クーラーボックスは木製ベンチの上に置かれた。上級生が中心となってバーベキューコンロに炭を敷き詰め、火を熾(おこ)し始めた。
「きゃー、やだ!」
「うわ!臭っ!」
「やだ、もう!」
「顔、顔に付いてるって!」
「ええ、どこ!黒い!?」
「アメフト選手かよ!」
「えええええ」
笑い声が響く午後のキャンプ場。女子大学生は流し台で野菜の皮を剥き、男子大学生はモクモクと燻(くすぶ)る煙に目を細めながら、ステンレスの串に肉の塊や色彩豊かなパプリカとピーマン、とうもろこしを刺し始めた。
ザクザクザク
小鳥は玉ねぎを”くし形切り”にする担当で、無言で何十個もの玉ねぎと格闘していた。そのうちの一個がコンクリートの床に転がり落ち、東屋(あずまや)に上る階段で止まった。
(あ、落ちちゃった)
玉ねぎを拾い上げた小鳥の視線は、東屋(あずまや)の物陰に釘付けになった。
(ここ、だよね)
ここは、2022年の荒々しい口調、
(・・・拓真)
思わず目尻に涙が浮かんだ。その様子に気が付いた、村瀬 結 が小鳥を揶揄(からか)った。
「なに、あんた玉ねぎで泣いてるの!?」
「そんなんじゃないわよ!」
「なに言ってんのよ、うさぎの目よ、真っ赤!」
「え、本当!?」
「玉ねぎ一個で情けないわね!包丁、貸してごらん!」
「あ、うん。ありがとう」
小鳥は石鹸で指先を丁寧に洗い、顔を冷たい水で濯(すす)いだ。それでも涙は溢れて止まらない。この場所は思い出が多過ぎた。
「はーい!玉ねぎお待たせ!」
「結、遅いぞ!」
「うるさいわね!こんなに多いのよ!褒めなさいよ!」
どうやら村瀬 結 は、既に意中の男子大学生と懇意になったようだ。
「小鳥、ねぇ小鳥」
村瀬 結 が小鳥の耳元で、小さく耳打ちをした。
「あんた、誰かいないの?」
「・・・・え」
「あんた本当に、肉食べてそれだけで帰るつもりじゃないでしょうね!?」
「・・・・だって」
小鳥が連絡先を伝え合いたい相手はただ1人、高梨拓真だ。けれどそれは決して声を掛けてはならない存在だった。
「小鳥ちゃん」
そこに田中吾郎が割って入って来た。田中吾郎も見栄えは悪くない。事情を知らない村瀬 結 は「この人でも良いじゃん」と小鳥の背中を叩いた。
「え、だって」
「だってもなにもないわよ!」
「この人の事、知らないし」
「馬鹿ね!知らないから良いんじゃない!えーと」
「あ、田中吾郎です」
「田中先輩!この子の事、よろしくお願いします!」
「ちょっ、ちょっと結!」
「じゃあね!頑張りなさいよ!」
「が、頑張るって・・なにを頑張るのよ」
その場には、にやけた田中吾郎と困惑した面持ちの小鳥が取り残された。小鳥は、「取り敢えず木製のベンチに座らないか」と促され、田中吾郎は冷えたビールが入ったプラスティックのコップを持ち、腰掛けた。
「ねぇ、小鳥ちゃん」
「は、はいっつ!」
「可愛いなぁ、緊張してるの?」
「い、いえ、そんな」
すると小鳥の目の前に、炭酸ガスがパチパチと弾く黄金色の液体、きめ細やかな白い泡が盛り上がったプラスティックのコップが差し出された。
「はい、小鳥ちゃん、どうぞ」
「あっ、わ、私、まだ未成年なんで!」
「未成年!あぁ、そうだった、ごめんごめん」
それは間違えた振りをして酔わせようとする下心が見え見えで、小鳥は酷く嫌悪した。
(・・・ち、近い、近い!)
そして、田中吾郎の距離感は非常に近く、小鳥のパーソナルスペースに遠慮無く踏み込んでいた。荒い鼻息、アルコールを含んだ呼吸を身近に感じた小鳥は震え上がった。
「あ、私、烏龍茶持って来ます」
小鳥は、なにか理由を付けてこの場所から一刻も早く立ち去りたいと思い、腰を上げた。その時、田中吾郎の口から思わぬ言葉が転がり出た。
「小鳥ちゃん」
「は、はい?」
「小鳥ちゃんと僕、前に会った事ないかなぁ」
「・・・え!?」
「小鳥ちゃん、本屋でアルバイトしてた?」
「いえ、してません」
「じゃあ、違うなぁ」
2019年、小鳥が司書として勤務していた図書館に出入りしていた田中吾郎は、小鳥に付き纏(まと)い行為を繰り返した。所謂(いわゆる)ストーカーだ。
(・・・やっぱり”メビウスの輪”は重なっている)
小鳥はほろ酔い気分になった田中吾郎の横顔を凝視した。
(私が、私が居るこの世界は)
その時、小鳥は思った。”メビウスの輪”の世界は、小鳥を中心に限りなく
(拓真は)
(佐々木隆二は)
(村瀬 結 は)
(田中吾郎は)
(拓真の両親は)
(小鳥の両親や祖母は)
(拓真が、
メビウスの輪の帯は時間と空間を180°捻(ひね)った形で、その中心は重なり合っている。
(もしかしたら)
小鳥の浅い眠りと、
「ねぇ、小鳥ちゃん」
小鳥がタイムリープの原理の仮説を立てている間に、田中吾郎は2杯のビールですっかり出来上がり、顔は赤らんでいた。
「ちょっ、えっ!」
理性が危うくなった田中吾郎は、小鳥の手のひらを自身の太腿(ふともも)に導き、嫌(いや)らしく口元を歪めた。それはまるで、キャバレークラブで悪酔いした客のそれに近かった。
「たっ、田中先輩」
「小鳥ちゃん、僕と付き合わない?」
「つ、付き合う?」
「僕、小鳥ちゃんに一目惚れしちゃったんだ」
(同じだ、図書館で田中吾郎が言った
そうするとこの田中吾郎は、今後小鳥に付き纏(まと)い行為をするのかもしれない。背筋が凍った。
「あ、あの」
「ねぇ、良いだろう?」
「それは・・・困り、ます」
「そんな事言わないで」
「せ、先輩」
バーベキューコンロから離れた小鳥たちの座る木製ベンチの周辺には、人の気配が無かった。コンパの参加者たちは、小鳥と田中吾郎が仲睦まじくなったと思い込み、敢えてベンチには近付かなかった。
「や、やめて下さい」
「仲良くしようよ」
「・・・・やっ!」
その時、小鳥と田中吾郎の顔と顔の間に、クッキーの箱が差し出された。
「はい、どうぞ」
小鳥は驚いた顔で振り向いた。