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58.あの夏のロック・イヴェント

 その話が出たのは、さらに時間が経ってからだった。


 あの夏のロック・イヴェントは「奥地」だった。

 都会に慣れ親しんだ人間にとっては、交通機関から見放されたような所である。終電ならぬ「終バス」がトリまで見られるかどうかの生命線だったらしい。

 一体誰が最初に企画したのか、と朱明は思わずにはいられない。


「…どう考えてもこの顔ぶれと炎天下って似合わないと思うが…」


 主催のラジオ局の人がぽつんとつぶやくのが聞こえた。

 まあ一年前だったらそうだろうな、とその時の彼は思った。

 その時出場が決まっていた四つのバンドは、当時の同類項くくりの名目としては、「化粧系」だった。ステージに出る時に必ず化粧をし、派手な格好をするバンド。その場合、音楽性は特に関係はない。

 だが一口に化粧系と言っても、中味ときたら今はほとんど素顔で演っている「もと」化粧系だったり、そもそも女性のナチュラル・メイクのようなものしかもともとしていない「薄」化粧系だったり、あげくの果てはとりあえずウケるためにカツラで長髪を演じていた「にせ」化粧系までいる。

 さすがにその話を知り合いのライターから聞いた時は朱明も爆笑した。

 だがお日様を避ける出身が出身ゆえ、さすがに皆暑さには弱いようで、日陰へ日陰へ、エアコンのある方へ、とひまわりの反対に顔を向けてしまうのは仕方なかったのかもしれない。何と言っても、その年の暑さは半端ではなかった。毎日毎日気温は体温に近づいていたし、実際その日もそうだった。

 だが朱明のバンドのメンバーは元気だった。

 前日のリハーサルの隙間を縫って、売店で海パンを買ってはプールではしゃぐ奴もいたし、のんびりと青い空を眺めながらビーチパラソルの下、芝生に転がってる奴もいた。

 そして彼はと言えば、床にべたりと座り込んで、延々ドラムと付き合っていた。その年の彼はそうだった。もともと好きで職になってしまったドラムだったが、その年は特にその可能性を引き出したいと、時間を惜しんでドラムと付き合っていた。

