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97.意外なアンコール曲

 サポート・ドラマーは奇妙な表情をして譜面を受け取った。


「できない?」

「FEWそれ、俺に言ってるのか?」


 くっ、とサポート・ドラマー氏は笑う。できない訳ないのだ、この職人は。

 だが渡された譜面の正体が、長年の職人ドラマーの表情を変え、やや困惑させる。


「……しっかしあの人は変わったベース弾いてたんだなあ……」


 土岐ははあ、とため息をつく。


「こんな歌ってるベースなんて滅多にないですよ」

「当時だってなかったし、今だってないよな。ギターはどうだ? 朱夏」

「まあ別に何とかなるとは思うが」


 彼のコピーでなくていいのか、と朱夏は付け足して、本来のサポート・ギタリストの方を向いた。


「それに布由、全然お前の声と曲とは合ってないと思うぞ」

「当然」


 ぬけぬけとそう言う。

 BB及びサポート・メンバーの手に渡ったのは、「あのバンド」の曲だった。お遊びでやるにはシビアだ、という意見もなくもなかった。

 だがそれが必要なのだ、と布由は思う。

 その曲は、彼らの曲の中でも、さほど重要な位置にあるとは思えないし、当時、人気投票をしていたとしても、さほど上位に食い込むとは思えない。

 だが、その曲を彼が実に気持ち良さそうに歌っていたのを布由は思いだしたのだ。

 もちろん他にも気持ちよく歌える曲はあっただろう。だが、そうなってくると、自分達では全く演奏できない類になってしまうのだ。その曲はぎりぎりの線だった。


 ツアーが始まってしばらく見なかった夢を見たのだ。

 夢の中の彼は、やはり何かを言っているのに、うまく伝わらない。受け取る自分の疲れか、眠りが浅いのか、そのへんははっきりしない。ただ、昨夜の夢は、一言だけ、ひどくクリアに伝わってきたのだ。


「歌いたいんだ」


 真っ直ぐに、自分を見据えてそう言ったのだ。



 そして満月の夜がやってきた。


 夕方から都市周辺で待機していた車が、ゆっくりと開かれる道を進んでいく。

 雨が降らなくてよかった、と布由は思う。

 正確なスタッフ数は二十八人だった。同数の公安の職員がずらりと内側では待機している。彼らはこのツアー・メンバーと入れ替わりに「外」へ出る役目を負わされている。

 BBの二人とサポートメンバーは、普通車とワゴン車に分かれて乗り込んでいた。橋の上で人数を確認されて、同時に同数の職員が外へと送り出される。

 布由は窓から橋の下をのぞき込む。白い霧がどんな時にもかかっているそこは、どれだけの高さがあるのか判らない。


「これが朱夏の言っていた『川』?」

「そうだ」


 簡潔に朱夏は答える。


「……次元の境?」

「らしいな」


 布由はそれを奇妙な光景だ、と思った。

 確かにそうなのだ。

 水の一滴も見える訳でもない。それでも橋が掛かって霧がかかっていれば「川」なのだ。

 そう言われても確かに違和感はない。

 確認と交代を終えた車は、ゆっくりと橋の向こう側へたどり着く。誘導員が赤い棒ランプを上下に振る。

 どうやら指定の駐車場があるらしい。車を運転する土岐は誘導員に手を挙げて合図すると、指示されて方向へ曲がった。

 しばらく進むと、同じように赤いランプを振っているのが見えた。ゆっくりとその方向へ進むと、やがて広い場所が出た。

 コンクリート作りの倉庫が立ち並ぶ、その前のアスファルトの広場には蛍光塗料でラインが書かれている。

 赤ランプが左右に開く。止まれ、と誘導員は指示を告げる。そして止まった彼らの車に近付いた。


「……番の位置に止めて下さい。そうしたら向こうの車に乗り換えて下さい」


 どうやらこの都市では車を自由に乗り回す訳にはいかないようだ、と布由は思った。彼らが乗っているのは小型車ではない。

 言われるままに、その車の中に居た布由と土岐と朱夏は、指定の車に向かった。そこにあったのはごくごくありふれたマイクロバスだった。

 マイクロバスには既にスタッフやサポートメンバー、マネージャーの大隅嬢らが乗り込んでいた。彼ら三人が最後らしかった。少しでも都市内で動く車の量は減らしたいという当局の意向が布由には見えるようだった。


「……」

「どうしました?」


 いきなり窓の外に視線を飛ばした布由に土岐は声をかける。


「何か、聞こえないか?」

「別に俺には」

「そうか」


 人員の確認が済むと、すぐ車は出発した。


「宿泊先へそのまま向かわせていただきます」


 一緒に乗り込んでいた公安の職員がバスガイドよろしくそう案内した。


「そして、そこであなた方と我々の代表と会っていただきます」


 布由は身体を固くする。

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