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第69話 5月4日④

 差し出されたクッキーの箱に驚いた小鳥がふり仰ぐと、そこには佐々木隆二が立っていた。太陽の逆光の中、小鳥と田中吾郎を見下ろすその面持ちは決して機嫌の良いものでは無かった。


「はい、先輩。クッキー食べませんか?」

「なんだよ」

「アルコールにはラーメンか甘い物でしょう?」

「そんな話は聞いた事ないぞ」

「血糖値、下がってますよ。はい、どうぞ」


 佐々木隆二はクッキーの箱を田中吾郎の頬に当てると、グイグイと押しやった。その顔は醜く歪んだ。


「やっ、やめろよ!」

「田中先輩も、いい加減やめたらどうですか?」

「なにがだ!」

「その手、セクシャルハラスメントじゃないですか?」


 佐々木隆二は田中吾郎の手首を掴むと軽く捻(ねじ)り上げ、それは痛みで眉を顰(しか)めた。


「おっ、おい!いてて、佐々木!痛い!痛い!」


 田中吾郎はその手を振り解こうと、木製のベンチから立ち上がった。その面持ちは怒りや不満に満ちていた。


「痛いんだよ!離せよ!」

「はい、どうぞ」


 そう言って手を離すと、田中吾郎は身体の均衡(きんこう)を崩し、そのまま芝生へと倒れ込んでしまった。尻餅を付いた田中吾郎は、「なにをするんだ!」と佐々木隆二を睨みつけた。


「なにって、先輩が離せって言ったじゃないですか」

「馬鹿か!そんな意味で言ったんじゃない!」

「そうっすか、失礼しました」

「チッ」


 小鳥は唖然とその遣り取りを見ていたが、田中吾郎は佐々木隆二を一瞥(いちべつ)すると、ブツブツと文句を言いながら空いたプラスティックのカップを持ってその場から立ち去った。


「あの・・・」


 佐々木隆二は、小鳥に爽やかな笑顔で「小鳥ちゃん、ちょっと待ってて」とだけ告げ、バーベキューコンロへと早足で向かった。


(佐々木さん、相変わらず動きがスマートだわ)


 そして、バーベキューコンロの周りを取り囲む女子大学生たちと談笑し、何やら受け取っている。目を凝らして見てみると、右手には紙皿、左手にはプラスティックのコップを持ち、中身を溢さない様にゆっくりと歩いて来た。


「小鳥ちゃんお待たせ」

「ありがとうございます」


 手渡されたプラスティックのコップでは烏龍茶が汗をかき、指先に心地良い冷たさを感じた。


「はい、どうぞ」

「あっ、冷たっ!」

「気持ち良いでしょ?」

「はい。冷たくて気持ちが良いです」


 紙皿には、香ばしく焼き目が付いた牛カルビ肉が山と盛られ、甘い玉ねぎ、赤や黄色のパプリカが添えられていた。


「小鳥ちゃん、昼からなにも食べてないよね」

「はい、お腹が空きました」


 そうだ。小鳥は下心満載の田中吾郎に引き留められ、キャンプ場に来てからなにも口にしていなかった。佐々木隆二は箸を割って手渡し微笑んだ。


「見ていたんですか?」

「うん、嫌な奴に捕まっちゃってるなぁって、気になってたんだ」

「嫌な奴?」

「田中先輩、悪い人じゃないんだけど、女癖が悪くてさ」

「そうなんですか」


 確かに、田中吾郎は”メビウスの輪”の向こう側の世界でも小鳥に纏(まと)わり付き、頭を悩ませた。


「ちょっと酔っ払っていたから、許してやってよ」

「・・・わかりました」

「さぁ、冷めないうちに召し上がれ」

「いただきます」

「はい、どうぞ」


モグモグ


「美味しそうに食べるね」

「ふぁい、おいひぃです」

「熱くない?」


ゴクン


「はい、大丈夫です」


 膝(ひざ)で頬杖を突いていた佐々木隆二が、小鳥の顔を覗き込んだ。


「ねぇ、小鳥ちゃん」

「ふぁい?」

「あのさ」


ゴクン


 小鳥はパプリカを咀嚼(そしゃく)しながら顔を上げた。そこには携帯電話を持った佐々木隆二が笑っていた。


「連絡先交換しない?」

「連絡先、ですか?私と、ですか?」


 小鳥が、思わず咽(むせ)そうになるのを堪(こら)えながら携帯電話を取り出すと、佐々木隆二は画面を振りながら低い声で囁いた。


「なんだかピピっと来ちゃったんだ」

「ピピっ、とですか?」

「そう、小鳥ちゃんを初めて見た時、ピピっと来たんだ」

「ピピっ、と」

「だから電話番号教えてよ、LIME交換しよ?」

「だからって」

「ピピっと来たんだ!だから教えて?ね?」


 上目遣いで仔犬のように甘える佐々木隆二の仕草に、小鳥は失笑しながら携帯電話番号を読み上げた。


「090ー○87○ー55○○」

「分かった、ありがと!ちょっと待ってて」


 佐々木隆二は、意気揚々と小鳥の携帯電話番号を画面に打ち込み発信ボタンを押した。軽やかな着信音が、小鳥の手のひらの中で鳴った。


「早く!早く!」

「ちょっと待っていて下さい」

「早く!早く!」


 それはやはり戯(じゃ)れ付く大型犬、ゴールデンレトリーバーの仔犬の様で可愛らしかった。然し乍ら、これまで付き合いのあった佐々木隆二は20代後半の落ち着いた男性で、19歳の彼は余りにも無邪気で忙しなく、その落差に小鳥は正直、面くらった。


