう」

「そうですね」


 緑枠の離婚届出用紙がくしゃくしゃに丸められた状態で畳の上の彼方此方に転がっていた。菜月は右手の中指にペンだこを作りバタンと背中から倒れ込み、多摩さんがそれらを拾い集めるとゴミ箱に捨てた。


「もう、駄目」


 まさに今、綾野菜月は人生で初めての離婚届を書いている。菜月と賢治の離婚届の証人は、多摩さんと孫の佐々木が名を連ねる事となった。ところが菜月は緊張のあまり、ボールペンの先で離婚届出用紙に穴を開け、本籍と現住所を逆に書き込み、二重線に訂正印が並び、振り仮名が記入欄を大幅にはみ出し、なんとも悲惨な状況だった。


「菜月、こっちの細いボールペンで書いたら?」

「菜月は不器用だな」

「菜月さん、鉛筆で下書きしたらどうかしら」


 ゆき のアドバイスにより鉛筆で下書きをし、ボールペンで書いたまでは良かったが、消しゴムを握った次の瞬間、離婚届出用紙は半分に破れた。


「菜月、頑張って」

「う、うん」


 湊は菜月の手を握ると真剣な表情で語り掛けた。


「菜月、もうすぐ賢治さんが来るんだよ?」

「そ、そうね」

「賢治さんから、離婚届のサインを貰うんでしょう!?」

「うん」


 湊は、極細のボールペンを手渡した。


「これでもう間違えずに書ける!」

「書ける」

「書くんだよ!」


 白紙の離婚届用紙を前に、菜月は唾を呑んだ。


「菜月、この離婚届を、市役所に提出すれば」

「提出すれば!」

「菜月はもう賢治さんの奥さんじゃなくなるんだよ」

「う、うん!」

「そう、もう人妻じゃないんだよ!」

「人妻じゃない!」

「頑張れ菜月!」

「頑張る!」


 子どもたちの妙な掛け合いを見ていた郷士は首を傾げた。


「人妻、人妻、人妻で無くなったらなにかあるのか?」

「まぁまぁ、郷士さん、ほほほほ」

「なんなんだ ゆき まで気味の悪い笑い方をして、なんなんだ」

「ほほほほ」


 そして菜月は9枚目の離婚届出用紙を書き上げ、多摩さんと佐々木が証人欄に名前と住所を記入しそれぞれが印鑑を押した。


「賢治さんが失敗した時の事を考えてもう一枚書いたら?」

「そ、そうする」


 10枚目の証人欄の印鑑はスムーズに捺された。





 その時、玄関先で事務の久保が郷士を呼んだ。


「あの、四島さまと賢治さんが会社にいらしていますが!」

「多摩さん、母屋に来るように久保に伝えてくれ。」

「はい、はい、はい」


 座敷に緊張が走る。


 座敷テーブルには郷士と佐々木が座り、その隣に菜月、湊、ゆき が正座した。佐々木の脇にはファイルとノートパソコン、菜月が所持していたボイスレコーダーが置かれた。



カコーン



「この度は、重ねがさね、申し訳ございませんでした!」


 座敷に小走りで駆け込んだ四島忠信は、足を縺れさせながら身を正すと、これでもかと額を畳に擦り付けて詫びの言葉を並べた。


「申し訳ございません!申し訳ございません!」


 賢治は目の周りに醜い青あざを作っていた。余程の折檻を受けたのだろう、整った面立ちは見るも無惨に変わり果てていた。


「申し訳、ありませんでした」


 蚊の鳴くような声で不満げに謝罪の言葉を吐いた愚息の姿に慌てた忠信は、その後頭部を思い切り叩くと勢いよく畳へと押さえつけた。


「こ、この馬鹿もんが!」


 ゴンと鈍い音が響いた。


カコーン


 鹿おどしが空虚な庭に鳴り響いた。


「それでは皆さまお集まりのようですので、始めさせて頂きます」


 佐々木は身を乗り出すと、座敷テーブルに賢治の不倫行為の証拠を丁寧に並べ始めた。


「これ、は」


 それは、郷士、ゆき 、四島忠信と賢治が初めて目にする物ばかりだった。


「こちらは先日、四島忠信さま宛にお送りさせて頂きました、内容証明郵便の詳細な資料でございます」

「はい」

「みなさま、こちらに、どうぞ」


 そこには如月倫子から送り付けられた口紅や手渡された名刺、白檀の匂いが染み付いた賢治のスーツとネクタイが置かれていた。


「品のない匂いね、これは香水ですか?」

「下品だな」


 その毒々しさに郷士は顔を歪め、 ゆき は着物の袖で鼻を覆った。


「多摩さん、悪いが早く片付けてくれ」

「はいはいはい、どこにお片付け致しましょうか」

「捨ててくれ」

「はいはいはい」


 賢治の一張羅のスーツはゴミ袋に入れられ、台所のゴミ置き場に捨て置かれた。


「あのスーツやネクタイは賢治さんの持ち物でお間違いないでしょうか」

「・・・・・」

「賢治さん、お間違いないでしょうか」

「間違いない」


 次に佐々木は黒い口紅のケースを指差した。


「見覚えはございますか」


 賢治はそれを手に取るとキャップを開けて中身を確認した。深紅の使用済みの口紅だった。


「見覚えはございますか」

「この口紅は私が倫子に買いました」

「そうですか」


 菜月の顔色が変わった。


(賢治さんがプレゼントした口紅)


