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泊まって行ってもいいのに、という眠そうなリタリットの声を丁重に断ると、リルは慌てて駅行きのトロリーに乗り込んだ。急がなくては。
上手く行けば、ここから夜出る、首府行きの夜行列車に乗り込むことができる。できるだけ早く、リルは首府へ、ゾフィーの元へ舞い戻りたかった。
そして切符を手にすると、飲み物のパックを一つ買ってバッグに突っ込み、通信端末の回線を開いた。今の時間が彼女にそのまま通じるかどうかは判らなかった。だが、通じて欲しかった。自分の感じた、確信とも言えるものを、早く、彼女に伝えたかったのだ。
数回、呼び出し音が耳に飛び込む。時間帯的に、あのテルミン宣伝相との打ち合わせをしている可能性はあった。
だが、ぷ、という音とともに、彼女の声が耳に飛び込んできた。リルはふっ、と目の前が明るくなった様な気がした。
「レベカさん! 俺っす。リルす」
『何? 今うち合わせ中なのよ。定時報告だったら後にして……』
「定時報告じゃないす。報告、なんす」
途端に、耳にかん、という音が飛び込んできた。どうやら端末を落としたらしい。
『あ、ああ…… ごめんなさい』
「でも、打ち合わせ中なら」
『彼は知ってるわ。待ってもらう。で!』
「間違いない、と思うんす」
彼はかいつまんで、リタリットと会った時の様子を話した。
『それで、君がそのリタリット君をハイランド・ゲオルギイで、ヴァーミリオンだっていう決め手は?』
「一つは顔。そりゃ、あの映像とはやや違いますよ。だけど、大学のクラスメートが持っていたフォートとは同じす」
『どういう意味?』
「お坊ちゃまは、大学でたがが外れてしまったってことすよ。良くも悪くも。で、次が、声。声質が、ゲオルギイ前首相に似てるんす。あの妙な響きかたとか。で、決定的だったのが、……無意識…… じゃないかな、と俺は思うんすが」
『無意識?』
「リタリット君は、記憶を無くしてる、って彼の友達が言ってました。ちょうど時期的には、八年前、水晶街の騒乱と時期は合うんす。じゃあその時何があったのか、失踪してからその二年、時々キャンバスに姿は見せていたらしい彼は何をしていたのか、それは俺には判らないすが」
『だけど?』
「彼は、別の人間から、ヴァーミリオンのことは、聞いている様な口振りでした」
『何それ。じゃあその時のことは彼は覚えていなくても、知ってるってこと?』
「ということになります。でもやっぱり記憶は変な様です。確かに忘れていると思うんすよ。だいたいドクトル…… あ、彼の友人が医者らしいんですが、その医者も、そう断言してました。ただ」
『じれったいわね』
「俺が中央大なんて言葉出さないうちに、彼はハイランド君の中等卒業後の進路を言ってしまったんすよ」
『……』
「だから、無意識じゃないすかね。それに、言葉」
『言葉?』
「あんなに、上流階級のクセをアクセントに残しちゃいけないと思うんすよ」
リルは苦笑する。
「あれが決定打す。アクセントは無意識だから。俺、前に局アナちゃんから聞いたことがあるんすけど、どんだけ方言って、直そうとしても、言葉に掛けるアクセントとかは、無意識に育った環境のものが出てしまうって言うんすよ。彼が隠す気だったら、隠してるでしょうね。でも彼は隠す気が無い。というか、隠そうという意識すら無かったす。もしくは、それが上流階級アクセントということを、忘れている」
端末の向こう側に、沈黙があった。リルはその向こう側に、ばたばたと駆け寄る足音を聞いた。
「それじゃ、これからすぐに戻ります」
リルは短くそう言って、通信を切った。
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その場にへたり込んでしまったゾフィーに、テルミンは駆け寄った。掴んだままの端末は、既に切れている。スイッチを切ると、テルミンは彼女を自分の方へ向けさせ、肩を持つと揺さぶった。
「ゾフィー! おいちょっと!」
「あ……? あ、あたし、どうしてた?」
「急に見えなくなるから、倒れたかと思った……」
「倒れない、わよ…… こんなことくらいで……」
「だけど、ひどい顔色だ」
テルミンは首を横に振る。
「大丈夫よ、だってもう年末も近いのよ? とにかくいい加減段取りを決めないと、セットを作る方も、発注出せないわ」
「そう…… だね」
額に湧いてくる冷や汗をぬぐいながらそう言う彼女に、テルミンは上手い言葉が返せなかった。
「大丈夫よ。ただ、一つ、次の行動が決まってしまったのよ」
「え? それは……」
「見つかったのよ、彼」
「彼…… というと、あの」
「そう、あの、彼よ」
ここには周囲の目がある。固有名詞は二人の口からは決して出なかった。
「ちょっと手貸して、テルミン。立つから」
「気を付けて」
「ナジャレス! スタジアムの図面貸してちょうだい!」
彼女は立ち上がりながら声を張り上げる。そして図面を持ってたアシスタントの青年から大丈夫ですか、と問われる。
「何、ちょっと足ひねったぶんよ。後で湿布でもしとけば大丈夫」
そして図面をざっとテーブルの上に乗せる。強いな、とテルミンは思った。先日の醜態が嘘の様だ。覚悟を決めると、こうも強いのだろうか、と彼は思った。
そういう意味では、自分か覚悟もへったくれもないな、とテルミンは思う。あの夜から、ずっと頭の中で、複雑な感情が渦を巻いていた。
ヘラもケンネルも、自分達の関係のことは決して口にしない。官邸で出会う時も、ある一定の線は守っている様に見える。時には言葉でふざけ合うこともある。だがどう見ても、この二人にそんな関係がある様にき見えない。
自分が見たのが何か夢か幻だったのかもしれない、と彼は時々思う。思いたいのだ。
しかし、そう思うには、あの光景は生々しすぎた。そして、二人のどちらにも、その事実があるのかどうかを問いただすこともできない。
そもそも「総統閣下」が誰を愛人に持とうが、そんなことは「総統閣下」の勝手なのだ。それがこの星系でテルミンがヘラに送った地位なのだから。
「テルミン」
ゾフィーの声に、不意にテルミンは我に戻った。
「どう思う?」
「え?」
「やだ、あなたがぼんやりしてどうするのよ。この図面からすると、こっちとあっちに、二つ放送用ブースがあるじゃない。どっちをメインにして、どっちをサブにした方がいいかしら」
「それは君達に任せるよ」
「任せられて嬉しいわ。だけど、傾向として、総統閣下はどちら側からの方が映りがいいのか、って問題もあるのよ?」
「うーん…… どっちかなあ……あれ、真ん中のこの小さい奴は?」
「あ? これは違うわよ。ここにはカメラは置けないはずよ。機材置き場になってるんじゃないかしら」
「ふうん」
テルミンはそううなづくだけだった。