「……場所は」
それはスノウの声だった。誰かに何かを問いかけている。
「現在は、主立った所が、西のエンゲイから場所を移し、ハルゲウに集結しています。そこに中心たる組織『赤』、そして首府をはさんで、対称的な位置に、同盟組織『緑』と『藍』の共同戦線が近づいています」
「ふむ」
何のことだろう、とテルミンは眉を寄せる。色の名前のついた組織のことなら彼も聞いていた。しかし、そのことに関してスノウと話をしたことは無い。公的にも、私的にも。
「『朱』が見つかったということだが」
「はい。『赤』からの連絡で。しかし、記憶を失っております。如何致しましょう」
「記憶は能力とそう関わりはしないだろう」
「使えるものは使え、と」
「私はそこまでは言ってはいないよ」
くく、とスノウは喉で笑う。
「よし。とにかくそれはしばらくその位置でじっとさせておくがいい。理由は何でもいい。本番までは、役者はきちんと舞台裏で待っているべきだよ」
「判りました」
そして、正体の判らない声の男がその部屋から出ていく気配があった。
代わってテルミンの耳に飛び込んだのは、ぱたぱた、というトランクや引き出しを開閉する音だった。
テルミンはその音に混じって扉を開けた。スノウはその音に気付いて顔を上げた。
「君」
「あんた…… 帰るのか?」
何から聞けばいいのか、彼には判らなかった。
「ああ」
「戻って来ない、つもりじゃないのか?」
ぱたん、とトランクを閉める音が、部屋に響く。
「何故そう思う? テルミン」
「……別に……」
ようやく彼はそんな言葉を絞り出す。唇がからからに乾いている。上手く言葉が出て来ない。
おいで、と相手は手招きをする。
彼はその手の示すままに、近づいていく。
あの時からそうだった。自分はこの手には逆らえない。正面に立った相手は、手を伸ばし、彼の顔を上げさせると、正面から見据えた。
「向こうの状況如何だ。それは先程総統閣下の前でも言ったはずだよ」
「向こう?」
「時々、我々にも召集がかかる。それは帝都政府の命だから、仕方が無いことだろう? その命がいつまで続くのか、は私が決めることではない」
「だけど、働き次第で早く戻ってくることも、できるんじゃないか?」
「君は、私が早く戻ってきた方がいいのかい?」
途端、かっ、と血が顔に上がるのをテルミンは感じていた。慌てて相手の手を振り解く。
この男の手の中に居たことは数え切れない。この男に囁かれたことも、数え切れない。だが、こんな風に、身体がそれだけで熱くなることは、無かった。
「君―――」
「……見るなよ……」
彼はばっと顔を覆った。だが相手はそんな彼の言い分など無視して、その手をすばやく捕らえた。止めてくれ、と彼はもがく。だが、振り続けるその顔は、力強い相手の手に、その色も引かぬままに、掴まえられた。
「君が、どうしてそう思うことがある?」
「離してくれよ! あんたが知ることじゃない! そんなことは俺の勝手だ!」
「君だけのことじゃあない」
あくまで冷静な、その声に、テルミンは急に腹が立つ自分を感じていた。相手が冷静になればなる程、自分の持つ理性は失われていく様に思われた。
「……君は、テルミン、私のことを好いている?」
う、と彼は自分の喉の奥からそんな音が出るのを感じた。とうとう聞かれた、と彼は思った。それは聞かれたくない問いだった。聞かれるはずが無い、と彼がずっと思っていた、そして思いたかった問いだった。
「そんな訳無いじゃないか……」
殊更に、声を軽くしよう、と努力する。
だけど、揺れている。それが自分でも判る。
自分が判るくらいなら、相手には、当然だろう。
「こっちを、ちゃんと見て」
スノウは少しでも視線を逸らそう逸らそうとするテルミンの顔を、く、と自分の方へ向ける。視界に、相手の顔が一杯に入る。
「私のことが、好きか?」
再び訊ねられる。胸が痛くなる。喉が詰まって、声が出ない。
駄目だ。
声が出ない。
そして彼は、真っ直ぐ腕を伸ばしていた。
「……君」
伸ばされた手が、相手の首に回る。テルミンはその腕に力を強く込める。声が出ない。でも。
判って、ほしい。
何でこんなことを、感じるのか、さっぱり判らない。だけど、どう仕様も無く、彼は今この瞬間、そうしたかった。この目の前の相手を、自分の腕できつくきつく、抱きしめていたかった。
相手の腕もまた、自分の背に回される。その力が強い。そして暖かい。
この相手の体温が、自分のそばから消えてしまうのが、たまらなく嫌だった。
ずっと、そばに、居て、ほしいのだ。
「……戻ってきて……」
きしむ喉の奥から、そんな言葉を、テルミンは吐き出す。
「お願いだから、戻ってきて。レーゲンボーゲンへ。……俺のとこへ」
そんな言葉が、自分の中から出るとは一度たりと思ったことが無かった。誰に対しても、そんなことは、無かった。あの総統閣下に自分が付けた男にしても、そんなことは、考えたことが無かった。
こんな、女々しいとも言える言葉を、誰かにすがる様な、弱い言葉を、自分が吐くなんて。
信じられない。だけど事実だ。目の前の事実には、目も耳もごまかせない。そう言っているのは、確かに自分なのだ。
