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106.朱明と朱夏

「で、何の用だ? 朱夏」

「聞きたいことがあったんだ。黒の長官に」

「何」

「長官が、HALの、一番大切なものなのか?」

「……何故? HALがそう言ったりしたのか?」

「いいや」


 朱夏は首を横に振る。そんな訳はなかろうな、と彼は思う。そうであっても、なくても、彼は口にはしないだろう。その具体的なところは。


「でも私には判る。別に言葉にする訳ではない。だけど何かしら、こぼれるものはあるだろう?」

「こぼれるもの?」

「土岐が言ったんだが」


 ああ、と朱明は彼女の方を向く。


「誰かが誰かを好きな時は、別に具体的に好きだ好きだと言わなくとも、言葉の端々や、行動の端々に、それが現れるらしいんだ。その好きだって思いが、こぼれおちてくらしい」

「それが?」

「だから、土岐は言ったんだ。HALにはそれが感じられなかったって。布由と一緒にいるHALには、布由に対するそれが感じられなかったって言うんだ」

「そんな馬鹿な」

「どうしてそう思う?」

「どうしてって……」

「HALは私が『外』に居る間、私をアンテナにしていたんだが」


 やや撫然とした表情で朱夏は話し出す。


「夢を通して、布由といろいろ情報交換していたらしい」


 それは初耳だ、と朱明は思う。

 いや知ってはいた。方法はともかくとして、直接HALが布由とコンタクトしていたことは。


「でも『外』はHALの直接関わることのできる空間じゃないから、彼は私をアンテナにするために外へ出したんだ。今なら判る」

「それで朱夏は、その内容を知っているのか?」

「いいや、それは知らない。だけど、朝になると、何かしら残っているものがあるんだ」

「残っているもの」

「似たものを私は知っている。今だって判る。安岐に会えなくて私はひどく胸が痛い。あの痛みに似ている」

「でもそれは、布由に対してかもしれないだろう?」

「違う」


 朱夏は断言した。


「布由に、じゃない。だって、HALはこのままだったら、布由を失うことはない。失うのはこの世界であり、長官じゃないのか?」

「でも俺とは限らない」

「違う、黒の長官、お前だ」


 誰にでも変わらない口調がここでも飛び出す。


「残るのは、感情だけじゃない。身体の記憶も、残っているんだ。HALと寝ていた奴を、布由とお前しか、私は知らない。布由じゃなければ、お前しかないじゃないか? そんな大切な奴は」


