目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

20、華山派と幽鬼

 明け方、まだ祭りの余韻に包まれる夏国の城下町。

 人々の喧騒の中、正派、華山派の道士団が街の宿で集まっていた。

 先行し、国の様子を探っていた二代弟子のせき中流ちゅうりゅうと、弟弟子の洛星児らくせいじ

 彼らのもとに、一代弟子にして大弟子のりゅう剣鋒けんほうが合流したのだ。

 すでに、先行調査の内容は報告済。


 夏国の皇帝を戦場で助けたりゅう剣鋒けんほうは、剣術の頂点に立つ武人である。しかし、先の戦では敵対する邪派の首魁である魔教の教祖に後れを取り、悔しがっている。

 魔教の教祖は妖術を得手とする。

 敵に対抗するために、りゅう剣鋒けんほうは剣技をさらに磨こうと洛星児らくせいじを指名して、二人で手合わせをしている。

 洛星児らくせいじは、せき中流ちゅうりゅうの弟弟子だ。

 だが、せき中流ちゅうりゅうよりも剣術の才がある。そして、年若い……。


(なんとなく居づらくなって、外へと出てきてしまった。……私は今、弟弟子に嫉妬しているのだ。いけないな。こういうのは)


 長い黒髪をうなじのあたりで一つに結わえ、風になびかせるせき中流ちゅうりゅうは、胸中に暗い囁きが渦巻いていることを自覚し、自分の心を宥めようとした。

 と、そのとき。


「あなたも、嫉妬しているのでしょう?」


 低く艶やかな女の声が聞こえて、石中流はぎくりとした。


「分かるわ。どれだけ努力しても、あなたの価値を認めてくれない者たちがいるのだから」


 せき中流ちゅうりゅうは眉を寄せた。

 周囲には誰もいない。それでも、確かに感じる――心の奥底を這う、闇の存在を。


 鬼か、妖魔か。

 せき中流ちゅうりゅうが警戒して腰の道剣に手をかけたとき、宿のドアが開いた。


師兄しけい!」


 紅顔の美青年、洛星児らくせいじだ。

 ひらひらとした袖の白い修行服が、旅路で土埃にまみれ、くたびれている。


 師兄とは、同じ師匠に教えを受ける兄弟子のこと。

 つまり、せき中流ちゅうりゅうを呼んでいる。

 兄弟子、せき中流ちゅうりゅうが自分に対する嫉妬を抱えているとは、つゆほども思わぬ能天気な様子で。


師兄しけい、いつの間にかいらっしゃらないので、心配しました。皆で夕餉をいただきましょう!」


 自分を真っすぐに慕ってくれる、子犬のような青年だ。

 善意と好意でいっぱいの青年の笑顔に心が救われるような気がして、石中流はかすかな微笑を返した。


「すまない、洛星児らくせいじ


 ――お前は私を慕ってくれているのに、嫉妬してしまって……すまない。


 宿の広間は、木製の長椅子とテーブルが並ぶ素朴な造りで、明かり取りのために開け放たれた窓から涼やかな夜風が入ってくる。

 壁には地元の風景を描いた絵が掛けられ、中央の大きな卓には蒸し物、炒め物、煮込み料理など、香ばしい匂いを放つ品々が並んでいた。


師兄しけい、これを召し上がってください! この宿の名物らしいですよ!」


 洛星児らくせいじが皿を持ち上げて勧めたのは、香り高い五目蒸し餃子だ。

 薄皮の中には海老、豚肉、香草がぎっしり詰められており、一口噛むと肉汁があふれる。


「ほう、うまいな」


 石中流せきちゅうりゅうが頷くと、洛星児らくせいじは嬉しそうに笑った。

 傍らでは美髯びぜん柳剣鋒りゅうけんほうが無言で酒杯を傾け、悠然と鶏肉と椎茸の炒め物に箸を伸ばしている。


師兄しけい、これもいかがですか?」


 洛星児らくせいじはさらに酢豚や辛味の効いた麻婆豆腐を皿に取り分けてくれる。

 その純粋な心遣いに、石中流せきちゅうりゅうはどんどん胸の内が軽くなるのを感じた。


(自分は尊敬され、慕われている。落胆させてはならない。心を闇に落とさぬよう、背筋を正して生きよう)