心が、幾らごまかそうとしたところで、身体は正直なのだ。そうやって抱きしめ、抱きしめられる手の強さに、体温に、どうしようも無い心地よさを感じてしまっているのだ。
それはおそらく、権力よりも、とろける程に甘く。
口にしてしまうと、ずっと何か重く、自分の胸を圧迫していた何かがソーダ水の泡の様に、微かなしびれを喉元に残しながら溶けて消えていくのを彼は感じた。
ずっと、そう思っていたのだ。どうしてこの男の腕の中だと眠りにつくことができたのか。眠りは、疲れ果てる程の行為がもたらすものではないのだ。そんな風に自分自身を投げ出してしまった時に、無防備になった自分を放置しておいてもいい場所だったから、訪れるのだ。
最初からこの男の手は、その思惑がどうあれ、自分から余分な考えを起こすことから解放してくれていた。
思惑はあったろう。それがこの男の仕事なのだから。だが、自分にも、それを受け入れるだけの何かがあったのは確かなのだ。スノウはただそんな自分の背を押しただけに過ぎない。スノウが居なくても、テルミンはいつかそうしたかもしれない。そしてその時、彼は自滅していただろう。
戻るところまで彼の足取りを進めさせてしまったのは、確かにこの男だ。しかしテルミン自身、そこまで行く自分が見えていたのだ。
この男を呼び寄せたのは、結局は自分自身なのだ。
「戻ってくるよ」
スノウは彼の耳元で囁く。
「君が待っている以上、私は必ず」
「嘘」
「嘘じゃない。前から言っているだろう? 私は君に嘘をつく理由は無い」
「……」
「君が言うなら、スタジアムの新年の祝賀祭に間に合う様に努力しよう」
「俺が言うなら?」
「そう、君が言うなら」
「何で、俺なの?」
それはずっと聞きたかったことだった。この男は、自分よりずっと長い時間、この政治の真ん中において、駒の様に誰彼と動かしてきたはずだ。今だってそうだ。誰とこの男は話していた?
おそらくは、この星系全土に内乱を起こさせる種をあちこちに蒔き散らして。そしてそこにどんな目的があるのか。目を塞いだふりをしてきた。
「あんたには、もっとたくさん、そんな奴が居たはずだろう? 何で俺なの?」
「さあ」
スノウは、この男にしては、ひどく珍しく、曖昧な口調で答えた。
「それは、私にも判らない」
「珍しいね、あんたにしては」
「私とて人間だ。君とは種族が違う。だが人間だ。人間の心を持っているはずなのだ」
スノウ、と彼はつぶやいた。
「我々は、時々自分達が人間であることを疑う。気の遠くなる程の時間の中で、本当にそれを時々忘れそうになるのだ」
ああそうだ、とテルミンは思い出す。この男は、帝都の人間なのだ。
「天使種……」
「君達のそう呼ぶ種族は、そんな種族なのだよ。生きている時間の長さに、時々押し潰されそうになる。それを超越した世代でも無い限り、それはずっと、我々の心の中に、重くのし掛かる。君がこの手の中に居る。だけど、それは、私にとっては過ぎ去っていく時間のひとコマに過ぎない。いつか過ぎ去って行ってしまうのは、私ではない。君の方なのだ」
「あんたは……」
ふと身体を逸らす様にして、テルミンは相手の顔を見つめる。穏やかな表情。それは、どれだけ多くの人間が過ぎていくのを見つめてきたのだろう。
「だからそう思うべきでは、なかったというのに」
「……」
「君がいつか、過ぎ去っていくのは判っているというのに」
腰の辺りにずらされた手に力が籠もる。う、とその強い力に逸らされた背骨が音を立ててきしんだ。
「……だったら、連れて行って」
テルミンは思わずつぶやいていた。
「俺を、あんたの行く所へ連れていって」
「テルミン? ……だが君は、総統閣下を置いていくことはできないだろう?」
テルミンは激しく首を横に振った。
「もういい。もういいんだ。彼には、ヘラさんにはケンネルが、俺の親友が居る。彼が総統閣下なんて役をもうしたくないというなら、俺はどんな画策をしたっていい。彼をその座から下ろしてやる。俺はただ、彼が、幸せになってくれたら、それだけで良かったんだ……」
「好きな訳ではなかった?」
「好きだった。どうしようもなく、好きだった。だけど、別に抱きしめたいとか抱きしめられたいと思った訳じゃない。ただ、その姿が、その姿にふさわしい所にあって欲しいと、そう思っただけなんだ。俺は触れたいと思ったことはない。触れられたいと思ったこともない。ただ、彼を」
言葉が途中で止められる。テルミンは目を伏せた。
「……彼が、誰かを求める瞳のまま、遠くを見ているのが、嫌だったんだ……」
「もしも、その誰か、が現れたら?」
「それで幸せになるなら、俺は、もういい。ここでもいい。ここが嫌なら、何処へでも、行けばいい。それで本当に、幸せになってくれるのなら。彼が誰に抱かれようが、それで幸せなら、俺は、いいんだ」
「私は、君のそういうところが、とても好きだよ」
「そんなところが?」
「……ああ、そうなんだ。私も、今気が付いたよ」
そういう自分を、そうだというのか。
だったら、迷うことは、無いのだ。
「お願いだ。俺を、連れて行って。あんたの行く場所へ」
テルミンは繰り返した。そしてスノウは。
「連れて行こう。ここでの仕事が、全て終わったら、君を、私の行く場所へ。必ず」