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96.あきらめの悪い安岐とあきらめのよすぎるHAL

 黙々と、作業は続く。東風は「工房」に泊まり込む日々が続いていた。

 「家族」なら面会に来ることも出来るので、夏南子はちょくちょく彼に会いに来ていた。そして週末だけはさすがに藍地も彼に休みをくれた。


「変な仕事よね」


 夏南子は言った。

 彼の部屋に越してきた彼女は、話を聞くたびにそう感想を述べた。帰るたびに、少しづつ彼女の体型が変わってきていることに彼は気付いていた。ひどく不思議な気分だった。


「何じろじろ見てるのよ」


 彼女はそんな視線を感じるたびにやや照れくさそうに言うのだが。

 作業が始まってから一か月半が過ぎていた。約束の期限の半分である。

 作業自体は順調だった。細かい作業だから神経を使う。だが時間が経つにつれて、それも慣れてくるものである。

 毎日毎日この顔を見ていると、朱夏をチューニングした時のことを思い出す。

 そしてそれだけではない。何か、自分の中で鍵をかけられたままになっている箱が開きかけているような、そんな感じがするのだ。

 今回の雇用者である「赤の長官」の藍地は、現在自分がチューニングし直しているものについては、容れ物なんだ、と説明した以外、何も言わなかった。

 さすがに彼も訊いた。それは作業に必要なような気がしたのだ。

 だが赤の長官は、それ以上は言わなかった。作業には問題ないよ、とやや申し訳なさそうな顔で笑っただけだった。

 そんな顔をされてしまうと、東風もそれ以上聞けなかった。


 だけど。


 彼は思う。


 容れ物、と言った。

 では容れ物が一つも容れ物で無くなってしまったら中身はどうするんだろう?。



「ほら見てよ安岐」


 噴水のへりに座ったHALは別の映像を映し出す。噴水はあの時間のまま、ライトアップされて美しい。

 時間の流れは、この空間と現実の空間では違っている。外の空間が一ヶ月半経とうが、安岐の実感としては、一週間くらいしか経っていない。

 しかも肉体的時間は全く経っていないのだから妙なものである。疲れもしない、空腹にもならない、眠くもならない。

 するとさすがに彼も退屈にはなってくる。仕方がないから、時々気紛れにやってくるHALの映し出す現在の光景を彼は一緒に見ていた。


「今これは朱夏を通して見てるBBのライヴ……」

「明るい」


 目がくらみそうな、光の中。


「ステージの上だよ。これは」


 ステージの上。そう言えば自分が最初に彼女に会った時、彼女はギターを弾いていた、と安岐は思う。


「これは俺も考えもしなかったな。朱夏がギタリストか……」

「でも歌うより朱夏には似合うよ」

「そう? 確かに一番最初は俺もギタリストだったけど」

「そお? でもHALさんは歌う人だったんだろ? ねえ、何か残念だな」

「何?」

「俺は、要するに、十年前のあの時、あんたのライヴを半分も見ていないんだろ?」

「そうだね」


 くすくすと彼は笑う。


「でももうずっと昔のことだよ」

「でもさ、何かさ、やりかかったことが途中で終わらされるのって、気持ちよくないし」

「……そうだね。そう言えば、ずっと歌っていないな」


 だろうな、と安岐は思う。どんなこともこの都市では許される彼も、それだけはできなかったのだから。


「そうだな…… 確かに」

「無くしたら生きてくのが辛いほどのことなんでしょ?」


 そう、と彼はうなづく。


「あれは、俺の…… いろいろ心の中でわだかまっていることとか、何か上手くいかないこととか、そういうのを上手く空へ放ってやるいい方法だったんだ。でも、どうなんだろ」

「ん?」

「今の俺は、自分が昔どんなことを考えて、どうやって歌っていたのか、うまく思い出せない」

「思い出す程のことかな」

「え?」

「たぶんHALさん、それはあんたの身体じゃないからかもしれないね。あんたの身体はそれを知ってると思う」

「でも安岐、それじゃ絶対駄目だよ」

「俺は、あきらめるの嫌いなの」


 安岐はすっぱりと言う。


「HALさんは、あきらめが良すぎるよ」

「安岐がしつこいだけじゃない?」

「確かに俺はそうかもしれないけれど、それでもHALさんは特にひどいよ」

「……そこまで言う?」

「言うよ」


 安岐は止めない。


「だって言うのが俺の役目だと、俺思ってるもの」

「言うだけならたやすいよ」

「でも誰かがあんたに言ったことがあった?」


 いいや、と彼は首を横に振る。


「何か、言い辛かったらしいけど」

「じゃあ俺って結構貴重でしょ」


 全くこの子供さんは、とHALは安岐の頭をこづいた。

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