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第33話 不倫の代償

 金沢市の1等地、香林坊。その百万石大通りに面したビルに、きさらぎ広告代理店の事務所と、如月倫子の自宅があった。天井のクリスタルのシャンデリアが光を弾き、寒色から暖色へと織られたクラデーションが美しいペルシャ絨毯、そこにはマホガニーの応接セットが置かれていた。ビルを一棟所有する資産家、如月進次郎が如月倫子の夫だった。


「佐々木冬馬さん」

「はい」

「弁護士さんですか」

「はい、綾野住宅株式会社、顧問弁護士の佐々木と申します」


 佐々木の前に、美濃焼のティーカップが置かれた。如月倫子の顔は青ざめ、指先が小刻みに震えていた。


「どういったご用件でしょうか?」


 佐々木の厳しい目が如月倫子の姿を捉えた。


「奥さまにお話がございまして、お伺い致しました」

「家内に、ですか?」

「はい」

「なら、私は席を外しましょうか?」

「いえ、如月さまにも同席して頂きたい案件でございます」

「案件?」


 佐々木は無言でアタッシュケースを開き、複数枚の写真をテーブルに並べた。


「如月さまにはこちらをご覧頂けたらと思いお持ち致しました」

「これ、は」

「奥さまがホテルの客室に入室された際に撮影された物です」


 進次郎は写真を手に取り、目を凝らした。然し乍ら、写真に写るその横顔は、本人とは断定出来なかった。


「これは、この女性は」

「奥さまです」

「顔が見えない、間違いじゃないのか?」


 佐々木は、菜月が撮ったニューグランドホテルロビーでの如月倫子の写真を取り出した。黒いワンピースに真珠のネックレス、如月倫子が身に着けたネックレスは、進次郎が結婚5周年の記念に妻に贈った物と酷似していた。


「これは・・倫子だ」

「はい」


 次いで、佐々木は湊がBluetoothで撮影した写真を机に置いた。仲睦まじく腕を組む男女の姿、それは明らかに如月倫子だった。


「佐々木さん、この男は誰ですか?」

「お恥ずかしながら、当家、綾野住宅株式会社、社長の綾野賢治です」

「倫子が、綾野住宅の社長と」

「そのようです」


 進次郎の隣に座る如月倫子の顔から血の気が引き、能面のように白く色を変えた。


「これは、1度の事ですか?」


 佐々木は菜月が録音した2人の会話を進次郎に聞かせた。それは、3ヶ月前の高等学校の同窓会から不倫関係が始まっていた事、毎週金曜日に逢瀬を重ねていた事を指し示していた。


「り、倫子、おまえ」

「・・・・・」


 如月倫子は金曜日になると、和装の着付けの手習いだと告げ、出掛けていた。進次郎は、よもや妻が不貞行為に耽っているとは疑いもせず、毎週、金曜日には笑顔で送り出していた。


「奥さまでお間違いないでしょうか」


 視点が定まらず、項垂れた如月倫子を睨みつけた進次郎は、震える膝に握り拳を置き、深々と頭を下げた。


「はい、妻の倫子で間違いありません」

「間違いない、と」

「間違いありません」


 佐々木は表情ひとつ変えずに複数枚の写真、SDカードを茶封筒に入れた。


「こ、この度は、妻がご迷惑をお掛け致しました。申し訳ございません」

「いえ、こちらこそ申し訳ございませんでした」

「この責任はどう、どのようなお詫びをすれば」

「慰謝料300万円」

「さ、300万円」

「はい」

「一括でお支払い頂ければ裁判には致しません」

「300万円一括で、分かりました」


 佐々木は(公証役場)で綾野菜月と如月倫子で公的文書の”公正証書”を作成する旨を告げた。公正証書で交わした約束(債務)を履行しなかった場合、強制執行で資産の差押が可能となる。


「奥さまとご一緒に、公証役場での手続きにお立ち会い頂けますか?」

「は、はい」


 進次郎は項垂れた。


「あと、こちらですが」


 気の毒に思った佐々木は茶封筒を進次郎の前に差し出した。


「ご入用ならばこれらの”資料”をお渡し致します」

「そ、それはどういう意味でしょうか」

「協議離婚のお手続きに必要ではありませんか?」

「そ、そう、ですね」


 そして佐々木は、仕様がないといった表情で大きな溜め息を吐いた。


「如月さま」

「はい」

「当家の綾野賢治への慰謝料請求もお願い致します」

「は?」

「もう直に、四島賢治となりますので、四島賢治への慰謝料の請求をお勧めします」

「はぁ」

「よろしくお願い致します」


 進次郎は不可思議な面持ちをしたが、これは「菜月からの慰謝料請求に加え、如月進次郎からの慰謝料請求で、賢治が金銭的に苦しめば良い」という、綾野郷士の策略だった。


「それでは南町の公証役場の受付でお待ち致しております」

「はい」

「お忘れ無きようにお願い致します」

「はい」

「内容証明郵便はご入用ですか」

「結構です」


 佐々木はアタッシュケースを手にソファから立ち上がった。如月倫子は、スプリングの軋む音にすら怯え。肩を震わせた。その隣に座っていた進次郎は、佐々木を玄関先まで見送ると、重厚なマホガニーの扉を閉めた。


「・・・・・・」


 背後で如月倫子の悲鳴が上がり、家具が倒れ、物が割れる音がした。


(あぁ、カップが割れたようですね。勿体無い)


 佐々木はエレベーターのボタンを押した。

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