「許す。お前に任せよう」
目を閉じ、リュートが微笑む。
その表情には好奇心が覗いていた。
私がどのようなアプローチで事をなそうとしているのか。
どうやら興味を持ってくれたらしい。
「すぅ……」
とはいえ、本番はこれから。
まずは大きく深呼吸を。
(聖魔のオラトリオはあくまでゲーム)
どんなに神ゲーでも、それを作るのが人間である以上そこにはエラーがある。
(私は聖魔のオラトリオを何周もクリアしたプレイヤー)
お金がないこともあって、何度もプレイした。
だから並みのファンとは比べ物にならないほどの知識がある。
(シナリオも完全に暗記しているし、裏設定だって把握している)
シナリオや設定によるものは当然として。
ゲーム内で触れられていない裏設定や開発秘話だって知っている。
そして、
(ゲーム内のバグだって例外じゃない……!)
そして、作中に発生したバグも同じこと。
私は足元から小石を拾い上げ、小屋の扉へと投げる。
小石はカツンと音を立て、扉のすぐ前へと落ちた。
――これでいい。
「なにを……」
不思議そうに問いかけるリュート。
それに応えることなく、私は扉に歩み寄った。
「行ってきます」
歩きながら身をかがめ、先程投げた小石を拾う。
そして拾い上げる動作と同時に――扉をすり抜けた。
「っ……!」
「エレナちゃん!?」
リュートが息を呑む音。
リリの悲鳴じみた声。
それらを背に受けながら、私は笑みをこぼしていた。
(やっぱりできた……扉抜けバグ!)
先程の挙動は、本来であれば通れない扉をすり抜けるためのバグだ。
これがあれば施錠された扉や、アイテムがなければ通れない扉を突破できた。
ここが聖魔のオラトリオの世界なら、同じ方法で攻略できるのではないかと思ったのだ。
なかば賭けだったが――私は勝利した。
「ふぅ」
扉を抜けた先。
そこは埃っぽい小屋だった。
使われていない物置というだけあって、しばらく掃除された様子はない。
テキストだけでは伝わらない臨場感がそこにはあった。
「……誰?」
お世辞にも衛生的とは言えない環境の中。
少年が壁際にいた。
体育座りで、周囲のすべてを拒絶するように。
(思ったより幼い……)
セラの弟ということで想像していた年齢よりもだいぶ幼い。
現実世界であれば小学生くらいだろうか。
……やはりすぐに助けに行って正解だった。
「お姉さんは……誰?」
こちらに向けられた目には疑念の色が渦巻いている。
それも当然のこと。
彼は人質として、悪事に利用するためにここに連れられたのだ。
そんな悪意にさらされた彼が、初めて見る私を信頼できるわけがない。
「あなたがセラさんの弟で間違いないかしら」
だから、最大限の気遣いを込めて。
私は柔らかく微笑む。
少しでも彼の傷ついた心が痛まないようにと。
「……うん」
そんな思いが通じたのか。
彼の表情は暗いままでも、その声にトゲはなかった。
「無事でよかった」
それは偽らざる本音だ。
原作のシナリオ通りなら、彼は救われる命だった。
「本当に……無事でよかった」
だけどもし、彼に何かがあったのなら。
――それはきっと私のせいだ。
そう思っていたから。
彼が無事でいてくれたという事実に心から安堵する。
「もう少しだけ我慢してね」
少年の頭を優しく撫でる。
彼は抵抗することなく、それを受け入れた。
「目を閉じて、ここに立って」
少年を扉の前へと誘導する。
先程は小石を拾う動作を利用して扉を抜けた。
今回は、彼を抱え上げる動作を利用してバグを起こすのだ。
「すぐにお姉さんに会わせてあげるから」
「うん……」
少年は頷くと、ゆっくり目を閉じた。
信頼されている、そううぬぼれてもいいのだろうか。
(エレナって小柄だから、落とさないようにしないと)
エレナは現実の私より小柄だ。
そのせいで手足も短い。
……嘘だ。足だけはあまり変わらなかった。
こればかりは美男美女そろいのゲームだから仕方ないと思いたい。
現実の私とは頭身が違うのだ。……悲しいことに。
ともあれ、手が短い以上は人を抱えるのも一苦労だ。
「っと」
私は少年の膝に手を回し、お姫様抱っこの体勢で持ち上げる。
そのままの流れで私は――扉をすり抜けた。
「…………これは驚いたな」
