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第70話 5月4日⑤

 ボートの船着場は葦の原の中程にあった。薄暗闇の中、ぽうぽうと儚げな光が点滅し、一筋の明かりの線を残して飛び去った。


「わぁ、佐々木さん蛍です!」

「本当だ、蛍だ珍しいね」

「はい!」

「ボートに乗って良かったでしょ?」

「・・・はい、まぁ。蛍も見られましたから」

「またまたぁ、俺と一緒で楽しかったでしょ?」


 佐々木隆二は、満面の笑みで小鳥の顔を覗き込んだ。


「・・・はぁ」

「それとも、田中先輩と一緒に居たかった?」

「そっ、それは嫌です!」

「じゃあ、その先輩から助けたのは誰かなぁ?」

「そっ、それは」

「誰かなぁ?」

「佐々木さんです」


 ボートは鈍い音を立ててその動きを止めた。先に船着場に上がった佐々木隆二が小鳥へと手を差し出した。初めは戸惑った小鳥だったが、思い切ってその手のひらを握った。


(・・・嫌じゃ、ない)


 意外な事に、触れた肌の感触は悪いものではなかった。


「はい!よいしょ!」

「・・・・あっ」


 その時、白いボートが揺らいだ。係留するロープに足を取られた小鳥は、佐々木隆二に身を預ける形となった。


「おっとっと」

「ご、ごめんなさい!」


 触れた佐々木隆二の胸板は逞しく、包み込む様に小鳥を支えた。


(あれ?)


 ところが、佐々木隆二は平然を装いつつも緊張しているらしく、心臓の鼓動は早鐘のように波打っていた。


「ご、ごめん」


 その情熱的に脈打つ血潮を耳にした小鳥の顔は、真っ赤に色付いた。


「いえ、ありがとうございます」


 向かい合った2人がなんとなく気不味い面持ちをしていると、遠くから佐々木隆二を呼ぶ声がした。読書サークルの先輩が、「花火をするから取りに来い」と手招きをしていた。


「先輩呼んでるわ。俺、花火貰って来る」

「はい」

「小鳥ちゃん、好きな花火ってある?」

「じゃあ、線香花火をお願いします」

「線香花火ね、OK、ちょっと待ってて」


(あ)


 佐々木隆二が踵を返したその先に、の姿があった。拓真は、一緒にクーラーボックスを運んでいた女子大学生と地面にしゃがみ込んで花火に興じていた。それはいつもの蕩(とろ)ける様な笑顔で、小鳥の胸は痛んだ。


(あれ?あの女性ひと


 光の華に浮かび上がるストレートの黒髪。肩甲骨までの長いワンレングスを指で掻き上げるその面差しに、小鳥は釘付けになった。


(あれは・・・田辺、田辺明美だ)


 それは、2022年ののアパートの玄関先で出会(でくわ)した女性で、とも同様に、男女の交際関係にあった人物だった。


「小鳥ちゃん、お待たせ」

「ありがとうございます」


 佐々木隆二が蝋燭(ろうそく)と線香花火を手に戻って来た。そこで、小鳥の視線が一点に向けられている事に気付き、不可思議な顔をした。


「どうしたの?」

「あの人」

「どの人?」

「佐々木さんのお友だちと一緒に花火をしている人は、田辺明美さんですか?」

「あれ?小鳥ちゃん、明美先輩の事、知ってるの?」


 小鳥の面持ちは険しかった。


「はい、1度お会いした事があって」

「そうなんだ」

「はい」

「声、掛ければ良いのに」

「いえ、私がお見掛けした事があるだけなので、やめておきます」

「そっか」

「はい」


 小鳥に向き直った佐々木隆二は、足元に転がっていた石を積み上げ、蝋燭(ろうそく)の炎が消えてしまわない様に囲いを作った。そしてしゃがみ込むと花火を火に翳(かざ)した。


「佐々木さん」

「なに?」

「そのヒラヒラした紙は取って火を付けるんですよ」

「え、そうなの!?」

「私のお祖母ばあちゃんが言っていました、湿気(しけ)らない様に付けてあるんだそうです」

「へぇ、物知りだね」


 小鳥と佐々木隆二は並んでヒラヒラした”花びら紙”を指先で捻(ひね)って外した。1本、2本と花火が2人を照らし出した。


「綺麗ですね」

「うん」


 最後の5本は線香花火だった。


「小鳥ちゃんが3本ね」

「良いんですか?」

「大サービス」

「ふふふ」


パチパチパチパチ


 二人の指先には線香花火が牡丹(ぼたん)の花を咲かせていた。煙が少しばかり目に沁(し)みる。そこで佐々木隆二が小鳥を凝視した。


「ねぇ、小鳥ちゃん」

「はい」

「俺さ」

「はい」

「俺、小鳥ちゃんと、どこかで会った様な気がするんだ」

「・・・え?」


 心臓が跳ねた。


「どこで会ったかははっきりと覚えていないんだけど、なんとなくそんな気がする」

「そ、そうですか」

「小鳥ちゃんは・・・・俺と会った事ない?覚えてない?」


 小鳥はこの場所が暗がりで良かったと安堵した。もしこれが明るい場所であったとしたら、小鳥と佐々木隆二が、なんらかの形で知り合いだった事が、いとも容易く露呈(ろてい)していた事だろう。


「ちょっと、私は覚えがないです」

「高等学校とか、中学校とか同じだったりする?」

「高等学校は女子校でした。中学校は南中学です」

「南かぁ、じゃあ違うね・・・でも、絶対、どこかで会ってると思うんだけどな」

「はぁ」


 小鳥と佐々木隆二は”メビウスの輪”の世界で何度も出会っている。佐々木隆二が、小鳥に懐かしさを感じてもなんら不思議はなかった。


「小鳥ちゃん」


 花火はやがて松葉の眩い光となってちり菊の様に萎(しぼ)んでいった。


「はい」

「今度、動物園か遊園地に行こうよ」

「動物園、2人でですか?」

「そうだよ、誰と行くつもりなの」

「それはデートですか?」

「ははは、そうだね。そうとも言うね」


 3本目の線香花火の明かりに、佐々木隆二の照れ臭そうな笑顔が浮かび上がった。


「俺と付き合ってくれないかな」

「付き合う」

「俺、自分で言うのもナンだけど、お勧め物件よ?」

「お勧め物件ですか」

「そ、お勧め」


 無邪気な笑顔が眩しい。


「じゃあ、お友だちからなら良いですよ」

「友だちかぁ」

「はい、お友だちからです」

「分かったよ。なら、デートの場所と待ち合わせの時間はLIMEで決めようよ」

「デート」

「なに、不満でもある?」

「なんでもありません」


 小鳥は夜の闇の中、作り笑いでそう答えた。佐々木隆二の肩の向こう側に、と田辺明美の楽しげな姿があった。


 (・・・・拓真)


 線香花火は蕾(つぼみ)となって、砂利の上にホロリと落ちた。

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