(まぁ……そりゃそうか)
三時間かけてもうんともすんとも言わなかったのに、いきなりなんの苦労もなく見れるようになったのだ。教えた身としては面白いはずがない。
「今日はゆっくり休みなさい。明日からは、気の扱い方を教えるから」
「はい。あの、すみません」
「何がよ」
「いや、その……あんなに時間をかけて教えてくれたのに全然駄目で、そのくせ、あっさり見えるようになったから……」
「馬鹿ね」
「えっ!?」
たった三文字で罵倒されてしまった。
言葉足らずで謝罪にすらなっていないから、逆に腹立たしいのかもしれない。
一瞬そう思ったけど、目の前にいる花鶯さんの表情に怒りはなかった。
「あんたが謝ることなんて、何もないでしょ」
「でも……」
「私の教え方では至らなかったのは、私の問題よ。変に気負いされても逆に困るから、そんな駄々っ子みたいな顔しないでちょうだい」
「え? 僕……そんな酷い顔してるんですか?」
間違っても女の子に向ける顔ではない。ちょっとこの場から消えたくなった。
「とにかく!」
僕の情けない顔を
そういうわけで、僕の耳と心臓がダメージを食らった。せっかく粉砕してもらったのに、別の意味で情けない顔になっていそうだ。
「よくやったわ。これからも巫女として、しっかり励みなさい」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
数秒ほど置いて、
「――はい! ありがとうございます!」
「あと、万が一にも、蛍に邪な感情を抱いたりしたら承知しないから」
「え?」
「か、かかか花鶯さん!? 何を言って」
蛍ちゃんが顔を真っ赤にして、おろおろと
僕も見た目だけなら女の子のはずだけど、周りの目にはどう映ってるんだろう。可愛くても中身が男だから、やっぱり情けないだけだろうか。
「あんたもあんたもよ、蛍。そんな無防備でいたら、変な勘違いされても仕方ないんだから。ちょっとは警戒しなさい」
(……もしかして、それで睨まれてたのか?)
蛍ちゃんの愛らしさに癒される僕の有り様は、傍から見たら変質者そのものだったのかもしれない。
ちょっと複雑な気持ちになりかけたところで、蛍ちゃんが「それなら大丈夫です!」とやけに弾むような声を上げた。
「葉月くんの好きな人は、桜さんですから!」
「えっ?」
思わず、蛍ちゃんの顔を見た。喜びが
小動物のような女の子は、そこにいなかった。
「桜さんを見ている時の葉月くん、桜餅の味がするんです! すっごく甘くて柔らかくて美味しいんです! だから間違いありません!!」
「あの……蛍ちゃん?」
「……そう。あんたが言うならそうでしょうね」
「え……えっ?」
「少し、外の空気を吸ってくるわ」
怒る気も失せたと言わんばかりに、花鶯さんが小さく溜め息をつく。それから、その言葉通りに部屋を出ていった。
部屋の中が、しんと静まった。
「………………」
「葉月くん?」
「……ごめん、僕もちょっと頭冷やしてくる」
「え、あ、葉月くん!?」
蛍ちゃんから逃げるように、僕は部屋を早足で飛び出していった。
廊下に出ると、
雲の
『桜さんを見ている時の葉月くん、桜餅の味がするんです! すっごく甘くて柔らかくて美味しいんです! だから間違いありません!!』
『葉月くんの好きな人は、桜さんですから!』
(う……うわああああああ!!)
顔を両手で覆い、その場にうずくまった。
夜風で少しは頭を冷やせるだろうと思ったのに、全く意味を成していない。指の隙間から熱が漏れているのではないかと思うほどに、顔も、頭も、体も熱い。
確かに、僕は桜さんが好きだ。
今の僕にとって生きる目的で、希望そのものだ。それだけだと……思っていた。
(なのに……そんな……)
考えもしなかった。『そんな感情』なんて。
だって、どう考えたって不釣り合いだ。あんなに凛とした人に寄り添える相手が、僕みたいな小心でビビりで軟弱な男のはずがない。
(それなのに、なんで……)
なんで、こんなにも頭が熱いんだろう。
なんで、こんなにも胸が
なんで、こんなにも……顔のにやけが止まらないんだろう。
(……駄目だ。全然落ち着かない)
こんなみっともない顔を桜さんに見られたら、今までの比じゃないくらいにドン引きされる。そうしたら、しばらく立ち直れそうにない。
(……そうだ)
さっき花鶯さんに、普段から気を見るようにと言われたことを思い出した。
だらしない頬を両手で叩き、気合を入れる。
辺り一面が、一瞬にして桜で満たされた。
「うわ……っ」
廊下から、柱から、庭の池から、草木から、あらゆるものから透明の枝が伸びて、桜色の花びらが咲き誇っている。周囲を渦巻く線は白が多く、花びらの色も白っぽい。今は夜だから、生命活動が緩やかということだろうか。
「綺麗……」
目の前に広がる光景は、僕の知っている桜並木とはあまりにも違う。
恐ろしいほどに幻想的だった。夢のようで
(綺麗なものは人の心を奪うって、いつだったか、お父さんが言ってたな……)
ずっと全身が火照って仕方なかったのに、いつの間にか、心がしんと静まり返っていた。嘘みたいに、穏やかな気持ちに包まれている。
本当に不思議な桜だ。このまま、ずっと見ていても飽きな――――
「――――っ!?」
不意に、鋭い痛みが頭の中を走った。
「――――うっ!」
鋭い痛みが引いたかと思えば、今度は鈍い痛みが押し寄せてくる。
このままでは頭が割れてしまうと思ったけど、長くは続かなかった。十数秒ほどで痛みは引き、僕は恐る恐る顔を上げた。
「…………あ」
目の前の桜は、いつの間にか消えていた。
「……はぁ……はぁ」
自分の息遣いが、気持ち悪いほど聞こえる。
気を見続けると疲労することは、さっきの授業で実感したばかりだ。花鶯さんも、けして無理はするなと言っていた。
だけど、頭痛なんて一言も……。
(……相当疲れたのかな、僕)
今日はもう休もうと立ち上がった。少し
夜風に若干震えながら廊下を歩いていると、ふと人影が目に入った。
(あ……)
思わず足を止めて、息を呑んだ。
駅にはいくつか、同じ造りの小さな庭がある。目の前の庭もその一つだ。
そこで、花鶯さんが舞っていた。
枯れ枝を
(そうだ……最初に入る社町は
つまり、花鶯さんが民衆の前に出て舞う。
僕や蛍ちゃんを指導する
(大丈夫かな……?)
慣れているとは言っていたけど、彼女も相当疲れた様子だった。
声をかけようか迷う。だけどそれ以上に、舞に見惚れている自分がいた。
この巫女舞には、派手な動きはそんなにない。
舞ではあるけど、あくまでも気を切ることがメインなので、気の周りを歩く、鉾鈴と柄先の布を同じ高さで保ちながら鈴を鳴らす、布を落とさないようにしながら刃を振るうという三つの動作を組み合わせているだけだ。
そんな地味な舞なのに、彼女の舞は
それこそ、心を奪われてしまいそうなくらい。
(……戻ろう)
結局、声をかけるのは止めた。かえって
花鶯さんに気付かれないよう