洛星児らくせいじ石中流せきちゅうりゅう。食べ過ぎるな。明日も動きが鈍らぬようにしておけ」


 柳剣鋒りゅうけんほうが低い声で釘を刺すと、洛星児は「はい、師父しふ!」と元気よく返事をした。

 師父とは、師匠の呼び方だ。

 正派、華山派は、贅沢をよしとしていない。人の欲を克服し、心身を清らかにして鍛え抜き、寿命を持つ人の身から換骨奪胎して仙人になることを目指す――そんな剣術と道徳の門派である。

 柳剣鋒りゅうけんほうはその教えに忠実で、次期道門(派閥の長)に目されているほど優秀な男だ。彼の眼光は、厳しくも優しい――立派な人物なのだ。


 石中流せきちゅうりゅうはそっと目を伏せた。


(師父は、弟子を平等に気遣い、注意してくださる。私は何を拗ねていたのだ。子供でもあるまいし。全く、自分が恥ずかしい)


石中流せきちゅうりゅう、腹でも痛いのか。変な顔をしている。お前はせっかちなところがあって、食べ物をよく咀嚼しないで呑み込んで腹を痛めることが多いからな」

「師父。それは……誰か別の者と勘違いなさっていませんか? 私はどちらかといえば……」

師兄しけいの子供のころのお話ですって? わあ、わあ。もっと教えてください!」


 家族のような温かなひとときに、石中流せきちゅうりゅうは心を癒され、笑みを浮かべた。


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 夜が深まり、宿の中も静まり返るころ。

 月明かりがぼんやりと障子越しに差し込み、虫の音が遠くに聞こえる。

 石中流せきちゅうりゅうは自室の床に敷かれた布団に横たわりながら、昼間の自分の心の弱さを思い返していた。


(私は愚かで、弱い。修行が足りぬ。嫉妬などという感情に惑わされてはならない……)


 そう自分に言い聞かせ、目を閉じたそのとき、耳をつんざくような悲鳴が響いた。


「助けて! 誰か――!」


「――何事かっ!?」


 石中流せきちゅうりゅうは瞬時に飛び起き、道剣を掴んで部屋を飛び出した。

 悲鳴は廊下の向こうから聞こえる。

 駆けつけると、そこには宿の息子が床に倒れ込んでおり、その上に影のような妖魔が覆いかぶさっていた。


「そこまでだ!」


 石中流せきちゅうりゅうが一喝すると、妖魔がギラリと赤い目を光らせて振り向いた。

 その形相は不気味で、おぞましい。

 黒い霧を纏う体が揺らぎ、鋭い爪を振り上げて襲いかかってくる。常人じょうじんであれば、すくみあがってなにもできずに殺されてしまう局面だ。だが、石中流せきちゅうりゅうは常人ではない。


