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54・新たな脅威



 清々しく晴れた青空は高く澄んでいた。

 レティアが大きく息を吸い込んで仰ぎ見ると、太陽の光が視界いっぱいに白く輝いて眩しかった。

 曇りのない気持ちでこんなふうに空を見上げるのは数日ぶりだ。


 ──長かったような、短かったような。


 思えば、ノアとの出会いが最初だった。

 あの時の偶然の遭遇がなければ、今頃どうなっていたか知れない。


 黒い女に襲われた時の恐怖心が拭えたわけではないが、それもカルロスとの縁があったからこそ救われた。


 ──人と人との《縁》の繋がりに、私はいつも助けられている。


 大袈裟かもしれないけれど、これまで生きて来られらのはそうした《縁》の繋がりがあればこそだと言える。


 ──ラエルとの縁だって。身体も心もボロボロでどん底だった時、私たち家族を救ってくれたのは、彼だもの。


 ラエルは今頃どうしているだろうと、ふと思った。

 王城のどこかにいるのだろうか。それとも治安部騎士団の副隊長として、王都に赴いているのだろうか。


 王城でラエルに会えた事すら奇跡だと言えるのに、王都に戻ってしまえば彼と遭遇する可能性は更に低くなるだろう。


 ──せめて、もう一度会いたかったな。


 さっきまで輝いていた空が、流れる雲が、今はどこか儚げに見える。

 レティアは、ふ、と微笑んで、作業部屋にレティアが戻るのを待ち侘びていたシーラと針子たちとともに馬車の客席に乗り込んだ。

 王城の中央ロータリーに位置する馬車受けも、青空の下に広がる美しいトビアリーガーデンも閑散としていて、静寂の中で二頭の馬のいななきが空へと昇った。


「皆んな、ほんっとお疲れ様。とんだ《納品》だったわね」


 車内で、レティアの正面に座ったシーラが、シンプルな造りの藤色の扇子をぱたぱたと仰ぎながらつぶやく。後頭部にまとめた彼女の髪の後れ毛が風に靡くのを、レティアはぼうっと見つめていた。

 気が張っているものの、連日の徹夜と縫製作業に神経をすり減らし、相当疲れているのは確かだ。

 ふと気を抜けば、眠ってしまいそうなほどに。


「本当よっ。おかげで寝不足で目の下はクマで真っ青だし? 指先はジンジン痛むし」

「今朝の化粧のノリ、最悪」


 先輩針子のアネットが赤くなった指先をひらひらさせれば、別の針子が上目遣いに虚空を睨む。


「すみません……」


 針子たちが疲れ切っているのを申し訳なく思い、レティアが視線を落とすと、


「なんであんたが謝るのよ」

「別にレティアのせいじゃないから」


 いつもなら何かと毒付いてくるアネットでさえも、今度ばかりはレティアを責めようとはしないのだった。


 六人乗りの馬車を引いた二頭の馬たちが、王城の広大な敷地内を軽快に進んでいく。


「ねぇ、ちょっと見て」


 車窓から外を眺めていた針子の一人が囁くように言う。

 その声に導かれるように、他の針子たちが一斉に車窓の外を見遣った。


「ずっとこっちを見てるよね?」

「でもなんで」

「さぁ」


 針子たちが騒ぎ始めたので、レティアも気になって窓の外に目を遣る。馬車から少し離れた小高い丘の上に、三頭の馬と、馬に跨った若い男たちが見えた。

 二人は青い騎士服で、一人は黒い騎士服を纏っている。


「警吏騎士よね、あれ」

「ええ。どう見てもそう」


 警吏騎士、そして……黒い騎士服。

 窓枠に張り付くようにして、レティアも丘の上を見上げた。


 ──ラエル……!


 彼の白っぽい金髪が陽の光に照らされて、銀糸のように風に靡いている。

 あの佇まいと黒い騎士服は、確かにラエルその人に違いなかった。


 ──もしかして、私たちを見送りに……?


 心臓が、一瞬にして早鐘を打つ。

 けれど多忙な彼がレティアや針子たちを見送りに?