 朱明は瞳を大きく見開いた。それでは、本当に。


「だから、黒の長官」

「……朱明だ」

「……? ……私と同じ意味なのだな」

「何」

「私の名は夏を意味する。お前の名もそうだ。奇遇だ」


 くす、と彼の顔にも笑みが浮かぶ。すると朱夏は彼の左の肩をぐっと掴んで、顔を寄せた。


「朱明、HALを連れ戻せ」


 何、と彼は思わず問い返していた。大きな目同士の視線が絡まる。だがそこには強い緊張はあっても、それ以外のものはない。


「連れ戻せと言っても」

「今ではない」


 朱夏は彼が想像してであろうことを先回りして言う。


「その瞬間の、後だ。私も彼に、あきらめるな、とは言った。だけどHALが、それだけで、あの体質の奴が、あきらめることを止すとは思えない」

「確かにな」

「だから、奴を見つけたら、無理矢理にでも、引きずり出せ。そうすれば、もしかしたら、何か活路が見つかるかもしれない」

「それはいつだ?」


 ぺん、と朱夏は朱明の額を叩く。


「それは、お前の役目だ」


 朱夏はそう言うと、関係者控え室にいるから、と言い残して立ち去った。朱明はそのまましばらくスタンドから下を眺めていた。

 やがて、部下の一人の声がスタンド席へ出る通路から聞こえた。


「何処行ってたんですか! 長官…… 黄色の長官が電話、待ってますよ」


 朱明はのそり、と立ち上がる。


「つながっているのか?」

「はい」


 彼はスタンド側のロビーに置いてあった電話を取った。もしもし、と言う。すると、思わず耳を離さなくてはならない程の大声が飛び込んできた。


『朱明! 何処行ってたんだ!』

「……うるせえなその声…… もっとヴォリューム落とせよ……」

『んなこと言ってる場合じゃない! 本体が』

「……本体…… HALの、本体か?」

『それ以外に何があるよ! とにかく、それが、無いんだ!』 

「何!」


 今度は向こうが受話器から耳を離しただろう。叫んでから朱明は気がついた。


「……ちょっと待て、つまり、それは」

『持ち出せるのは、二人しかないだろ?』

「HAL自身と『彼女』」

『HALは、どうだ? 気配がするか?』

「いいや」


 彼は首を横に振る。全くと言っていい程、HALの気配はない。向こうの空間に行っている。おそらくは。


「だとしたら、『彼女』か…… 『彼女』は目覚めたんだな」

『俺達はどうしよう。捜した方がいいと思うか?』


 朱明は受話器を持ち変える。

 捜す?

 だが捜したところでどうしようもない。それを「彼女」が動かしたのなら、なおさらだ。


「捜すことはないだろうな」

『朱明』

「できることは、全部やった。後は俺達の管轄じゃないだろう」


 少し間が空く。不自然な間に、彼が切ろうとした時だった。芳紫は訊ねた。


『お前はそれで、いいのか?』


 いいのか、と言われても。


「なあ芳ちゃん、俺はそう物わかりのいい奴じゃない」


 朱夏の言葉が思い出される。


「だけど、それは今じゃない。その時が来れば、俺は」

『朱明?』

「とにかく、俺は、俺のできることをする。芳ちゃんもそうしてくれ」


 そう言って彼は受話器を置いた。



 午後五時、開場。開演予定は六時半だった。入場人員が多いこと、それに長い間、こんな大がかりなライヴを行ってなかったことから、開場時間は早めに取った。

 低めに押さえた料金のせいか、宣伝の効果か、滅多にない大がかりなライヴのせいか、彼らが人気があるせいか、そのどれもが原因ではあるだろうが、チケットはこの都市だけで完売していた。

 六時には大半の座席が埋まっていた。控え室で、客席を映すモニターを見ながら朱夏は凄い、と声を上げる。


「こんな行儀のいい会場初めてだ」

「行儀がいいって、朱夏、お前ねえ……」

「だってそうじゃないか。どの会場だって、こんなに定刻をぴしっと守ろうとするところないぞ」

「ここは特別だよ、朱夏」


 ぽんぽん、と土岐は彼女の背中を叩く。布由も土岐も、朱夏も、既にステージ・メイクは済ましていた。

 メイクとスタイリストはこの都市には入れなかったから、自分のことは自分でやった。オキ氏とサポートキーボード氏はメイク無用だ、ということで既にスタンバイしている。

 予鈴(1ベル)が鳴る。地元イヴェンターによって、開演前の注意が流れる。舞台袖に待機するメンバーの顔に緊張が走る…… 一名を除いて。

 PAオペレーターも緊張する。SEが鳴る。客電が落ちる。


「布由さん」


 何、と布由は相棒の方を振り向く。


「がんばりましょう」

「今更何を言ってるよ」


 ぱん、と十数年の付き合いの相棒の手を叩く。いい音がした。

 これが最後だ。

 土岐は気付いていた。十数年前、この人と見込んでついていくことを決めた相棒。

 当初はバンドだった。ギターもドラムも居た。だけどそれは入れ替わり立ち代わり、入ったと思えばやめ、やっと何とかなると思えば意見が合わずクビ。

 そんなことを繰り返して、結局最初の、メンバーを集める前の状態に戻ってしまった。もう駄目か、と思った時に布由は言った。


 結局俺達でやるしかないよな。


 彼はそれでも自分を信頼してくれた。土岐はその時のことを今でも鮮明に思い出せる。その時思った。この人がその歩みを止めない限り、自分は何があってもこの人とは離れないと。

 だから引き留めたいと思うのも真実だ。


 だけど。

 あなたが選んだことですから。


 土岐は目を伏せる。


「せーの!」


 ステージ・メンバー達は一斉に手を叩く。

 歓声が聞こえる。

 光が一斉に開く。

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