目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

73.真昼の夢

 十年前。

 HALが眠りについて、都市が閉じた年。長い秋。長い冬。

 朱明にとって、夜は、長かった。そしてひたすら暗かった。

 彼はその長くて暗い夜を必死で駆け回った。駆け回らずにはいられなかった。

 そして願っていた。こんな夜が終わるのを。だがその夜の中に出ずには居られなかった。

 夜に眠りたくはなかったのだ。

 夜の闇の中の眠りは、とても優しく、そして時にひどく残酷だった。彼が住み着いた部屋は、とても居心地のいい所だった。だが、その中で明かりを消して眠りにつくことが、その頃ひどく難しかった。

 閉じたまぶたの裏に、あの時の光景が、浮かび上がる。その時、何もできなかった自分が。起きるはずの無い渦が。動かなくなったHALが。

 後悔は絶対しないはずだった。そういうタイプではないのだ。反省はしても後悔はしない。過ぎた物事を繰り返して思い出し、楽しむ趣味はなかったはずなのだ。

 だが、あの光景だけは。

 闇の中に、浮かび上がる、同じ光景。頭の中から決して離れない。そしてそれは、完全に無力だった自分に突き刺さった。

 彼は夜に動いた。そして昼間、仮の眠りにつく。身体が疲れはてているので、意識を無くすのは簡単だった。

 昼の眠りは、身体の疲れを完全には取らないが、明るいまぶたの裏は、とりあえずあの光景を映し出さない。

 それだけで当時の彼には十分だった。


 ―――HALが姿を現したのは、そんな昼の眠りの中だった。

 またあの光景か、と彼は夢の中ということも忘れてため息をついた。

 らしくない、と自分でも考えていた。

 しばらく彼はぼんやりとその光景を眺めていた。結局自分は、この時点から逃れることができないのか。

 だがやがて、それが何か違うことに彼は気付いた。

 それはいつもの光景ではなかった。夜毎、暗い目の裏に浮かび上がる、見覚えのあるそれではなかった。

 そこは、白かった。そして明るかった。

 眠っている身体自体が疲れているせいだろうか、その白いものが何なのか、頭がぼんやりとして、はっきりとは判別できない。だが、彼の目には、HALはその中に半ば埋もれて眠っているように見えた。

 しばらく朱明は、その場に立ち尽くしていた。自分の目で見ているものが信じられなかったということもあるし、どうしていいのかがまるで判らなかったのだ。

 どのくらいそうしていただろう?やがてHALは、ゆっくりと目を開け、起きあがった。朱明は目を見張った。

 するとHALは言った。


「……こんなところで何してんの」


 朱明は耳を疑った。

 夢の中で本当に音が聞こえるのかどうか、なんて考えたことはなかったが、確かにその時自分の中にに響いたのは、彼の声だということは理解できた。

 自分が聞き違えるはずがないのだ。この声を。


「何って……」

「こんなところに来るもんじゃないよ」


 簡単で辛辣な言葉。彼のよく知っているHALのものだった。


「来るもんじゃないって、俺が来たくて来てる訳じゃねえ」


 ふーん、と彼は立ち上がった。

 その時、何かが彼の身体からぽろぽろとこぼれた。何だろうと朱明は思った。白っぽいものだった。粉雪のようにも見えた。だがそれが何であったのかどうしても思い出せない。


「じゃ早く帰りなよ」


 長い栗色の髪をざらりとかきあげて、HALは容赦なく言う。


「帰れと言われても」

「帰れない? 道が判らない?」


 朱明はうなづいた。


「情けないな」


 ふらり、とHALは歩き出した。そのたびに何やら白いものがぽろぽろと彼の身体から落ちる。

 やがて朱明はその正体に気付いた。

 それは花だった。


 それからたびたび彼は朱明の真昼の夢の中に現れた。

 特に何を話すという訳でもない。彼らが「外」に居た頃と同じように、他愛のない重力の無い言葉を投げたり、不毛な会話を交わしたり、そんなものだった。

 でも夢だろう、と朱明は感じていた。

 所詮夢だ、と。


 だから、彼がそう訊ねた時も、そうだと思っていた。


「疲れているようだね」


 ある時HALは突然そう言った。ああ、と朱明は簡単に答えた。そしてなんとなく夢は便利だな、と考えていた。滅多に聞けないそういう優しげな言葉が聞けるのだから。


「最近全然叩いてないんだ?」

「まあな。そんな暇ねえし」

「でも、叩きたい? ドラム」

「そりゃあな」


 それは本当だった。「外」に居た頃、ドラムは、彼の最も大切なものの一つだった。

 無くしたところで自分は死にはしないだろうが、ひどく辛くなるだろう、と思われるもの。そういうものは彼にも幾つかあった。ドラムはその一つだった。


「やれなくなって、余計にそう思うな」

「そう……」

「お前何処かで、『歌うことは楽しいと思ったことはないけど、無かったら苦しい』って意味のこと言ってたろ?」

「ああ…… 言ったかもしれないね」

「俺にとって、それがドラムだったから」

「そうだね。だったら無くしたら苦しいね」


 HALは軽くうつむいた。だが言葉にはやはり重力はなかった。だから、朱明は油断した。


「だけど、今はな」

「今は、何?」

「閉じた都市は、守らなくてはならないだろ」


 その時HALの表情から笑いが消えた。だが朱明はそれに気付かなかった。そしてHALは訊ねた。


「何で?」 

「何でって……」


 どうしてそう問われるのか、朱明には判らなかった。


「こんな都市なんて見捨てて、満月の夜に出ていけばいいんだよ。そうすればお前はまた音楽ができるじゃないか」

「馬鹿野郎そんなことできるかよ」


 間髪入れず朱明は答えた。


「何で?」


 HALは顔を上げた。視線が絡む。困ったような顔で自分をにらんでいるのに朱明は気付く。


「何でって……」

「だってお前、それが無くては辛いんだろ?」

「そりゃそうだけど……」

「だったらとっととここから出ていくのが得策じゃないの?」

「だけどお前はここから動けないんだろ? 今」


 形の良い眉が、軽く寄せられる。そして言葉がこぼれ落ちる。


「……馬鹿じゃないのお前……」

「馬鹿だろうな」


 朱明は苦笑する。そして全く夢というのは便利だ、と思う。ここが夢だと思えば、言いたいこと、言いたかったことをも言える。

 夢の中の相手が訊きさえすれば。

 どんなことでも。

 今までには言えなかったことも。言いたかったことも。訊かれさえすれば。

 だけど相手は、訊かなかった。ただ訊かない代わりに、不意に。


 だがそれから彼は夢の中に現れなくなった。夢の中に現れなくなった代わりに、別の身体で彼の現実に現れた。


 そしてあの再会だった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?