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第8話 崩壊

「井上、亜澄さーん!」


 それは近所に響きわたる程の大きな声だった。


 ドドドドドッと中から音がしたかと思うと、バンッと大きな音を立てドアが乱暴に開く。


「ちょっとっ! どういうつもり? 近所迷惑でしょ!」


 亜澄はぜぇぜぇと呼吸しながら、楓の隣にいる要をキッと睨みつけてきた。


「だって! こうでもしないと出てこないでしょ!」


 これでもかと大声を出す要。


「もう、いいから、家に入りなさい」


 亜澄はこれ以上うるさくされては適わないとばかりに、そそくさと二人を家へ招き入れた。


 要はにんまりとほくそ笑む。

 作戦成功といったところだ。


 気が気でなかった楓は、ほっと胸を撫でおろした。



 家に入ると、二人はリビングへと通される。


 亜澄はソファーにドカッと座り、足を組み腕を組む。なんとも女王様のような恰好だなと要は感心した。


「で、何?」


 ギロッときつい眼差しを向けてくる亜澄。


 威圧に怯え、一歩後ろに下がっている楓の代わりに、要は亜澄を真っ直ぐに見据えた。


「もう楓さんのことを苦しめないでもらえますか?」


 その言葉を聞いた亜澄は、なんとも不思議そうな顔をした。

 しばしの沈黙のあと、腹を抱えて笑い出す。


「ふふふっ、ははははっ、何言ってるの? 私がいつ楓を苦しめたっていうの?」


 本当にまったく見当がつかないというように、亜澄は肩をすくめている。


「心当たりはないと?」

「ええ」

「少しも?」

「ええ」


 余裕の笑みを見せる亜澄の姿に、要があきれたように長いため息をついた。


「楓さんのこと、ののしったり、無視したり、時には暴力振るうこと……ありますよね?」


 亜澄は驚きを隠せない様子で楓に視線を向ける。


「楓……あんたっ」

「楓さんは何も言ってませんよ、僕の勝手な推測です。当たりました?」


 要の意地悪そうな笑みを見て、亜澄は悔しそうに唇を噛んだ。

 しかし、すぐ不適に微笑む。


「ふんっ、何が悪いの? 楓は私の娘なのよ、どうしようが私の勝手でしょっ」


 亜澄は開き直り、堂々とした振る舞いを見せる。

 胸を張り、ちっとも悪びれた様子はない。


「楓さんはあなたの所有物ではない! 一人の人間です……楓さんのことを愛してないんですか? あなたの子供でしょう?」


 要のその言葉に、亜澄の眉がぴくりと動く。


「ふんっ、子供もいないのに何がわかるっていうの?

 あなたにはわからないのよ、絶対に……ね」


 下を向いてしまった亜澄はどんな表情をしているのかわからない。


「楓さんはあなたのことが大好きですよ、とても。

 今のあなたでは楓さんを幸せにすることはできない。……何がそうさせていると思いますか?」


 要の全てを見抜いているような態度に、亜澄は居心地の悪さを感じる。


「なんなの? なんであなたにそんなこと言われないといけないわけ?

 あなたに何がわかるの? 他人の家のことに口を出さないで!

 帰って! 帰ってよ!!」


 興奮した亜澄は血走った目で楓を睨んだ。

 その瞳からは憎悪や嫌悪、不の感情しか伝わってこなかった。


 この視線を向けられる度、楓の心は深く傷付き……死んでいく。


 自分はいらない存在なのだと、必要ないと知らされているようで。


「何! 母さんのこと苦しめて楽しい?

 そうやって母さんのこと苦しめて、楽しんでるんでしょ?」

「母さん、ちが……」


 ガシャーンッ!


 亜澄が楓目掛けて投げたびんが、壁にぶつかり粉々に散った。


 瓶が当たる寸前、要が楓を引っ張った。

 間一髪、楓は要の腕の中で難を逃れていた。


 亜澄は何かブツブツつぶやいている。


 目は血走り、息は荒く、興奮状態であることがわかる。

 こういう状態の人間は危険だ、何をしでかすかわからない。


「……井上、今はいったん引こう」


 危険だと判断した要は楓の肩を抱き、亜澄から離れようとする。


 楓は亜澄に向き直ると、今できる精一杯の気持ちを込めて叫んだ。


「母さん! 明日午後六時、小さい頃よく連れて行ってくれた、あの海で待ってる。……ずっと待ってるから」


 亜澄の瞳の奥が揺れた、楓を見つめ返す。


「な……んで……」


 大きく開いた目で楓を見つめる。その瞳は揺れ、激しい動揺が見て取れる。


 戸惑い狼狽ろうばいする亜澄をその場に残し、二人は静かに出ていった。





「あ……う……うっ」


 残された亜澄は、一人その場で崩れ落ちる。

 いろんな感情が溢れてきて、心や頭の処理能力が追いついていかない。


 亜澄は四つん這いになり、嗚咽を漏らし続けていた。


 そこへ、扉の影から様子を伺っていた美奈が姿を現した。


 亜澄の側へ近づいていき、そっと寄り添うと、優しい手つきで亜澄の肩を抱いた。


 驚いた表情の亜澄が美奈を見つめる。


「……母さん、もう楽になろう」


 美奈は優しく微笑みかける。


「お姉ちゃんも楽にしてあげよう。私も頑張るからさ」


 その言葉を聞いた途端、亜澄の表情は驚きと悲しみと苦しみ、色んな感情がないまぜになったように歪んだ。

 そして、美奈に何かを問いかけるような瞳を向けてくる。


 優しい顔をした美奈が亜澄の頭を慈しむように撫でた。


 突然の美奈の行動に戸惑っていた亜澄だったが、徐々に穏やかな表情になり、落ち着きを取り戻していった。


 それから、亜澄は美奈の胸に顔をうずめ、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。


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