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12.-⑤

   *


「ひどい顔、してる」


 結局彼が起きだしたのは、昼近くになってからだった。相棒の姿はそこには無く、泊まったそのがらんとした部屋の中には、ヘッドが一人残って煙草をふかしながら新聞を読んでいるだけだった。

 彼は乱れて重く感じる黒い髪を無造作に束ね、洗面台に向かった。

 勢いよく出る水で顔を洗う。そしてそのまま上げた顔が、鏡の中の自分と視線が合う。これが俺の顔だったか、と彼は改めて思う。

 ライで解放された時、自分がどんな顔をしているのか初めて見た時、それが自分の顔という気がしなかったのを彼は思い出す。かと言って、それまでの自分が、どんな顔をしていたのか、はもっと判らない。

 慣れないだけだろう、とテーブルで新聞紙を広げている男は言った。そうかもしれない、と彼はその時答えた。

 今見る自分の顔は、自分だ、とはっきり認識できる。向こうでの雪焼けは、そのまま肌に染みついてしまって、なかなか取れない。


「よぉ、何かずいぶんとよく寝てたな?」


 ヘッドは新聞を閉じながら彼に声をかけた。


「ビッグアイズとリタは?」

「BEは表の仕事に出てる。リタリットは知らん。お前何も聞いてないのか?」

「聞いてない」


 起きて出ていくのも気付かなかったくらいだ。だが普段だったら、蹴飛ばしてでも起こしてくる。

 ここから少し離れた場所での彼らの表向きの仕事は、ごくごくありふれた工場の作業員だった。物をあっちへ動かしたりこっちへ動かしたり、の単調な仕事の場所では、周囲はそれ以外の部分に追求することはない。

 ただその口からあふれて来るのは、日常の、他愛ない生活の楽しみと愚痴。その愚痴の中に、現在の政府のやり方が含まれていることも多い。だがそれが政府のせいだと気付いている者は少ない。ただぼんやりとした、不平の中に、含まれていると気付いているのは、彼自身だった。

 そこで休みを取って来ていることに、今はなっている。だがそのまま戻らないだろう可能性も、彼は感じていた。


「BPお前さ」


 ヘッドは、ごそごそと冷蔵庫を物色している彼に向かって声をかける。何、と彼は口にパンのつつみをくわえ、手にミルクの瓶を持ちながら問い返す。


「無理はするなよ」

「無理なんかしてねえよ。ほらちゃんとここに置きました」

「パンのことじゃない。お前のことだよ」


 がさがさ、と彼は黙ってパンのつつみを開く。中に入っていたのは、丸い、表面が硬いパンだった。

 彼は一つ取りだしては、それを力を入れてちぎり、カップに入れたミルクに浸す。適度に染み込んだところで、口に放り込むと、水気の多い果物を口に放り込んだ時の様なじゅ、という感触がある。しかし皮はなかなかに湿りきらないから、パンは口の中で、なかなかかみ切れない。

 ようやく一口飲み込み、彼はヘッドの問いに答える。


「断ったっていい」

「あんたはだけど俺達のヘッドだろ」

「別にお前がこの集団に固執する必要はない。それが苦痛だったら、する義務は無いんだ」

「義務ね」


 そしてまた一口放り込み、くちゃくちゃ、と音がしそうな程に硬いパンを噛みしめる。この類のパンは、噛めば噛む程に味が出てくる様な気がして、彼は案外好きだった。


「俺はさ、ヘッド、義務だとか何だとは思ったことは、一度もないよ」

「ふうん?」

「けどあんたは、結構前から気付いていたね。リタならともかく、あんたはやけに鋭かった」

「俺も、気に掛かっているのが『誰か』のクチだからな。敏感になるのも仕方ないだろ」

「奥さんと、子供、だったっけ」


 俺にもくれ、とヘッドは自分の前に置かれたままのカップを彼に突き出した。黙って彼はミルクをその中に注ぐ。


「お前、あの顔が、気になっていたんだよな」


 ああ、と彼は答えた。「あの顔」がどの顔を指しているかは、言わなくとも彼には判っていた。昨日の件があろうと無かろうと、今ここで問うヘッドには判っているのだろう、とBPは思う。