「はい!登録完了っと!」

「ありがとうございます」

「小鳥ちゃん、これから宜しくね」

「は、はい?宜しくお願いします」


 眩しい日差しの中、LIMEの画面を見る、嬉々とした横顔。


(佐々木さんって、こんな顔をしていたんだ)


 これまでの小鳥は、佐々木隆二を拓真の脇役としか認知しておらず、朧(おぼろ)げな輪郭しか目に入っていなかった。しかし、その面差しをまじまじと見れば、女子大学生たちを虜(とりこ)にするだけあり、涼しげな目元と程良い厚さの唇は魅力的で、上背の高さや体格の良さはひときわ目を惹いた。


「小鳥ちゃん」

「はい?」


 佐々木隆二は、小鳥の紙皿が空になっている事を確認し、「おかわりはいる?」と尋ねた。小鳥が、「いいえ、もう」と返事をすると大きな手のひらが小鳥の目の前に差し出された。


「・・・なんですか?」

「はい!」

「はい?」

「はい!」

「・・・もしかして、手を、握れと?」

「そう!」

「えっ、えっ、えっ、恥ずかしいです!」

「なに、彼氏の1人や2人、付き合った事あるでしょ?」

「ありません!」


 そうなのだ。2015年の19歳の小鳥は、ボーイフレンドは居らず、恋人など以ての外(もってのほか)、と言う設定だ。


「・・・え、ないの?」


 佐々木隆二の動きが止まり、その隣で小鳥は使用済みの紙皿やプラスティックのコップを片付け始めた。


「男と付き合った事ないの?」

「はい!いけませんか!?」

「別に問題は無いけれど」


 少し拗ねた面持ちの小鳥は、尻の埃を払うと木製のベンチから立ち上がった。焦った佐々木隆二は小鳥の背中を追った。


「ごめんごめん!揶揄(からか)うつもりは無かったんだよ!」

「良いです、別に本当の事ですから!」

「ごめん、ごめん」


 小鳥が淡々と紙皿を燃えるごみ、プラスティックのカップを資源ごみの袋にガサガサと捨てていると、「困ったな」といった表情の佐々木隆二はある提案をした。


「小鳥ちゃん」

「なんですか」

「ボートに乗らない?」

「ボートですか」


 佐々木隆二が指差す先にはボート置き場があり、暇そうな係員の男性がパイプ椅子で大欠伸(おおあくび)をしていた。船着場には白い手漕ぎボートが3艘(そう)、湖には2艘(そう)のボートが浮かび、賑やかな笑い声が聞こえて来た。


「ボート、乗った事無いです」

「俺も無いよ」

「怖いです!」

「大丈夫だって、大丈夫、大丈夫!」

「佐々木さんが大丈夫って言っても、なんだか大丈夫じゃなさそうです!」


 佐々木隆二は小鳥の肩からポシェットを奪い取ると高々と持ち、得意げな顔をした。


「ちょっ!佐々木さん!返して下さい!」

「嫌だね」

「嫌だねって!小学生ですか!」

「返して欲しかったらボートに乗ろう?」

「なんでボートなんですか!」


 佐々木隆二は生真面目な顔付きになり、ショルダーバッグを小鳥の首に掛けた。


「そりゃ、小鳥ちゃんと2人でお喋りしたいから」

「おしゃ、べりって!」

「それともここで、「小鳥ちゃんは男の人が苦手ですよ!」って叫んでも良い?」

「恥ずかしいです!や、やめて下さい!」

「じゃあ、ボートね」

「・・・・・ぐっ!」


 気が付けば小鳥はすっかり佐々木隆二のペースに巻き込まれ、白いボートの縁(へり)を跨(また)いでいた。


「なんでこんな事に」

「なんだか不満そうだね」

「そんなっ、不満だなんてそんな事はっ!」

「なに、小鳥ちゃん怖いの?」

「怖いですよ!この下、湖ですよ!水の上ですよ!」

「ボートだから当たり前でしょ」


 巫山戯(ふざけ)た佐々木隆二は、ボートのオールを湖面でばたつかせた。


「や!ちょっ!」


 白いボートの周囲は波立ち、激しく水飛沫が上がった。


「さ、佐々木、佐々木さん!」

「あははは、面白いね!」

「面白く!面白く無いです!」


 湖面に浮かぶ白いボートは木の葉の様にクルクルと回り、佐々木隆二は向日葵の花の様な笑顔で声を出して笑った。その真向かいでは、眉間にシワを寄せた小鳥がボートの縁(へり)に掴まり足を突っ張っていた。


「も、もう、いい大人なのに!なにをしているんですか!」

「大人?俺と小鳥ちゃん、同じ歳じゃない」

「・・・・あっ」

「あっ、じゃないよ、19歳!19歳!」

「そうだった、19歳だったんだ」

「小鳥ちゃん、天然ちゃんだ」

「そんな事無いです!」

「怒っちゃって、かーわいいー」

「可愛くない!」


 佐々木隆二が漕ぐ白いボートが、湖の中心に浮かぶ小島を一周したあたりで岸辺から声が掛かった。いつの間にか、木立(こだち)の中のキャンプ場は薄暗く、空は橙色から濃紺へとグラデーションを描いていた。


「花火だって」

「あぁ、良かった」

「良かった、良かった!」

「良くない!です!」


 すると再び佐々木隆二はボートの傍でオールを振り回し、小鳥は足を突っ張って鼻息を荒くした。

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