 やはり、自宅マンションに送り付けられた口紅は、如月倫子からの挑戦状だった。


「それでは、こちらをご覧下さいませ」


 佐々木は、賢治が利用していたクレジットカードの利用明細書を郷士に渡した。


「なんだこれは」

「父さん、クレジットカードの利用履歴だよ」


 郷士の隣ににじり寄った ゆき がその金額を確認した。


「ニューグランドホテル チャージ料金 49,800 円」

「ホテル」

「あぁ、あの高級ホテルね」


 そこには、高級ブランドのバッグやアクセサリーを購入した履歴もあった。


「どうぞ、四島さまもご確認下さい」


 利用明細書を手渡された忠信は蛍光ピンクのマーカーが引かれた部分を「1、2、3・・・」と数えた。汗が滲んだ眉間に皺が何本も寄った。


「こ、こんなに、賢治!こんな大金をその女に金を使ったのか!」


 自身が取り寄せた記憶のないクレジットカード利用明細書を握り締めた賢治が、中腰になって佐々木を睨みつけた。


「佐々木!これは個人情報だろう!違法じゃないのか!訴えてやる!」

「賢治さまも不倫行為で訴えられますが、それでも宜しければ裁判所でお会い致しましょう」

「クソっ!」


 佐々木はカレンダーを取り出し、利用明細書に照らし合わせた部分をチェックして掲げて見せた。


「金曜日、金曜日ばかりだ」

「はい、賢治さまは毎週金曜日にこのホテルをご利用になられた様です」


 忠信は賢治の後頭部を激しく叩いた。


「この馬鹿もんが!」


 その四島忠信と賢治の遣り取りを横目に、複数枚の写真が整然と並べられた。それは、菜月と湊がニューグランドホテルで撮影した物だった。


「これは、いつの間に」

「賢治さまでお間違いようですね」

「誰が撮った!」


 憤慨した様子の賢治は、湊を睨み付けた。


「賢治!よさんか!」

「湊か、お前か!お前が撮ったんだろう!」


 写真の中の、賢治と如月倫子は腕を組み、愉しげな笑顔で廊下を歩いている。


「あら?」


  ゆき は写真を手に取ると、食い入るように目を凝らした。撮影日時は先週の金曜日だった。ゆき は閃いたとばかりに、菜月と湊の顔を交互に見た。


「あぁ、この夜にホテルに泊まったのね!」

「あっ!」

「母さん!」


 郷士は三人の顔を見て首を傾げた。


「なんだ、ホテルに泊まった?誰がだ?」

「あらあらあら、ほほほほ」


 ゆき は明後日の方向を見て誤魔化した。そこで佐々木はパソコンを立ち上げると動画ファイルを開いて見せた。それは吉田美希との情事だった。


「賢治さま、これは勤務時間中の行為ですね」

「・・・・・!」


 アルファードの車載カメラに録画された時刻は13:50、スーツ姿の賢治と若い女性が後部座席で口付けを交わしていた。


「賢治くん、きみは、なにを!」


 そこで、女性が自社の制服を着用している事に気が付いた四島忠信は画面に釘付けとなった。そして次の瞬間、激しく頬を叩いた。


「こ、こいつは吉田美希じゃないか!」

「お、親父」

「おまえ、未だこいつと続いていたのか!」

「まだ!?」


 それは聞き捨てならんと郷士は立ち上がり掛けたが、 ゆき に諫められ、渋々、座り直した。


「四島さん、それはどういう意味ですか!?」

