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6.記憶喪失の都市と、「眠り男」の噂

「ああ。じゃあ明日。あれをお前の所へやるから」


 電話の向こうの相手は忘れないでよ、と念を押した。

 やれやれ、と東風トンプゥは外線を切った。

 ぴ、と音がして、蛍光緑の光が消える。

 時計を見る。そろそろあれは帰る頃だと彼は思う。あれはそう遅くまで外をうろつくようなことはない。少なくとも日付が変わる前には帰ってくる。そう言い聞かせてある。

 それにこの狭い都市でうろついたところでたかが知れている。

 ふう、と大きく伸びをすると、彼は首を回す。


 結構こっているな。


 ぽきぽきと首は音を立てる。


 下手に髪を伸ばしすぎたから、肩がこるのよ。


 先刻の電話の向こう側の相手の言葉がよみがえる。いつもと変わらず明るい声。

 別に伸ばしている気はない。ただ、いちいち伸びたから切るという行為が面倒なので、伸ばして適当に結んでいるだけである。


 でも切っていいものと良くないものがあるよな。


 彼は髪のことを指摘されるたびに、思わずにはいられない。

 少なくとも「都市」は「切り離す」という言葉とは無縁であって欲しかった。

 彼がこの都市にやってきた十八歳の春には、まだここは外部とつながっていた。彼は学生になったばかりだった。この都市に置かれた国立大学の工学部に入学したばかりだった。

 電話もまだちゃんとつながっていたから、仲の良かった妹が毎週電話してくるのを楽しみにしていた。

 切り離されたのは、夏だった。ずいぶんと暑い年だった。

 それまではこの都市でも電波は映像をも飛ばすことができた。今ではTVはケーブルしかない。

 かつてのTV放送を思い返せば、全国のネットをほぼ網羅しつつ、独自の路線も歩んでいた様な気もする。

 エネルギッシュな街だった。

 だが現在はそこは映像を飛ばすことを止めた。飛ばそうにも、飛ばせないのだ。この閉じた都市の中では。

 彼は会話中にとっていたメモを見返しながら思い当たる。

 閉じたのは、現在の「TM」、地下鉄の交差するあたりを中心とした半径十五キロの区域だった。

 その都市は、もともとこの国では規模や経済的な面において、№3の地位にあった。この国の中ではだいたい真ん中あたりに位置し、交通の便も良かった。

 だが№3とは言え、№2の都市との差は大きく、いつも背伸びしているような所があった。中央よりでも西よりでもないその曖昧な文化を何とかして独自なものであると主張しようとしているところがあった。

 東風はその都市のそういう部分が好きだった。そして十八の冬、その都市の大学を受験した。数カ月後、そして十年後の自分の運命など知らずに。

 都市の周りに見えない壁ができ、その街にずっと住んでいた人間は閉じこめられた。それからずっとこの街は閉じたままである。

 理由はいろいろ言われている。

 空間のエネルギーの配置のバランスが狂っただの、他次元とつながってしまっただの、当時のFM放送は延々そんな番組ばかり流していた。

 その時、公共電波はFMしかなくなっていた。ニュースも天気予報も、娯楽番組も教養番組も、この都市に二つあった民放FM局が慌ててその役を押しつけられた。ケーブルTVはある程度普及していたとは言え、市内全世帯にあった訳ではない。

 それまでラジオを聞かなかった人々も、物置の中を探してまで引っぱり出して耳を傾けた。誰もが不安になったのだ。

 そしてそのFMから流れた情報、街に流れる噂、当時は市役所と呼ばれていたところから出た「公報」――― 根拠のない情報、根拠のある情報、ひとしきり出回った後に、一つの噂が流れた。


 「眠り男」である。


 十年前、とある一人の人間が自主的に眠りについた。

 理由は判らない。ずっと眠りっぱなしである。

 その人物は、特別に生命維持装置だの付けている訳でない。むしろ「仮死」に近い状態で、「生きているのが不思議」な状態のまま、老いもせず延々と眠っているのだという。

 その人物の正体は、噂はあっても誰もはっきりしたことは知らなかった。噂にしても、いつの間にか立ち消えてしまうのである。

 ただ、若い男である、ということだけが不確かな噂の中でも一致していた。


 その説については、空間がどうの、という以前に非論理的であるとか、非科学的である、とかいろいろ言われてきた。だが、目の前にある景色自体に現実味が失われた時には、どのようなことでも説得力のあるものが勝ちである。


 一番大声で叫んだ者が勝つのだ。


 まあ「大声」とまではいかないにせよ、ある種の声が都市を埋め尽くしたと見られる。噂の出所は不明である。

 その噂が出始めた頃、もと「市役所」だった行政局に「公安部」が設けられた。

 「公安部」はその時から三人の「長官」が仕切っている。

 それ自体はさほど大きな組織ではない。三人が三人、それぞれの役割をもっているが、その三人は立場の上では同等だった。

 だがその三人の正体は判らない。ただ、このあふれる情報の中から、一つの仮説をとてつもなく大声、もしくはクリアな声で広めてしまった者達なのだ。

 別に一人の男が眠りについたこと自体、一つの都市にとっては大した問題ではないのかもしれない。常識で考えればそうだ。彼はただ眠り、都市はただ閉じただけなのかもしれない。

 だが、その男が空間を自分の眠りに巻き込んだ、としたら話は別である。

 東風は時々思うことがある。


 「眠り男」は、空間を閉じるために眠ったのかもしれない。


 あくまで仮説である。だが十年前にあれこれ取りざたされた説とて所詮仮説なのである。どんな信憑性のある説であっても、それが事実と確かめられなければ所詮仮説であり、どれだけ突拍子のない説であっても、実証されればそれが真実となる。

 だが確かなことは誰一人知らない。当の本人以外は。

 だが因果関係はともかく、「眠り男」が閉じた本人である(と最も原因である確率が高い)以上、彼を消去する訳にもいかない。

 空間を「閉じる」力があるのなら、空間自体を消滅させることもできるかもしれない。


 しれないしれないしれない…… 確かなことは何もない。


 そして現在、公安部は、かなりの権力が集中している。

 何しろ、もともと結構な規模の都市である。都市というのは、誰かの手によって動くものではない。多くの人間と、大量の物資と、溢れる情報と、たくさんの思惑で一人歩きするものである。

 都市は都市として勝手に動けばいい、だが締めるべきところは締めなくてはならない。何故ならそれまでの常識が通用しない部分が多いのだから。

 こうして、閉ざされた「都市のため」に「大気条例」が作られ、「空間条例」が作られる。

 煙草や排ガスといった大気――― ひいては「空間」を必要以上に汚すものは使用が限定される。

 そして「空間」の安定のために、音楽は保護された。数多くあるFM局は、必ず何処かで音楽が鳴っているようにブログラムを組まされた。時には例外もあったが。

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