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7.とある特定のアーティスト

 公安部が発足した頃、「都市のため」ある特定のアーティストのソフトが一切がっさい没収・回収・破棄された。

 その時はその特定のアーティストのそれが、「混乱している空間に悪影響を及ぼす」という説明を一応はされたし、市民もその時は納得してしまったが、実際には、本当の意味できちんとした説明はされていない。

 そして、いつのまにか、その「特定のアーティスト」は忘れ去られた。

 東風は時々それを思い出そうと努力はしてみるのだが、まずそれは失敗する。その名前を思い出そうとすると、急に別のことを思い出したり、ちょっとした物事が突然起きて、考えるどころではなくなるのだ。

 だが彼は何かひどく大切なことを忘れているような気がするのだ。その「特定のアーティスト」について。

 とは言え、実際のところ、東風のように、「努力」してみる者などこの都市にはいなかった。


 公安部の唐突なやり方に文句をつける市民もいないことも事実である。

 現実の不条理に圧倒されてしまった市民達は、とりあえずそれまでの日常と似た生活を続けることに懸命だったのだ。映像や書物や音楽を生活に必要としない者も居る。彼らが一番日常に立ちかえるのが早かった。

 結局、その「特定のアーティスト」が一体誰だったのか、それを忘れ果てていることも含め、誰からも疑問は全く出なかったのだ。その時も、今現在も。

 そしてその「閉ざされた」都市も、閉じたからと言って、全く外界からシャットアウトされた訳ではない。月に一度、満月の夜だけ、都市から出た八本の橋の一つが外につながる。

 もっとも、その橋自体、もともと無かったのだ。都市が閉じた時、いきなり現れたものである。誰かがその現場を目撃した訳ではない。だが、確かにその八本の橋は、「昨日まで確かに無かったけど、今日は確かにある」ものだったのだ。誰も目の前に確かにあるものを否定はできない。

 その橋のどれがその時「つながる」かは誰にも判らない。

 その時の空間のコンディションが最も良いもの、としか公安部の三長官も決して断言はしなかった。


 そしてその夜が貿易のチャンスである。都市の人間にとっても、都市外の人間にとっても。


 基本的には、公安部の許可をとった合法な会社のみが貿易に参加できる。

 だがどんな世界にも抜け道はあり、公安部自体もある程度の非合法は見逃していた。

 経済は基本的に行政に仕切られない。行政はせいぜい自然の流れに少し手助けするくらいである。下手に手を出せば、自滅するだろう、とその程度は公安の彼らも自覚していたらしい。

 そして現在その「非合法」組織は大小合わせて五十程度あった。小は家族単位のものから、大は構成員百人を越すものまで様々である。


 ―――東風は表向きは「OS」という地域の電化街で働く一店員だったが、裏の顔も持っている。

 かち、と鍵を開ける小さな音がした。彼は立ち上がり、居間のドアを開けて同居人を迎える。


「お帰り朱夏」

「ただいま…… だったな。時間は守ったぞ、東風」

「そうそう。帰ってきたら『ただいま』だったよな。仕事の方は上手くいったようだな」


 頭半分くらい彼女より大きい彼は、やはり大きな手で彼女の頭を撫でる。朱夏はそうされても微動だにしない。それに何の意味があるのが判らない、とでも言いたげに。 


「ああ。もう一つのバンドのベースの奴、だったな。教わった通り、対象が本物であるか確認した後、渡すものを渡して」

「ならいい。お茶にしよう。そっちに座っておいで」

「うん」


 お茶、と聞くと彼女は素直にうなづいた。部屋の真ん中に置かれた大きなテーブルに幾つか置かれている椅子の一つに朱夏はかける。

 旧式のアサガオ形のコンロに火を入ると、やがてしゅんしゅんと音を立てる湯気、カップやスプーンがアルミのトレイにぶつかって立てる悲鳴が朱夏の耳にも飛び込んでくる。


 ―――サイクルは幾つで、ホーンは幾つで、何秒―――


 一瞬にして数字に置き換えられるそれらは、それでも悪い気は起こさせなかった。


「いい葉が入ったよ」

「そのようだな」

「まだ熱い。気をつけろ」

「私は平気だが」

「普通の人間は平気じゃないんだよ」


 あっさりとそう口にしながら、東風は朱夏の斜め横の椅子に座る。テーブルにはまだ四つ五つ椅子が残されている。


「レプリカントが人間のフリをしたいのなら、気をつけなくてはならないんだよ、朱夏」


 判っている、と朱夏はカップの中の煮出したミルクティを吹き冷ましながらつぶやいた。 


「何かあった? 朱夏。笑えとは言わないけれど、どうも君、変な表情になってる」

「そうか?」


 そうなのか、と彼女は妙に納得したような顔になる。


「何かあった? それとも誰か変な奴が居た?」

「変な奴がいた」

「ほう」

「出口で待たれた。いきなり私が綺麗だとか言った。でまた会いたいとか」

「ほー…… それはそれは」

「私のギターが気に入ったのか、私自身が気にいったのか、よくは判らないとか、何とか言って…… 東風、面白がっているのか? 笑いたければ笑えばいいではないか。そんなひきつってないで」

「ああごめん。でもなあ」


 とうとう彼は声を立てて笑い出してしまった。

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