私を出迎えたのは、リュートのそんな言葉だった。
戦いの中でさえ優雅に微笑んでいた彼が、困惑混じりの表情を浮かべている。
「まさか、女神のイタズラを使って扉をすり抜けるとは」
「女神のイタズラ?」
私は首をかしげる。
女神のイタズラ。
そんな単語は聖魔のオラトリオに出てこなかった。
「くく……それが何かも知らずに使っていたのか? 面白い奴だな」
私が言葉の意味を理解できていないことに気付いたのだろう。
リュートが笑いをこぼした。
「さっきエレナちゃんがやったようなあらゆる理論で説明がつかない現象を、女神のイタズラって言うんですよ」
リュートの背からひょっこりと顔を出したリリがそう補足する。
どうやら魔王しか知らないような秘密の知識というわけではなかったらしい。
「魔術ではない、それでいて物理法則にも従わない神秘。偶発的な奇跡とされるそれを、まさか狙って行使するとはな」
「あはは……」
(バグって、この世界だとそういう感じに解釈されてるのね)
思えば当然か。
この世界はずっと昔から存在していて、その間に多くの人が生死を繰り返している。
ならば、偶然にもバグを発生させてしまった人間だっていたはず。
再現性もなく、理解も及ばない。
人がそんなものに出会ったとき、それを女神のせいにしたのだろう。
これはきっと、女神が起こした神秘的な現象なのだと。
もっとも、
「お姉ちゃんっ」
そんなことを考えていると、腕の中で少年が身をよじった。
彼は私の手を抜け出すと、一目散にセラへと向かって走り出す。
「アルっ!」
そんな彼をセラは抱き留めた。
「うぅ……良かったです」
再会を喜ぶ姉弟。
それを見て、リリは目元を拭っている。
そういえば、彼女はわりと涙もろいキャラだったか。
「え、ええ……」
(ずっといじめてきたはずの相手なのに、こんなに喜べるのね)
人の幸せを喜び、人の不幸せを悲しめる。
彼女がセラから受けていた仕打ちを思えば、もっと不満を見せてもいいだろうに。
作中で知っていたことだが、改めて彼女が生粋の善人であると感じる。
「あの……」
弟が助かり、その再会の喜びを分かち合った。
そうして少し落ち着いたのか、セラが気まずそうに声を漏らす。
彼女は立ち上がると、私たちの前に歩を進める。
「……ありがとう……ございました」
そして、彼女は頭を下げた。
さすがメイドというべきか、その所作は整っている。
リリを見下し、嫌がらせをしていたとしても。
彼女は普通に仕事をこなし、普通に家族を愛する。
そんな人物だったのだろう。
「恩返しというか……罪滅ぼしというか……」
躊躇いがちに目を泳がせるセラ。
リリを虐げてきた自覚はあるのだろう。
その表情には罪悪感がにじんでいた。
「私にできることがあったら、なんでも言ってください」
そう言って、彼女はもう一度深々と頭を下げた。
リリは思わぬ展開にあたふたとしているが、あえて放置しておく。
彼女に謝罪を受ける権利があるのは明白なのだから。
(これで、少しはすごしやすくなるかしら)
リリに絡んでいた時の様子を思い返す限り、セラはメイドの中でもそれなりに影響力を持っているのだろう。
そんな彼女が完全に味方についた以上、連動して味方になってくれるメイドも増えてくるはず。
これまでの、まわりにいるすべてが敵という状態からは脱することができそうだ。
「まさか1日で、オレの想定を越えた結果を見せてくれるとはな」
彼女たちのやり取りを見て、リュートが笑みをこぼす。
「最初は面白いサンプルといった認識だったが、お前自身にも興味がわいてきたな」
彼の視線が私へと向く。
その目にこもっているのは興味の色。
彼の目には自分が映っていて、興味を向けられている。
その事実になんとなく喜びを覚えてしまうのは、彼の王たる風格ゆえだろうか。
「ともかく、これで当面の問題は解決か」
そう口にするリュート。
「あとは今回の件の顛末をどうするかだな」
しかし、これですべてが終わるわけではない。
メリッサは逃亡しているが、リュートが部下を動員すればすぐに捕縛されることだろう。
問題はその後。
事件の関係者となってしまった者たちの処遇がどうなるのか。
今はただ沙汰を待つことしかできなかった。