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38.それは誰のために

「俺と朱夏が出会ったのも、彼女が暗闇が嫌いなのも、あんたは知っていたんだ」

「……」

「確かに偶然に偶然が重なったとは思ったけれど… お膳立てされていたなんて、知らなかったよ」 

「安岐?」


 目を大きく広げて、朱夏は安岐を見上げた。

 安岐にしても、そこで腹が立つのは子供っぽいとは思うのだ。

 何しろ目的はひどく重要なことなのだ。だが、何か無性に腹が立っていた。止まらない。だがそれは、彼が自分をだましたからということではないのだ。

 何処がどうなっているのか安岐には判らなかったが、おそらく彼は自分以外の何かにもっと広く網の目を張っている。

 そしてその中で、自分が駒の一つのように扱われている。目的のために。

 確かに目的が大きければ大きいほどそれは仕方がないことなのかもしれない。そしてその目的は、自分が望んだことでもある。だが。それでも。


「君が怒るのも判るよ」

「あんた俺の心まで読めるの?」

「いいや、それは無理だ。俺は『彼女』じゃない。だから俺のできることなんて、たかが知れてる。『彼女』だったら、君達をぽんと捕えて『行ってらっしゃい』の一言で送り出させるさ。でも俺にはせいぜいこんなことしかできない。それにもうこれより先は、俺がどうしたからって仕方ない。君達が了解しなくちゃ」

「だから、こうやって俺達を拉致してきたって訳?」

「人聞きが悪いなあ」

「事実だろ」

「事実だね。でも俺はどうしても君達に協力してもらいたい」

「嫌だ、と言ったら?」


 HALは黙る。腕を組んで、無表情と傲慢の混ざった視線で安岐を見据える。そして安岐はその視線を受けとめる。

 彼もまた、本気なのだ、と安岐には判る。本気でなかったら、こうも拉致した相手にべらべらと喋る訳はないのだ。だが、感情が拒否している。何処かで感情が、そのまま従うんじゃない、と拒否しているのだ。


「『川』に沈んだ人達だけど」


 ぴく、と安岐の身体が震える。


「あの人達は、沈んではいるけれど、死んではいないんだよ」

「え」

「あの『川』は、便宜的に『川』と呼んでいるだけ。。だけど水がある訳じゃないよ。あれは次元の狭間。そうだね、ここと似たようなところ」

「ここと? ここは通常の空間じゃないっていうのか?」

「嫌だね、最初から言ったじゃないか。この空間にはそうそう生身の人間は呼べないって。地下鉄を媒体にして君たちを運んできたんだ。列車というのは、向こうとこっちをつなぐものだからね」

「それで『川』に落ちた人達は…… じゃあ、生きてるのか?」

「死んではいない。でも生きているとは言いにくい」


 ほら、と彼はショウケースの中の自分を指す。


「この俺は、死んではいない。だけど呼吸している訳ではない。動きもしない。だけど死んでいない。あの時点で時間が止まっている」

「それと同じように、落ちた人々は、その時点で時間を止められているってこと?」

「ご明察」


 ぱちぱち、とHALは手を叩く。


「『川』はこの都市と『外』を区切っている次元の境だ。都市が元に戻れば、『川』に沈んだ人々の時間も元に戻る。死んではいないから、彼らは彼らの家族の元に帰ることができる。君の兄さんのようにね」

「兄貴のことを……」

「黒の公安が、逃走者を『川』へ叩き込む理由が判る? 無論あれも知ってるんだ。『川』が何であるかなんてね。今まで黒の公安は一人として殺してはいないよ。奴にそんなことができる訳がない。俺だってさせたくはない」

「じゃあ都市が元に戻れば…… 兄貴も……」

「そう。君の兄さんも元に戻るんだよ。やや君と歳が近付いてしまうのは仕方ないけどね」


 心が動く。

 兄のことが気がかりだったのは、自分だけではないのだ。

 友人だった壱岐もそうだし、だいたい自分達には、隣の県に両親が居るはずなのだ。本気で連絡を取ろうと思ったら取れた。それを未だにしていないのは、兄のことが口に出せないからだったのだ。


 だけど。


 安岐は協力しようと勧める自分の心を押さえる。


「じゃあ何でHALさんは、今になって突然そうしようと思ったの?」


 やっと形になった疑問を口にする。


「え?」

「あんたは確かに俺に嘘をついてないとは思う。これが全部嘘だったら、すごくよく出来た筋立てだと思う。だけどあんたは何か隠してる」

「隠して?」


 そんなこと、と彼は笑う。だが安岐の表情は真剣になる。


「何でBBのFEWを呼ばなくてはならないの」

「それは」

「あんたの言ったことでは、彼がこの都市を元に戻すということに引っかかってくる理由が判らない」

「……」

「それが判らなくちゃ、彼を呼んでくるとしても不利じゃないのか? だって彼は有名人なんだろ? 『外』のヒットチャートの常連なんだから。あんた自身が表だって動けなくとも、あんたを守る公安の誰かを使ってもいい。この都市の代表が彼らを客として呼び寄せてもいいはずじゃないか」

「まあそれはそうだね」

「大して学はない俺だってその位考えつくんだよ? それとも彼にはそうするのでは来れない理由があるって言う?わざわざ俺達を使わなくてはならない理由があるっていう?」


 すぐに答えが返ってくるとは、さすがに安岐も思わなかった。だから彼は思ったことを次々に口に出す。出さなくてはならない、と思った。


「それに、どうしてあんたは、今になってそうするんだ?」


 びく、とHALの肩が震えたように見えた。


「俺が何か言ったから、という訳じゃないはずだろ?」

「君の言ったことも大きいよ」

「でもそれは、引き金みたいなものだ。あんたは何のために、そうしようとしてるんだ?」


 自分が言ったことに彼は驚いていた。

 言ったことは勢いだった。ほとんど言いがかりに近い、と思っていた。だが次の瞬間、それが彼の何処かに鋭く突き刺さったことに気がついた。


 そうか。


 そして彼は言い直す。


「あんたはそうしようとしているんだ?」


 大きな目が、一杯に見開かれる。


 その時だった。扉が開いた。


「うわっ!」


 安岐はとっさに朱夏の身体に手を回す。突風がショウケースの向こうから吹き込んでくる。吹き込んだ風は、その部屋を回って、安岐達の背中を押した。

 バランスを崩す。なるべくだったら左腕からは落ちたくなかった。まだすり傷が痛いのだ。

 風が身体を押し出す。

 いや違う、吸い込まれているんだ。

 安岐は呼吸が半ばできない自分に気付く。それでも両手を固く組んで、その中の彼女は離さないように。

 ちら、と開ければ風で涙だらけになる目を、一瞬開けた時、安岐は見た。

 ショウケースの上で、動かないHAL。だけどその手が、白くなるまで握られているのを。


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