目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

11.地下鉄が止まり、彼女が泊まる。

「あ~まだ耳がわんわんしてる」

「性能の悪い耳だな」

「そんなねえ、身体を部品の様に言うもんじゃないよ」


 終演後、彼らはライヴハウスB・Bの正面にある地下鉄の階段を降りていた。


「だいたいお前何処までついてくる気だ?」

「送ってくよ。女の子一人で帰すのには忍びない」

「その必要はない。私は一人でも道には迷わない」

「そういう意味じゃなくって」

「じゃどういう意味だと言うんだ?」


 んー、と彼はやや困った顔になる。考えようによっては、自分自身が送り狼になりかねないのだ。

 先刻から止まらないのは耳鳴りだけではない。飛び跳ねるような心臓の鼓動もだった。

 これはまずい、と彼は思った。

 女の子と何かれしたことが全くない訳ではないが、こうも心臓の調子を狂わされるのは初めてだったのである。


「とーにーかーくー、普通はそうなの。知り合いの女の子が夜の街一人で帰ると言ったら、送りたいってのが男でしょ」

「そういうものなのか」


 ふーん、と彼女は感心する。


「ではそうすればいいさ。家は『KY』だ」

「結構面倒だな」

「別に面倒ならそうしなけりゃいいさ。だがたかが『SK』で乗り換えるだけだろう?」

「まあそうだけどね」


 「I2」の前から走っている地下鉄はH線という。これが一番古く、市民の昔からの足となっている。

 その線上にある「SK」は、M線につながっていて、それが彼女の言う「KY」という地区につながっている。


「私が頼んだ訳ではない。お前がしたいのだろう?」

「まあそうだ」


 確かにそうである。

 だが、かと言ってじゃあさよなら、と言ってしまったら、何かそこで全てのつながりが消えてしまうような気がするのだ。


「判った。言ったからにはそうする。『KY』だよね」

「『KY』だ」



「さっき耳がわんわんすると言っていたが、あれはどういう意味だ?」


 「SK」方面へ行くH線に乗り込んですぐに、彼女はそう訊ねた。


「え?」

「言ってたではないか。どういう意味だ?」

「ああ、あれね」


 何も特に意味があってそう言った訳ではなかったので、今の今まで安岐は忘れていたのだ。


「だから、さっきのバンド、結構凄い音だったじゃない。だから、耳の中にまだその音が残っているように感じられるんだよ」

「すると、それはずっと残っているものなのか?」

「いや? そんなことはないけど。だいたい今はもう大丈夫だし」

「そうか。じゃあ音が残っているということはないんだな」

「いや、そりゃ記憶にある歌とか音とかは、思い出したい時にぱっと思い出すことはあるよ」

「そういうものか? じゃあそういう時の音だの歌だのは、いつも同じか?」


 どうしてそういうことを聞くのだろう、と安岐は思った。

 夏の地下鉄は、基本的にエアコンを効かせない。窓は全開である。かなりうるさい。すると会話には大声が必要となる。したがって乗客は自然と無言になる。

 だがこの二人にはそれはさほど関係ないようだった。怒鳴り合いのように会話は続いていた。


「いつもってことはないだろ。だって記憶違いってことはあるし」

「別に聴きたくもない時に流れてくるってのはないのか?」

「そういうのは…… 少なくとも俺は無いけど」

「そうか」


 彼女はやや気むずかしそうな表情になる。


「何かあるの?」


 彼女は答えなかった。答えたくないという様ではない。どう言っていいのか迷っているように安岐には見えた。

 そうこうしているうちに地下鉄は「SK」に着いた。

 あれ、と安岐は長い乗り換え通路を歩きながら思う。ぞろぞろと歩いてくる人の足どりがどうにも重そうなのだ。

 何となく嫌な予感がした。

 そしてそういう時の予感とは的中するものである。乗り換えのホームには、銀の車体に青紫のラインが入ったM線が止まっていた。

 ちょうど良かったのかな、と彼は一瞬思ったが、その期待はすぐに裏切られた。扉は全て閉まっていた。

 柱にはついさっき貼られたような紙があった。そして、げ、とそれを見た途端安岐はうめいた。


「『M線停電事故により復旧の見通し立たず』つまりM線は動かないってことか?」

「そのようだね」


 朱夏の無表情な声に、何てこったい、と安岐はつぶやいた。


「困ったな…… タクシーで帰る程今日は持ち合わせがない」

「着払いにしてもらえば?」

「そうすればいいのは判るのだが、そうしていいのか聞いたことがないし」

「家族のひとだろう?」

「家族? と言っていいのだろうか?」


 何やらいろいろあるようなので、安岐もそれ以上は追求しなかった。その代わりに出たのは次の言葉だった。


「だったらウチ寄ってく?」

「お前の家か?」

「うん。俺のとこは『SK』の駅の近くだから」


 そこまで言ってから、慌てて、別に変なことはしないから、と彼は付け足した。すると朱夏は大真面目な顔をして言う。


「変なことをする可能性があったのか?」

「ないとは言わないけど……」


 何だかよく判らない、と言いたげに彼女は首をかしげる。ああ駄目かな、と安岐は自分の言い方のタイミングの悪さに内心ため息をつく。


 だが。


「お前の部屋には電話があるか?」

「ああ」

「じゃ行く」


 朱夏はあっさりと答えた。


「いいの?」

「構わない」


 その単純さは嬉しくもあるが…… 同時に彼にはやや心配にも思えた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?