 いいや、そんなはずがない。


「不審な輩が乗ってないかとか疑って、この馬車を見張ってるんじゃない?」

「いやいや。普通、去る者は追わずでしょう」


 冷静になれない心が葛藤を繰り返す。

 けれど理由はどうあれ、王城を出てしまう前にラエルの姿を一瞬でも見られたのは嬉しかった。


 胸の高鳴りの余韻に浸っている間も虚しく、レティアたちを乗せた馬車はすぐさま丘のそばを通り過ぎてしまう。


 奇跡のようなときめきの余韻を残したまま、レティアはいつまでも車窓から離れなれなかった。




 * * *




 王城の自室の窓から身を乗り出せば、眼下には六人乗りの馬車が見えた。

 馬車の定員いっぱいの人数、六人の針子たちが次々と馬車に乗り込んでいく。


 「…………ッ!」


 アーナスは彼女たちの姿を凝視した。

 ワインレッドの瞳は、針子の中のたった一人を見捉えている。


「可愛い私の子猫ちゃん。よーく見ておくのよ……」


 アーナスの胸には、灰色く薄汚れた子猫の人形が抱かれていた。


 ──ヒルデガルド王妃様の前でわたくしに大恥をかかせた、薄汚れたドブネズミ。やたら悪運が強いドブネズミ。殺しても死なないドブネズミ。


 二つの眼光は、メラメラと怒りと憎しみの炎を宿す。

 初めはほんの小さなくすぶりだった。

 けれどは事あるごとにアーナスの琴線に触れ続け、やがて燻りは胸を煮やす炎に変わった。

 王妃とともに部屋を出る間際、振り返ったレティアが向けた視線にはアーナスに対する侮蔑と憐れみすら孕んでいたようにも思えて──。

 息苦しいほどの胸糞悪さが、喉の奥から迫り上がってくる。


 ──薄汚いネズミの分際で、このわたくしを憐れむだなんて。


「チッ……!」


 頬を揺らすほど大きな舌打ちをすると、アーナスは自室の奥へと足を進める。

 寝室の、更に奥にある小部屋──今は何も置かれていないが、元々は使用人が使う倉庫のような場所だ。


 小部屋の施錠を外し、狭くて暗い空間に踏み入れば、湿っぽい空気がアーナスの鼻腔に侵入してくる。

 けれど、この薄暗くカビ臭く、何もないがらんとした空間には既に慣れ親しんでいた。

 誰も見ていない事を確かめてから扉を閉め、内側から施錠する。


 ネズミは王城を去った。

 「王城」というアーナスの手の内から「逃げられた」と言ってもいい。


 ──逃すものか。


 王都に逃げたとはいえ、あのネズミの所在は把握できている。

 なにしろネズミの分際でありながら、王室御用達の仕立屋アンブレイスの針子なのだ。


 足元の床にコトンと洋燈を、そして古ぼけた子猫の人形を置く。

 四方を壁に囲まれた何もない狭い部屋の灰色の壁に、小さな洋燈の光がゆらゆらと揺らめき、子猫の人形の青白い肌が不気味に照らされていた。


 アーナスはその両手のひらを胸の前に差し出すと、口元でぶつぶつと呪文のような言葉を呟き始める。


「B’shem ha-laila, tipol ha-knafayim(夜の名のもとに、翼は堕ちよ)……Orkha yihye lechoshekh, u’zoharkha le’afar(光は闇となり、輝きは塵となれ)」


 手のひらの上に青白い光が生まれ、塵のように細かな結晶を纏いながら次第に成長していく。


「Sha’ar ha-or sagur, v’ein shuv……(門は閉ざされ、もはや還る道はない)」


 そして膝を折り、ゆっくりと屈んだアーナスは、足元に転がっていたウサギの人形に、青白く成長したをぎゅっと押し込んだ。


「Ha-basar ha-kadosh yehafokh le’efer b’toch nehar damekha……!(肉体は、汝の血の川の中で灰と化すがいい)」


 ムクリ。

 グッタリしていた猫の人形の四肢が、まるで生命を得たかのように立ち上がる。その目は赤く爛々と赤く輝き、周囲にギョロリと視線を巡らせた。


「ふふ、私の可愛い子猫ちゃん。あなたの出番よ」


 アーナスは洋燈と猫の腹を抱え、施錠を外すと部屋を出る。

 大きな窓辺から眩いばかりの陽の光が差し込んでいて、眩しさに思わず目を伏せた。

 そのまま窓辺に歩んで見下ろすも、六人乗りの馬車は既に無かった。


「ネズミの顔は、ちゃーんと覚えてるでしょ?」


 さも愛おしそうに猫の背中を撫でると、アーナスは目を細め、語るようにうっとりと言葉を紡ぐのだった。 


「王都の仕立屋に行って、あの忌々しいネズミを殺してきて」






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