「あ、綾野さん、これには訳があって!」

「どのような訳だ!」

「じ、実はこの女と賢治は恋仲でして」

「はぁ!?」


 四島忠信は自身の秘書が、賢治と男女の関係がある事を承知していた。にも関わらず、綾野住宅株式会社との取引を優先し、見合い話を進めた。


「四島さん、それを知っていてうちの娘に縁談を持って来たのか!」

「い、いや、手切れ金も渡して別れたとばかり、いや、それが」

「でも続いていたんだな!」


 郷士はテーブルを激しく拳骨で叩き賢治を睨みつけ、賢治はその場で飛び上がりずりずりと後退した。ノートパソコンが閉じられると、テーブルの上に人差し指大の筒が置かれた。それは湊が菜月に「賢治さんの言葉を録音するんだよ」そう言って持たせたボイスレコーダーだった。


「なんだ、それは」

「ボイスレコーダーです」

「ボイスレコーダー、録音か」

「皆さま、重要な部分ですのでお聞き下さい」


 菜月は耳を両手で覆い眉を顰め、湊はその背中にそっと手を置いた。


 ガシャーーーン!ドス!ドス!


『やめて賢治さん!』

『うるせぇ!』


ガシャン!


『あっ!』

『なんだその目は!文句があるのか!』


ーーー6月30日録音ーーー


『もうやめて!』

『お前まで馬鹿にするのか!』


ガタンガタン

ガシャーーーン


『馬鹿になんてしてない!』

『湊もお前も、なんだ!おい!なんだその目は!』


ーーー7月2日録音ーーー


 菜月の悲痛な叫び、物が壊れる音、賢治の怒声と罵詈雑言、涙声が延々と続き、その日付を湊の声が淡々と読み上げた。来る日も来る日も、聞くに耐えない音声が録音されていた。それは明らかにドメスティックバイオレンスの証拠となった。


「な、菜月さん、まさか、あなた、こんな事に」

「うん」

「まさか、そんな」

「うん」


 多摩さんは顔を背け、 ゆき は菜月の肩を抱き頭を撫でながら泣いた。ふと気付くと菜月の目尻にも涙が溢れそれは止めどなく頬を伝った。


(辛かった、でも、もう大丈夫)


 ぎゅっと握り締めた拳を、湊の温かな手のひらが優しく包んだ。振り向くと湊が「頑張ったね」と微笑んでいた。菜月の拳がゆっくりと開き、二人は手を握り合った。


「この、あほんだらが!」

「ヒッ!」


 普段温厚な郷士が鬼の形相で立ち上がると、思い切り足を振り上げて賢治の身体を蹴り飛ばした。


「うぐっ!」


 賢治はヒキガエルが潰れたような声を発したかと思うと縁側まで転げ、腹を抱えながら蹲った。


「申し訳ございません!申し訳ございません!」


 四島忠信は、両手を突いて額を畳に擦り付けた。


「も、もうし訳ございません!」


 四島忠信は、詰め寄る郷士の脚にすがり付いて赦しを乞うた。ところが賢治は、這いつくばり乍ら悲痛な声で父親に訴えた。


「お、親父、暴力だ!暴力!」

「なにがだ!」

「傷害罪で訴えてくれよ!」

「なにを言ってるんだ!」

「いてぇ、痛ぇんだよ」


 情けない愚息を見下ろした忠信は一喝した。


「虫でも止まってたんだ!」

「そんな訳ねぇだろ」

「それだけで済んでありがたく思え!」


 四島忠信は、賢治の髪の毛を掴むと床に頭を擦り付けた。


(こんな人と)