「本当に、そうだったら」


 どうだろう、と彼は思う。何処にも実感が無いのだ。

 例えば相棒が今消えたとしたら。彼は記憶の中のリタリットの姿を探してみる。そこには、確実に何か実感を伴った何か、があった。相手の姿、相手の声、相手の表情、相手の触れた感触。

 そういったもろもろの感覚が、自分の中で、相棒の姿を、居ない今の時点でも鮮明に思い起こさせる。それは確かなものだ。

 だが、あの泣く「誰か」の記憶は、それとは何か違っている。


「ヘッドは、奥さんの顔とか、思い出せるか?」

「いや」


 ヘッドは首を横に振る。


「女房がどんな顔だったか、どんな身体してたか、そういうのは俺にはさっぱり思い出せない。ガキに関して言えば、本当に生まれていたのかすら、俺には判らない」

「だけど居る、ってのは確かなんだろ?

「それだけ、だ」


 ヘッドは吸っていた煙草をひねりつぶした。


「あいつが俺を抱きしめたとか、あいつと寝てたとか、そういう感覚だけが、何処かに残っている。確かにそういう女が居た、それが俺の女だった。そういう感じ、が残っているんだ。そしてその女が、俺の中で、空気みたいに、生活の一部分になっていた、とかそこに子供の居た気配がある、みたいな、俺の記憶は、そんな曖昧であやふやなものなんだ」

「だけど、それがあんたにとっては実感のあるもんなんだろ?」

「そうだな」

「会いたいとは、思わないのか?」

「当然、思うさ。だけど、探すにも、俺には探す手がかりが何もない。あきらめる訳じゃないが、手も足も出ない。それに比べればお前の手がかりは、ましな方だとは思うが……」


 彼は苦笑する。


「なあヘッド、それでも俺は、引き受けるつもりだ」

「俺達への遠慮だったら、俺は遠慮するぞ」

「そういうことじゃない。ただ、それが成功するかどうかは判らないし、そのあたりはあんたがしっかり話を付けてくれると嬉しいんだが」

「それは構わないが」


 ヘッドはカップの中のミルクを一口飲み込む。


「何故だ?」


 彼もまた、一口ミルクを飲み込んだ。タンパク質特有の濃い、味ともにおいともつきがたい何かが、喉の中に引っかかる。


「確かめたいんだ」

「そんなことで、確かめようっていうのか?」

「奴らが言う俺が、俺だって言うなら、俺は戦場で生きてきた人間だ。そういう場でないと、相手のことを見極められない様な気がする」

「だがもし、それが成功した時に、それがお前の大事な何かだったらどうすんだ?」

「だから、賭けだ」


 違ったら、それはそれでいい。それで自分は、過去を断ち切れると彼は思った。違わなくとも……その時には、その時に、何か、はっきりするものがある様に思えた。


「リタリットが、目ぇ真っ赤にして起きてきたが、そういうことか?」

「あん?」

「あれは、どうする?」

「どうするって、言っても」

「例えば、俺やお前の様に、取り戻したい記憶、だったらいい。だけどあいつやキディの様に、消してしまいたい記憶を持っていた奴にとって、今が楽しかったら」

「それは、判ってる」


 相棒の無意識は、過去を捨てたがっている。そして同時に、現在をどうしても手放したくないことも。


「俺だってさ、ヘッド、今が楽しい。でも、だからこそ、俺は自分の過去とちゃんと向き合っておきたいんだ。そうでないと、いつまで経っても、あの顔が、俺の中で消えない。泣き顔が、俺の前でちらつく」


 虫のいい考えだろうか、と彼も考えなくはない。だがそれは彼の本心だった。


「お前がそう考えてるなら、俺は何も言わない。ただ、記憶はいくら消されようが何しようが、命は一つしか無いんだ。それだけはちゃんと覚えておけよ」


 肝に銘じておくよ、と彼はうなづき、食事を再開させた。


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