明け方、まだ祭りの余韻に包まれる夏国の城下町。
人々の喧騒の中、正派、華山派の道士団が街の宿で集まっていた。
先行し、国の様子を探っていた二代弟子の
彼らのもとに、一代弟子にして大弟子の
すでに、先行調査の内容は報告済。
夏国の皇帝を戦場で助けた
魔教の教祖は妖術を得手とする。
敵に対抗するために、
だが、
(なんとなく居づらくなって、外へと出てきてしまった。……私は今、弟弟子に嫉妬しているのだ。いけないな。こういうのは)
長い黒髪をうなじのあたりで一つに結わえ、風になびかせる
と、そのとき。
「あなたも、嫉妬しているのでしょう?」
低く艶やかな女の声が聞こえて、石中流はぎくりとした。
「分かるわ。どれだけ努力しても、あなたの価値を認めてくれない者たちがいるのだから」
周囲には誰もいない。それでも、確かに感じる――心の奥底を這う、闇の存在を。
鬼か、妖魔か。
「
紅顔の美青年、
ひらひらとした袖の白い修行服が、旅路で土埃にまみれ、くたびれている。
師兄とは、同じ師匠に教えを受ける兄弟子のこと。
つまり、
兄弟子、
「
自分を真っすぐに慕ってくれる、子犬のような青年だ。
善意と好意でいっぱいの青年の笑顔に心が救われるような気がして、石中流はかすかな微笑を返した。
「すまない、
――お前は私を慕ってくれているのに、嫉妬してしまって……すまない。
宿の広間は、木製の長椅子とテーブルが並ぶ素朴な造りで、明かり取りのために開け放たれた窓から涼やかな夜風が入ってくる。
壁には地元の風景を描いた絵が掛けられ、中央の大きな卓には蒸し物、炒め物、煮込み料理など、香ばしい匂いを放つ品々が並んでいた。
「
薄皮の中には海老、豚肉、香草がぎっしり詰められており、一口噛むと肉汁があふれる。
「ほう、うまいな」
傍らでは
「
その純粋な心遣いに、
(自分は尊敬され、慕われている。落胆させてはならない。心を闇に落とさぬよう、背筋を正して生きよう)
「
師父とは、師匠の呼び方だ。
正派、華山派は、贅沢をよしとしていない。人の欲を克服し、心身を清らかにして鍛え抜き、寿命を持つ人の身から換骨奪胎して仙人になることを目指す――そんな剣術と道徳の門派である。
(師父は、弟子を平等に気遣い、注意してくださる。私は何を拗ねていたのだ。子供でもあるまいし。全く、自分が恥ずかしい)
「
「師父。それは……誰か別の者と勘違いなさっていませんか? 私はどちらかといえば……」
「
家族のような温かなひとときに、
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
夜が深まり、宿の中も静まり返るころ。
月明かりがぼんやりと障子越しに差し込み、虫の音が遠くに聞こえる。
(私は愚かで、弱い。修行が足りぬ。嫉妬などという感情に惑わされてはならない……)
そう自分に言い聞かせ、目を閉じたそのとき、耳をつんざくような悲鳴が響いた。
「助けて! 誰か――!」
「――何事かっ!?」
悲鳴は廊下の向こうから聞こえる。
駆けつけると、そこには宿の息子が床に倒れ込んでおり、その上に影のような妖魔が覆いかぶさっていた。
「そこまでだ!」
その形相は不気味で、おぞましい。
黒い霧を纏う体が揺らぎ、鋭い爪を振り上げて襲いかかってくる。
「――妖魔め!」
武侠の修行者は、修行の進行具合によって肉体の強度や、内功と呼ばれる気のような力の大きさが違う。
石中流は道剣に気を込め、
剣身がほのかな光を放つ。修行の成果だ――研鑽を積んだ剣士は、剣を単なるナマクラとしてではなく、気を伝わせて魔を祓う清浄な武器として奮うことができるのだ。
「――
妖魔の体が裂け、黒い霧が飛び散る。
妖魔は断末魔の叫びを上げ、黒い霧となって消え去った。
「安心しろ。もう大丈夫だ」
息を切らしながらも、
彼は意識を取り戻し、怯えた表情を浮かべているものの、命に別状はなかった。
「何事か!」
「魔教の襲撃ですか?」
異変を察知し、仲間たちが駆けてくる。
冷たい風が吹き抜け、提灯の灯りが揺れる中、りん、りん、と鈴が鳴る。
「妖魔は退治したが、他にもいるのか?」
「我が恨み……未練……眠ろうとしていたのに……消えようとしていたのに……許してくれないの……」
白い霧のような影が現れ、それがやがて人の形を成す。
女性の姿――怨霊、幽鬼と呼ばれるものだ。
「構えるのだ! 退治するぞ!」
しかし、華山派の道士たちが切り込む前に、幽鬼は薄く霧散し、不気味な声を響かせた。
「……恨めしい、恨めしい。ああ、恐ろしいこと……これだから、男は……この国を守る者に……上に立つ者こそ……真の悪であると……教えてあげる……知ってほしいの……ああっ……
意味がわからない。
そうとしか言いようのない断片的な言葉を残し、幽鬼は消えた。
「……」
その場に沈黙が落ちる。
やがて、
「
『国主として国のために自分という存在を割り切り、若者らしい心を殺しているのだな』
若いのに私心を押さえて公人として振る舞う
だが、いつの時代も君主は女の色香に惑わされて堕落してしまうものらしい。
残念だ――その場に、なんともいえない空気が漂った。
『夏国は良い状態のようです』と先行の調査結果を知らせただけに、
お前の目は節穴か、という失望を湛えた
「人物像を見誤るでない。表面だけではなく、深い部分を見て判断せよ」
「はっ。申し訳ございません、師父!」
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
一方、城内では華山派の道士たちに噂される皇帝、
「妃の寝顔を脳裏に描けば、酒の美味さも増すというもの」
銀色の杯を傾けながら、彼は静かに笑った。
実はその夜、滄月はある本を手にしていた。
「
読めば読むほど、興味深い。自分は無知であった。
もっと言うなら、下手だった。
だが、「読めば……わかります……」と言って本を押し付けてきた。
何事かと思ったものだが、今ならわかる。
この本を用意し、渡す
「妃には申し訳ないことをしていた……」
皇帝の心には、妃への無体を申し訳なく思う情が湧いていた。
「実践はまたの機会だ」
彼の視線は月へと向かった。
静かに輝く天体を眺めながら、滄月はその夜の平和に感謝しつつ、心の奥底で不穏な気配を覚えた――まるで、嵐の前の静けさのように。