 菜月は、賢治と暮らした1年間を悔やんだ。そして、不倫行為を見抜けなかった己の鈍さを恥じ、処女を捧げた事を呪った。


「賢治くん、来てくれ」

「は、は」

「早く来い!」


 賢治の目の前に離婚届が広げられた。


「こ、れは」


 離婚届の右欄には綾野菜月、証人欄には佐々木と多摩さんの氏名が記入され何も印鑑が押されていた。


「どうぞ、これをお使い下さい」


 佐々木が賢治にボールペンと朱肉、認印を手渡した。


「賢治くん、今すぐ書いてくれ」

「え」

「早く書け!」

「は、はい!」


 その剣幕に賢治は震える手で自身の名を書き入れると、印鑑を押した。それを確認した郷士は四島忠信に向き直った。


「四島さん、印鑑は持って来て下さいましたか」

「はい」

「提示金額に不服が無ければこの誓約書に印鑑を」

「は、はい」

「公正証書の手続きは佐々木を向かわせますのでお立ち会い下さい」

「・・・・・お願い致します」


 四島忠信は、愚息の不倫行為が原因の離婚慰謝料として400万円を支払う事、財産分与は辞退、共有財産の全てを菜月に譲渡する旨の誓約書に署名し、実印を力強く捺した。


(く、くそ!)


 そこには、愚息の躾を誤り、小金に目が眩んだ自身を悔いる念が込められていた。


「四島さん」

「はい」

「四島工業の横領賠償金、離婚慰謝料、一括で近日中にお支払い頂けますか」

「は、はい」

「刑事告訴はお互いの為になりませんのでそこはご理解頂きたい」

「勿論です、明日、明後日にでも手続き致します」

「よろしくお願いいたします」


 すると、玄関先が賑やかしくなった。多摩さんが応対に出ると慌てふためいた面持ちで座敷に戻り、郷士に耳打ちをした。郷士の顔色が変わり玄関へと向かう、すると大勢の気配が廊下を歩いて来た。その先頭にいたのは、竹村誠一だった。湊と交わした約束、1週間が過ぎようとしていた。


「湊、1週間だ」

「分かってる」


 黒いスーツの竹村誠一が畳に膝を突くと、賢治の顔を見据えた。


「な、なんですか、あなたたちは」

「こういう者です」


 竹村誠一はスーツの胸ポケットから警察手帳を取り出して賢治に見せた。焦茶色の革の手帳には水色の背景に紺色の制服、神経質な面立ち、への字になった薄い唇の写真、警部補 竹村誠一 、制服のエンブレムが図案化された記章がもれなく付いていた。


「け、警察!?」

「そうです、ご同行頂けますか?」

「はぁ!?ただのDVくらいで警察が来るのかよ!」


 その言葉に、竹村誠一のこめかみがぴくりと動いた。


「DV?」

「な、なんだよ」

「綾野さんは、奥さまにドメスティックバイオレンスを行っていた、と?」

「なんだよ、夫婦なんだから喧嘩のひとつやふたつあるだろう!」

「ひとつや、ふたつ」


 湊がボイスレコーダーを、怪訝な面持ちの竹村誠一に手渡した。


「これだよ、録音してある」

「打撲痕の診断書はあるんだよな?」

「後で渡すよ」


 突然現れた黒服の集団に後退りしながら、四島忠信はどういう事かと声を震わせた。すると、畳の上で姿勢を正した竹村誠一は黒縁眼鏡のツルを上下させた。


「綾野賢治さんに任意同行頂きます」

「な、なにが、賢治がなにをしたんですか!」

「綾野湊さんの交通事故に不審な点がありまして、綾野賢治さんの指紋を採取させて頂きました」

「し、指紋!?」


 四島忠信が振り返ると、賢治は顔色を変え、目は上下左右に忙しなく動いていた。


「私どもよりも、ご本人がよくご存知でしょうから。任意同行に応じて頂けますね?」

「・・・・」

「よろしくお願い致します」

「・・はい」


 四島忠信は、項垂れた愚息の背中を叩き、竹村誠一に縋った。


「賢治は!賢治はなんの罪に問われるんですか!?」

「傷害罪になると思います」

「それは菜月さんへのDVですか!?DVだけで傷害罪になるんですか!?」

「・・・・だけで?」

「ひっ」

「だけとは、聞き捨てなりませんね」


 竹村誠一は黒縁眼鏡の下で目を光らせ、四島忠信を凝視した。


「息子さんは、綾野湊さんの交通事故を引き起こした原因を作った可能性があります」

「どうして分かるんですか!」

「詳しくはお教え出来ませんが、指紋が一致しました」

「なんの指紋ですか!なにに賢治の指紋が付いていたんですか!」

「お教え出来ません」


 竹村誠一は踵を返した。


「刑事さん!刑事さん、待って下さい!刑事さん!」


 賢治は力無く警察車両の後部座席へと乗り込み、四島忠信は走り去るリアウィンドーを道路に倒れ込みながら見送った。



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