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105.その曲は「葛藤」

「こないだはありがとう」


 HALは水が止まった噴水の、指定席化している場所に座っていた安岐に言った。


「別に俺は大したことはしてないよ。HALさんに言われた通り、布由を案内しただけ」

「いや充分」


 HALはうなづく。そして腕を伸ばすと、いつもより大きめに空間に四角形を描いた。


「……これは?」

「これから始まるライヴの用意。あのさ安岐、こないだ、うちのライヴのこと言ってたよね」

「うん。途中で終わってしまったからって」

「安岐は、俺が歌うの、聞きたい?」


 その質問を彼にするのは、多少の勇気が要った。安岐はほんの少し考えて、そしてはっきりと言った。


「聞きたい」


 安岐は彼がその質問をする意味が判るようになっていた。この全然精神的に成長しないひとは、俺から勇気を欲しいんだ。

 歌いたいのに、その理由が見つからない。だから俺に背中を押してもらいたいんだ。

 だったらその位はしよう。


 安岐は思う。


 俺はあんたが落ち込んでいるところへ一緒に堕ちることはできない。人の気持ちが判らないと言われたっていい。それが俺だ。

 だけど俺はあんたが落ち込んでいたら、なぐさめてやることはできる。勇気が欲しいなら、勇気づけることはできる。背中を押して欲しいなら押してあげられる。

 その程度だけど、確かに俺にはそれができるんだ。


「ありがとう」


 にっこりと彼は笑う。


「今日のこのライヴのアンコールにね、彼は俺の曲を歌う。ほら」


 画面に歌詞カードがクローズアップされる。タイトルが大きく、流れるような文字で書かれている。


「その声はこの都市全体のFM局を通して、この都市全体に広がる。何でその曲を彼が歌うか判る? 俺に歌わせたいんだよ、彼は」


 どんな曲? と安岐は訊ねる。


「安岐はあの時、青いアルバムCDも持ち出しただろ?」

「え?」


 そういえば、と彼は思い出す。


「ま、あれから俺は、『会社』に安岐が置いたあれも回収させてもらったけどね」


 にやりとHALは笑う。ああそうですか、と呆れたように安岐は言い捨てた。


「あの中の、目立たない位置にある目立たない曲。俺達の曲としては、わりと『らしさ』が少ない曲だったな」

「へえ」

「だけど俺の言いたいことは結構詰まってた。それに彼が気付いたかどうかは判らないけど」


 どんな詞? 再び安岐は訊ねる。するとHALはふっと視線を下に落とした。


「葛藤」

「葛藤?」

「自分のしたことで、自分自身を延々責め続ける自分が居る。息もできない程苦しいこともあるんだけど…… それでも生きてく以上生き続けなくてはならない、だから誰もこれ以上俺を責めないでPlease don't blame it to me 、という…… のだったかな」

「へえ…… あんたって本当に全然成長しないんだねえ」

「あほ」


 HALはこぶしを握って、軽く安岐の頭を真上からこづいた。


「でもそんな苦しい歌詞、よく歌ってたねえ」

「何かね、そうなってしまったんだ」

「書くと?」


 そう、と彼はうなづく。


「別にそうそう俺も暗いひとではなかったと思うんだけど…… 何か、いざ言葉にして考え出すと、自分の中のそういう面が出てくる。まあ曲に引きずられているところもなくはなかったけど、それでも時々メンバーには妙な顔されたり、あれこれ言われたりしたな」

「どうして? どういうこと言われたの?」

「いやまあ、『お前頼むから窓から飛び降りたりしないでくれ』とか……」

「……」



「長官、お電話です」


 黒い服を着た部下の一人が呼びに来た。朱明は何だ、と独特のだるそうな低い声で応答を返す。


「誰からだ?」

「あ、黄色の長官からです」


 何だろう、と思いながら彼は近くの電話の受話器を取る。無線関係はこの都市では全く効かない。従ってこの会場内には特別に取り付けられた電話のケーブルがあちこちでずるずるとはい回っていた。


「もしもし?」

『あ、朱明? ちょっと、落ち着いて聞いてよ』

「何だよ、忙しいんだが……」

『んなこと言ってる場合じゃない。あの城の地下が、開いているんだ』

「え?」


 「お城」の地下。それは彼らも入ることができない空間になっているはずだった。

 「橋」と同じで、下っていく階段を歩いていくと、何故か地下へはたどりつけず、今まで居た場所へ戻ってきてしまうのだ。


『うちの地下鉄関係のセンサーが妙な反応していたから、ちょっと調べさせたら、開いている、と』

「ちょっと待て、じゃあ…… 中へは入ったか?」

『まだ。さすがにうちの連中を入らせる訳にはいかない。俺がちょっとこれから見てくる』

「ああ…… 危険なことはするなよ」

『何を今更』


 何処かで聞いたような言葉を残して、芳紫は通信を切った。朱明は元から苦虫を噛み潰したような顔になりやすい男だが、その度合いを更に強めて唇を噛む。

 ひどく嫌な予感がしていた。これから起こるだろうことより悪いことなど、現在の彼には想像はできなかったのだが。

 前日のミーティングは、HALが朱夏との話を終えたところで終わった。

 正直言って、朱明にも芳紫にも藍地にも土岐にも、あえて話し合うことなど、大して無かったのだ。

 しなくてはいけないことは全て手配した。現場で当日行うことも、前日の夜には全て指示が行き渡っている。

 結局は心構えだけだったのだ。残される側の。

 だがやはり煮えきらないものは誰の中にも残っていた。もちろん彼の中にも残っていた。彼は今でも思っている。何故HALじゃなくてはならなかったんだろう?

 過去を振り返って、それをつつき回すのは彼のポリシーには反する。だがそうせずにいられないこと、というのは確かにあるのだ。

 どうしたものか。


「あ、黒の長官だ」


 聞き覚えのあるメゾソプラノが、彼を呼び止めた。


「朱夏」

「昨日はどうした? 集まりが終わったらすぐに引き上げてしまったな」


 周囲は意外そうな顔で彼の黒の公安の部下達がこの様子を見ている。

 この長官に平気な顔で話しかける少女なんて! 

 驚きの表情が彼らの顔にはあった。朱明はその部下達をぎろり、とにらむと、作業の手を休めるな、と一喝した。


「なるほど、それで恐がられているのか」

「何の用だ?朱夏」

「長官は私の問いには答えていないぞ。それとも答えない権利を行使するのか?」


 はあ、と彼はため息をつく。まあちょっとこっちへおいで、と彼はスタンド席まで彼女を引っ張って行った。


「広いな」

「広いな。結局俺達はここではできなかった」

「そうだな。公会堂が最後だと布由から聞いた」

「それで…… いや、俺が先に答えないとお前は答えないんだよな。でも俺はあまり答えたくはないんだが」


 だったらいい、と朱夏はひざの上に両肘を立てた。

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