 と。


「朱明お前、元気だなあ…」


 のんびりした声が背後から聞こえた。

 HALが立っていた。長くまっすぐにしている髪を後ろで無造作に結び、顔半分を隠すようなサングラスをかけていた。

 たっぷりしたシャツを無造作に羽織っているだけなのだが、ときどきのぞく、白いくせに全然焼けもしなければ赤くもならない肌が妙に不思議に見えた。

 よっこいしょ、と声を立てて彼は朱明の横に座り込む。


「あのなHAL。かけ声掛けて動きだすってのは老化の証明だとよ」

「どぉせ俺はバンドのおじいちゃんだからな」


 彼は形の良い眉をややコミカルに動かしてみせた。どういう訳か、ずっと手は後ろに回している。


「結構手こずってる?」


 HALはセッティング途中のドラムを眺めて訊ねた。


「んー… いや、そういう訳じゃねえけどな。野外だからちょっと余計に構ってやらねえといい鳴りしねえからなあ」

「広いよね」


 HALにつられて朱明はふっと空を見上げた。


「青いよな」

「うん。夏ってこういう色だよね。よくさあ、西から首都へ移動する時の途中にこういう色の空が多いよね」

「へえ」

「高くてね。結構途中に自然がたくさんある地域あるじゃん。あのあたり」


 彼はまだ閉ざされる前の「都市」の名を出した。


「新幹線じゃあなあ」

「昔はよく鈍行にも乗ったよ。夏とか安い切符買ってさ、適当に乗り継いでくんだ」

「ああ、お前もやったんだ?」


 そういえばと彼は思い返した。


「お前にも放浪癖あったっけ」

「あったあった。やったやった。で最終逃すと、深夜の鈍行って本線じゃ一本しかないからさ、すごく眠いの我慢してじぃっと待ってるんだ」

「あぁ判る判る。でも俺はどっちかというと待ってる間、その辺の連中とわいわいやってたくちかな」

「へぇ。さすが」


 まるでそんなこと思っていないような口調で彼は言った。


「それにしても暑いね」


 HALは言った。そおだな、と朱明はうなづいた。


「大気が重さを持ってるみたいだ」


 だが言った本人の言葉には重力がない。


「確かに重いなあ」


 そう朱明が言った時だった。じゃん、と彼は薄オレンジと薄紫の裏表のうちわを取り出した。


「扇いであげよう」


 そして彼はぱたぱたと風を送った。


「…それいいなあ。一本置いてってくれ」

「やーだ。これは俺の」

「ケチ」

「その代わりこれをあげよう」


 何処に隠していたのやら。彼はじゃん、と再び同じうちわを取り出した。

 その夏の「営業」の際配りまくったものである。どちらにも、彼らのバンドの名やアルバムの名が印刷されている。


「お前の背中は何でも出てくるのかよ」

「あれ、知らなかったの?」


 彼はくすくすと笑った。


「それにしてもよくこんな暑い所で作業できるね」

「んー? 別に暑いのが特別好きって訳じゃねえけどな」

「HALさーん、朱明さーん」 


 差し入れ、と向こうからやってきたスタッフからHALは缶コーラを受けとった。

 はい、とHALは一本朱明に渡した。缶は濡れていた。どれだけ急いで持ってきたとしても、瞬く間にそれは汗をかく。ぷしゅ、と音をさせてプルを押し込むと、朱明はそれを口につけ、一気に飲む。すると汗が一気に吹き出した。

 ふぅ、と一息つくと、首にかけていたタオルで口と額をぬぐう。

 その朱明の様子がいかにも気持ちよさそうに見えたのか、やや不機嫌そうな顔になって、HALはつぶやく。


「気が知れない」

「何が」

「暑いの、俺は嫌い」

「じゃ向こうへ行けば?」

「こんな中なのに相変わらず黒ばっか着てるし」

「あいにくこれは俺の趣味なの」

「悪趣味」

「いえいえ」

「よく判らない奴」


 不毛な会話だ、と朱明はくっと笑う。HALとの会話はたいていこんな感じなのだ。


「俺だってお前はそう知れたもんじゃねえし」

「へえ」


 HALは不機嫌転じてくすくすと笑う。そういう所が知れないんだ、とは朱明もあえて言わない。だが彼は続けた。


「でも朱明はさ、俺と絶対似てる部分あるんだよ?」

「何で」

「だってアレが見えるじゃん」


 HALは真顔になる。そんな顔は、本当に久しぶりだった、と後に朱明は思った。


「俺にしてみりゃ、お前が気付いている方が不思議だったよ」

「そお? でも判るじゃん。あそこでさ」


 再びHALはあの「都市」の名を出す。


「俺にまとわりついて離れないんだから…お前さ、アレが本当は何なのか知ってる?」


 時々缶コーラに口をつけながら、変わらない調子でHALは訊ねた。


「いや? お前こそ知ってるのか?」


 まあね、と彼はうなづいた。意外だった。


「知ってるといや知ってるし違うといや違う。でもあいまいなものだし、…まあとりあえずは俺以外には実害はないし」


 あいまいねえ、と朱明はつぶやいた。


「今でも見える?」


 HALは不意に訊ねた。え、と彼は問い返した。


「何」

「アレ。あの影」

「見えない。お前は?」

「俺も見えない。ここじゃ見える訳がない。つまりはそういうものだよ」

「そういうものか?」

「そ」


 喋ったせいか、頭を使ったせいか、喉の乾きを覚えた。朱明は缶を取り上げる。勢い余ってアルミの赤い缶はぺこ、とへこんだ。


「…げ、空…」

「ばーか。さっき一気に飲んだじゃん」

「そーだった…」


 くすくす、と笑ってHALは缶を自分の頬に付けた。そしてまだ冷たいな、とつぶやくと一口含む。


 と。


 じゃあまた、とHALは立ち上がった。


「クーラーボックス詰めを注文しとくよ」


 ああ、と朱明は答えた。

 ひどく冷たい舌だった。

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