「――妖魔め!」


 石中流せきちゅうりゅうは冷静に剣を構えた。


 武侠の修行者は、修行の進行具合によって肉体の強度や、内功と呼ばれる気のような力の大きさが違う。

 石中流は道剣に気を込め、内功ないこうを流し込んだ。

 剣身がほのかな光を放つ。修行の成果だ――研鑽を積んだ剣士は、剣を単なるナマクラとしてではなく、気を伝わせて魔を祓う清浄な武器として奮うことができるのだ。


「――ッ!」


 石中流せきちゅうりゅうは妖魔の爪を受け流し、逆袈裟に斬り上げて反撃した。

 妖魔の体が裂け、黒い霧が飛び散る。

 妖魔は断末魔の叫びを上げ、黒い霧となって消え去った。


「安心しろ。もう大丈夫だ」


 息を切らしながらも、石中流せきちゅうりゅうは宿の息子の安否を確かめた。

 彼は意識を取り戻し、怯えた表情を浮かべているものの、命に別状はなかった。


「何事か!」

「魔教の襲撃ですか?」


 異変を察知し、仲間たちが駆けてくる。


 冷たい風が吹き抜け、提灯の灯りが揺れる中、りん、りん、と鈴が鳴る。


 石中流せきちゅうりゅう師父しふ柳剣鋒りゅうけんほうが持っている、魔性のものに反応する清い鈴だ。


「妖魔は退治したが、他にもいるのか?」


 石中流せきちゅうりゅうが警戒を高めていると、夕食前に聞いた女の声が再び聞こえた。


「我が恨み……未練……眠ろうとしていたのに……消えようとしていたのに……許してくれないの……」


 白い霧のような影が現れ、それがやがて人の形を成す。

 女性の姿――怨霊、幽鬼と呼ばれるものだ。


 師父しふ柳剣鋒りゅうけんほうが鋭く声を上げた。


「構えるのだ!  退治するぞ!」


 しかし、華山派の道士たちが切り込む前に、幽鬼は薄く霧散し、不気味な声を響かせた。


「……恨めしい、恨めしい。ああ、恐ろしいこと……これだから、男は……この国を守る者に……上に立つ者こそ……真の悪であると……教えてあげる……知ってほしいの……ああっ……華凛かりんお姉様……」


 意味がわからない。

 そうとしか言いようのない断片的な言葉を残し、幽鬼は消えた。


「……」


 その場に沈黙が落ちる。


 やがて、師父しふ柳剣鋒りゅうけんほうは、鳴り止んだ鈴を撫でながら見解を話した。


華凛かりんというのは、この国の妃の名ではなかったか。この国の皇帝陛下とは戦場にて共闘したことがあるが、思えば『自分が死んでも構わない』というような若者らしい情に欠ける気配もあったように思う。もし彼の妃が悪妻で、たぶらかされてしまっているなら……」


 柳剣鋒りゅうけんほうの険しい表情を見ながら、石中流せきちゅうりゅうは戦場で師が語った皇帝の人物像を思い出した。


 『国主として国のために自分という存在を割り切り、若者らしい心を殺しているのだな』


 若いのに私心を押さえて公人として振る舞う滄月そうげつ帝のことは、華山派の武人たちは好ましく思っていた。

 だが、いつの時代も君主は女の色香に惑わされて堕落してしまうものらしい。

 残念だ――その場に、なんともいえない空気が漂った。


 『夏国は良い状態のようです』と先行の調査結果を知らせただけに、石中流せきちゅうりゅうは気まずくてならない。

 お前の目は節穴か、という失望を湛えた柳剣鋒りゅうけんほうの視線が辛い。


「人物像を見誤るでない。表面だけではなく、深い部分を見て判断せよ」

「はっ。申し訳ございません、師父!」


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 一方、城内では華山派の道士たちに噂される皇帝、滄月そうげつが、独り、月見酒を嗜んでいた。


「妃の寝顔を脳裏に描けば、酒の美味さも増すというもの」


 銀色の杯を傾けながら、彼は静かに笑った。


 実はその夜、滄月はある本を手にしていた。

 「閨事ねやごとの秘術」という、舅である孫静風そんせいふうから贈られた指南書である。


 読めば読むほど、興味深い。自分は無知であった。

 もっと言うなら、下手だった。


 孫静風そんせいふうは気を使って直截ちょくさいな言葉は使わなかった。

 だが、「読めば……わかります……」と言って本を押し付けてきた。

 何事かと思ったものだが、今ならわかる。

 この本を用意し、渡す孫静風そんせいふうは、心中おそらくは滄月そうげつが相談した際に打ち明けた「俺はこんな風に抱いた」という説明に「このままではいけない」と思ったのではないか。


「妃には申し訳ないことをしていた……」


 皇帝の心には、妃への無体を申し訳なく思う情が湧いていた。


「実践はまたの機会だ」


 彼の視線は月へと向かった。

 静かに輝く天体を眺めながら、滄月はその夜の平和に感謝しつつ、心の奥底で不穏な気配を覚えた――まるで、嵐の前の静けさのように。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?