私の名はマリ。ただの村娘。王国の辺境に位置する小さな農村に住んでいる。
今日、私の生まれ故郷である村が湧き立っていた。いや、恐らく国中が歓喜の叫びで溢れ返っているに違いない。
昨晩、薔薇の暴君と呼ばれた国王が死んだ。心臓発作だったらしいが、死因なんてどうでもいい。薔薇の暴君によって王国の民は長年苦しめられ続けていたのだ。誰もが喜びに打ち震えていることだろう。
私も薔薇の暴君の被害者の一人。この村にだって私以外にも被害者は大勢いる。
皆、号泣するくらい歓喜していた。
無理もない。あのようなおぞましい目にあわされたのだ。薔薇の暴君に対する憎しみは、例えこの手で八つ裂きにしても消えることはないだろう。
でも、あの男はもういない。王国に平和が戻ったのだ。
薔薇の暴君を一言で言い表すならば、色欲の権化であろうか。
何故、あの男が薔薇の暴君と呼ばれていたのか。それは常にあの男は薔薇の花を携帯していた。そして、気に入った者を見かければその薔薇を渡し、無理矢理城に連れ帰っていたからだ。
「余は初物以外、好まぬ。故に、余は新たなる法を施行することにした」
これがあの男を薔薇の暴君と言わしめた悪法。
初夜権の行使である。新婚夫婦の初夜は全て薔薇の暴君のものであると、高らかに宣言したのだ。
逆らえば皆殺し。そう脅されては逆らえる者などいるはずもない。
でも、その時の私は、こんな片田舎の村に薔薇の暴君が現れるはずもない。王都や栄えた城塞都市でだけの話だと思っていた。
しかし、薔薇の暴君は、こんな辺鄙な片田舎の村すら目こぼしする気はなかったのだ。
あの日、私の住む農村に百名を超す完全武装の兵士に守られた絢爛豪華な馬車が現れた。兵士の掲げる王国旗を見て、彼らが王国軍であることが一目で分かった。
絢爛豪華な馬車の中から、肥え太った中年の男が現れた。鼻の下には細く長い先が丸まった髭を生やし、煌びやかな衣装を身に纏っていた。そして、その胸には赤い薔薇の花が飾られていたのだ。
その男こそが薔薇の暴君である。この日のことを私は死ぬまで忘れることはないだろう。
薔薇の暴君は村長を呼び出すなりこう命じた。
「結婚予定の者を余の前に集めるのだ。可及的速やかにな」
薔薇の暴君は丸まった髭の先を弄びながらそう言うと、口元から旺盛な涎を垂れ流した。その姿は人間というよりは獲物を前にしたオークのように見えた。実際、薔薇の暴君の風貌は豪華な衣装を剝ぎ取ればただのオークにしか見えないくらいに醜く肥え太っていた。
不運にも、村には五組の結婚予定のカップルがいた。その中に私も含まれていた。
結婚予定の者だけではなく、薔薇の暴君の前に全ての村人たちが集められた。その数は二百名を超え、今年五十歳になる私の父の姿も見えた。
父は顔を蒼白させならが私を見た。恐らく父はこれから起こる悲劇に気づいていたのだろう。
「女達は前に出ろ」という薔薇の暴君の声に従い、私を含めた五名の女性は素直に前に出る。
私達を前に薔薇の暴君は不敵にほくそ笑むと、女どもに薔薇の花を手渡すようにと、後ろに控えていた従者に申し伝える。
そして、私達は暴君の従者から薔薇の花を手渡された。その意味を知らなかった私は、単純に綺麗な薔薇の花だと思った。薔薇の甘い香りが鼻腔をくすぐる。悪夢はその直後に訪れた。
「その薔薇には特殊な魔法が施されている。伴侶となる者の純潔が散った時、その薔薇の花も散るのだ」
薔薇の暴君は呟き、涎を垂らしながらぺろりと舌なめずりする。私はその時、自分の頬を舐められたような悪寒を感じた。
「選べ。我が命に逆らい命を散らすか、初夜権の行使を受け入れ純潔を余に捧げるかを」
その時、私はあまりの混乱状態の為に何を言われているのか理解できなかった。初夜権とは何か? 何故、純潔をこの醜いオークに捧げねばならないのか。目の前で起こった悪夢を受け入れることが出来ず、私は愕然となった。
我に返ったのは、兵士の持つ鋭い槍先が自分達に向けられた時だった。
逆らえば間違いなくこんな小さな村など王国軍によって滅ぼされてしまうだろう。
「無理強いはせぬ。女達よ、一言呟くがいい。捧げる、とな」
学の無い馬鹿な私にも分かる。拒絶すれば間違いなくこの村は滅びる。村人は全員皆殺しにされてしまうだろう。
周りを見回すと、村の男達の顔は絶望に塗れ、女達の顔は悲哀に満ちていた。
「さあ、どうする? 長くは待たぬ。答えを聞かせてもらおうか?」
そして、結婚予定にあった私達は頭を垂れ、同時に呟く。
「王様に捧げます」と。
答えた瞬間、伴侶になる予定だった男達は膝から崩れ落ちた。呻くような鳴き声が周囲に響き渡る。
「そうか、良い心がけだ。なあに、心配せずとも夫達にはすぐに会えるぞ。余は初物以外には興味が湧かぬ。一晩可愛がってやった後、ちゃんと家に帰してやるから安心するがいい」
薔薇の暴君はそう言うと、兵士達に手で合図をする。
こうして私達は愛する夫達と引き剝がされ、死ぬまで忘れられない悪夢を垣間見ることになる。
それから、薔薇の暴君に渡された薔薇の花が一日ごとに一輪ずつ散っていった。
薔薇が散る度に城に連れ去られた者は村に戻ってきた。
全ての薔薇の花が散り、全員が村に戻って来ても、私達は元の生活に戻ることは出来なかった。
あの日のことは決して忘れることは出来ない。だが、あの時のことについて口を開く者もいなかった。皆、忘れたかったのだ。
でも、平和になった今だから私は思う。
「まさか再婚したお父さんにまで初夜権を行使するなんて、薔薇の暴君の守備範囲は広すぎよね?」
あの日、私の村に初夜権を行使するために薔薇の暴君がやって来た。
そして、薔薇の暴君は夫達を城に連れて行ってしまった。
薔薇の暴君が死んで一番に喜んでいたのは王国中の男達だったに違いなかった。
──了。